秋祭り…はてさて如何とするべきか…
コロナコロナのこのご時世。
神事祭礼の実施の是非に、悩まぬ関係者は居ない。
神事祭礼は人間の生活活動に必要不可欠な物ではない。
無ければ無いで生きていく事はできる。
しかし、『ハレの日』と言う言葉があるように、非日常を過ごす特別な日が人生を豊かにする。
何の変化も無い日常、『ケの日』を続けるつまらなさは多くの人が感じている事だろう。
『このご時世だから中止もやむを得ない』
何と甘美な言葉であろうか。
何と心惹かれる言葉であろうか。
心動かされない関係者は居るまい。
だが同時に本心のところは実に悩ましい。
簡単に人は言う。
『収束したらやれば良い』
だが、収束はいつなのか?
何をもって収束とするのか?
再開の時、技能は残っているのだろうか?
道具・器材は残っているのだろうか?
資金は大丈夫だろうか?
そして一番重要な、人の気概は残っているのだろうか?
人は二度死ぬと言う。
肉体が死んだ時と忘れられた時、人は死ぬのである。
ならば忘れられた氏神もまた、死ぬのではなかろうか?
詣る人も居らず、神事祭礼も行われず、忘れられる。
それはあまりにも寂しすぎよう。
小さな町の小さな神社の小さな小さな秋祭り。
百円玉を握りしめて団子を買う子供。
くじ引きに当たり、一等景品を掲げて嬉しそうなおばさん。
振る舞い酒に酔っ払い、担がれて帰るおじさん。
投げ餅の多寡を比べる兄弟。
二日酔いで練り歩く神輿。
鳴り響く号砲、耳を劈く爆竹の音、漂う硝煙の匂い。
小さいながらも賑やかで、「今年も良い祭りだなぁ」と笑い合う。
ほんの2年前まであった、そんな『ハレの日』を再び送れる日は来るのだろうか?
何とかしたいと思うのはエゴなのだろうか?
例年通りとは言わぬ、それでも何かしらを行いたいと思う。
しかし、何ができようか?
如何ともし難きこの現状、さてもさても悩ましく、ただ秋の日は過ぎて行く。
大事を取るならやらぬ方が良いのは百も承知。
百どころか千も万も承知。
何処も苦しい時期である。
おそらくこれを機に辞めてしまう町や村も多くあろう。