ふざけるな。
叩きつけた黒玉の破片が床に飛び散り、その跡から黒い煙が立ち籠める。
煙は辺りを埋め尽くすように広がるとやがて収縮を繰り返しながら形を露わにしていく。
「なに、これ……?」
ーー獣だ。
こんな形をした生き物は知らないし輪郭はぼやけるようにノイズが走っている。
だがゆらゆらと揺れている一尾の尻尾と、全てを砕くことが出来そうな大きな牙が、少女がこの物体を生き物と認識たらしめている理由だろう。
「……っ!」
ふと獣が周りを一瞥したかのように見えた瞬間、通りのインテリアを破壊しながらニフィーリアの身体は壁まで弾き飛ばされていた。
「ぐぅぅっ……!」
何が起きたか分からない。 仮にも組織で死線を渡り歩いてきた彼女が自分が何をされたかも分からず、ただの一撃でのされてしまっていた。
痛みが激しく立ち上がることも出来ない。 追撃を予想して備えようとすると、ふと横にいた少女が目に入る。
彼女は獣を見て目を見開き「まさか……そんなはずはっ!」と動揺する様子を見せる。
「危ないっ!」
獣はこちら側に興味を示さず即座にもう一方の少女に詰め寄った。
黒い腕をメキメキと音を立てながら伸ばし、そのまま床を掃くように殴りつける。
咄嗟のことで反応が遅れた少女は掃き出し窓を破壊するほどの勢いで吹き飛ばされ、バルコニーから下の方へと落ちていった。
「Gyraaaaaa!!」
「くっ……!」
咆哮をあげながら獣が階下に落ちた少女を仕留めに向かう。
その間ニフィーリアは何とか立ち上がれるほどまでに回復し、腕を抑えながらバルコニーに駆け寄った。
「なによ……これは……。」
崩れた二階から外を見下ろすと先程も不気味に感じていた黒い獣のシルエットの全体が見え、その禍々しさに身体が恐怖を訴えてくる。
それだけではない、アレが通った道の草木がその足元から零れ出た黒い液体によって腐敗し枯れてしまっているのだ。
「一体なんなのよあれは!?」
騒ぎを聞いて庭へとやってきた使用人がみな一様に悲鳴をあげているなか、その間を縫うように武装した兵士達が駆けつけてくる。
「領兵団が通るぞ、道を開けてくれ!」
「誰か人が倒れている! 急ぎ確認を!」
「お嬢様だ! お嬢様が倒れているぞ!」
駆けつけた兵士達は少女を囲うように陣取ると獣と相対する。
「全軍守備陣形展開!」
「魔術師部隊、第三術式用意!」
大盾を構えた兵士達の後ろで軽装の部隊が術式を言祝ぐ。
「撃てぇぇぇ!!」
無数の光の奔流が獣めがけて降り注ぐ。
テヴュール総王国が誇る四大公爵家の部隊の攻撃だ、並の生物では塵すら残らないはず。
だがーー
「馬鹿な……!」
「傷一つ負っていないだとっ!?」
「Gyaoooooo!!」
獣は魔術の波状攻撃を意にも介さず瞬時に兵士に接近すると次々と蹂躙を始める。
「駄目です防御術式が効きません!」
「張った先から次々と割られていきますっ!」
「わぁぁあああああっ!!」
前方に陣取っていたものから弾き飛ばされて戦線離脱していく、幸い死傷者は出ていないがこのままでは時間の問題である。
目の前の光景を見せられニフィーリアは唇を噛む。
「なにがあの子を始末する為だけのものよ、こんなの災厄そのものじゃない……!」
男が水晶を手渡してきた時のことを思い出す。 あの男はこんなものを野に放つ気だったのか。
このままではアレが邸の外に繰り出し、街の人達にも被害が出るのは明白だ。
「Gugugugugu……。」
獣がのそのそとゆっくり歩みを進めていく、その先には先程バルコニーから放られた少女が倒れていた。
少女は何度も立ち上がろうとするが支えになるはずの左足が本来ありえない方向に曲がってしまっている為に思うように動けない。
「Gyagyagyagya!」
「コイツ……っ!!」
獣は明らかにこの状況を楽しんでいた。 少女が自分から逃げることは叶わないと分かっていてわざと歩みを遅くしているのだ。
「アアアァァァァっっ!」
バルコニーから飛び降りたニフィーリアは懐から数枚の術符を取り出して目の前の巨体に投げつけた。
その身体に触れた札から順に音を立てて爆発し獣の視界を遮ることに成功する。
「私の力じゃこいつには敵わないっ! けれど、あの子を逃がすくらいなら……っ!?」
袖口に仕込まれたワイヤーで少女の元へと滑り込むように移動する。
だがその瞬間、自身の腹部から鈍い音が鳴り響くのを感じた。
庭先を見据えていたはずの視界が反転し背中に叩きつけられる衝撃が走る。
「ガハァっ!」
ズルズルと地面に落ちていく音だけが深く耳に残る。
(こ、れ肺……潰されたかも……。 息が出来な……い。)
「おぇ……っ!」
すぐさま体勢を立て直そうとするがこれまで感じたことのない鈍痛と吐き気が襲いかかり、喉奥からこみ上げてくるものをたまらず地にまき散らす。
赤く濡れていく地面を見下ろしながら愚痴の一つも言いたくなってくるが口から溢れたのはヒューッヒューッと空気を切る音だけだ。
さらに絶望は続いた。
「Grsyaaaaaaa!!」
「あぁっ! ぅぅ……っ!」
息も絶え絶えの彼女の目に飛び込んできたのはそんな自身が救おうとした少女の腹部に爪をたて、その苦悶の表情に快楽を得ている獣の姿だった。
皮膚を裂くように徐々に爪を深く刺し込んでいき、流れ出た血を一滴も溢すまいと舐め取っている。
(……ふざけるな。)
散々あの少女を殺そうとしてきた自分がこの怒りを抱くのは間違いだということは分かっている。
だがあれだけ幼い少女を痛ぶり、その苦痛に顔が歪む様を見て楽しむなど許されるはずがない。
「くそっ! う……ごけぇぇっ!!」
悲鳴をあげる身体に鞭をうち、無理やり動かそうと力を込める。
だがそんなこちらの様子など意に介さず、嬲ることに早々に飽きたのか獣は少女の身体を持ち上げるとその倍はある大きな口を開いた。
(……あぁっ!)
ギチギチと締め上げられ今まさに食われようとしている少女の顔が、幼い頃に引き離された自身の大切な家族の面影と重なった。
「あああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!!!!」
弱音を吐く身体に、喝を入れるように慟哭を上げた死に損ないの女は、折れた腕を無理やり動かしてワイヤーを展開し、少女を庇うように獣との間へ飛び込む。
その瞬間視界に入り込んだのは、赤い鮮血が舞い骨が砕け散る音と、目の前の少女が見せていた驚愕の表情だった。
(ああ、良かった……。 何の罪滅ぼしにもならないけど……。)
「あな……が、無事……よかっ……た。」
「なぜ、きみは……っ!」
幼い少女が何かこちらに語りかけているが耳が遠くなっているせいでうまく聞き取ることが出来ない。
やがて薄れゆく意識のなかで最後に目にしたのは、少女の瞳からゆらりと発せられる金色の光だった。