空へ。
おおよそ1500文字の短編です。
エレベーターガールは、もうどこにもいないんだなと思いながら「12」の上にある「R」と書かれたボタンを押した。
エレベーターガールという呼び名が現代に相応しいかは分からないが、もうほとんどその存在が無いのだから誰も気にしないだろう。
後ろを向くと、ガラス越しに通りが見える。通りには人が大勢いて、黒い頭が黒い服を着てせかせかと動いている姿が次第に小さくなっていく。
おそらく、少しくらいの茶髪や、チャコールグレイやネイビーのスーツを着ている人たちもいるのだろうが、もうここからでは黒にしか見えない。
今日のわたしは、色の褪せた青いデニムの上に息子が着なくなったトレーナーを着ている。トレーナーは若者に人気があったブランドのようで、大きくそのブランドロゴが入っているが、息子がわたしにくれたということは今はもう誰も着なくなっているのだろう。
つまり廃れたということだ。
なぜ、こんなものを着て来てしまったのかは分からない。かといって、スーツを着る気にはなれなかった。
もうスーツには、半年ほど袖を通していないからだ。
チンという音が聞こえた。まるで本当に小さな鐘を鳴らしたような音だった。ゆっくりとエレベーターの扉が開くと、青々とした空が視界に入り込んでくる。
わたしはエレベーターから降りようとした。すると先程までいなかったエレベーターガールが、「お足下に御注意ください」と言い「開」のボタンを押し続けていた。
わたしはエレベーターから降りるときに彼女の顔をちらりと見た。
少しだけ妻に似ているような気がした。
この屋上には背の高い柵があって、ぐるりと囲いがしてある。
わたしは、まっすぐに柵に向かって歩いて行く。
中心には今時めずらしく、たくさんの子ども向けのアトラクションが置いてあった。百円玉を入れるとリズムが流れながら回る小さな乗り物や、うさぎやくまや、たくさんの動物達がいる。
わたしの息子はくまの背中に乗るのが好きだった。息子は、うさぎでもロボットでもなくて、くまでなければ乗らなかった。
ロボットが空いていても、うさぎに女の子が一人しか並んでいなくても、必ずくまの列で待った。
柵まであと半分くらいというところまで来ると、一人の男の子がいるのに気が付いた。あらためて辺りを見渡すと、他には誰もいなく屋上は静かだった。
男の子は背中を向けていて、わたしからはその背中しか見えない。男の子は、くまのアトラクションの前に立っているが、アトラクションには誰も乗っていない。
いつもなら気にしないだろうが、何故かわたしは男の子が気になった。
自分の親からもらった百円玉を無くしてしまって途方にくれているのなら、あげても構わないと考えると、自分で自分を少しだけ鼻で笑った。
こういう考え方をするのは、どのくらいぶりだろうか。思えば、わたしにも希望に溢れたこともあったが、けれども最期までわたしは何の変哲もない男だった。
男の子の背中は、すぐそこだ。
わたしは声帯を奮わせて声を出そうとした。
その瞬間に、男の子が振り向いた。
「お父さん、どうして?」
目に涙を溜めて、そう言葉を出した男の子は間違いなく、幼い頃のわたしの息子だった。
次の瞬間、わたしの目にはアスファルトの地面がすぐそこまで来ているのが見えた。
初投稿です。
駄筆とは存じますが、読んで頂いてありがとうございました。