電車に乗れ!
平日の早朝。
仕事へ向かう良太郎は、駅前で嘔吐するふくよかな体格のサラリーマンを見かけた。
「飲み過ぎかよ。勘弁してくれよな」
良太郎は、汚物を目に入れないためにも少し遠回りをして、駅の改札へと向かった。
この行動が、最悪な一日の始まりを告げるきっかけとなることを知らずに…。
中小企業に勤める良太郎は、電車で通勤している。
毎朝8時15分の電車に乗って会社へと向かうのだが、この日は、嘔吐するサラリーマンのおかげで、一つ後の電車に乗ることになってしまった。
次の電車は、8時30分。
「結構ギリギリだな」と心の中で囁いた良太郎は、改札をくぐり、ホームで電車の到着を待った。
「1番ホームに〇〇行きの電車が参ります。黄色い線の内側に立ってお待ちください」
構内アナウンスが響き渡り、電車が到着した。車内は混み合ってはいるものの、なんとか座る場所を確保し、5つ先の駅に到着するのを待つことにした。
隣には、釣り竿とクーラーボックスを持った60代くらいの男性が座っていた。
「こんな平日の朝っぱらから釣りかよ…良いご身分だなァ」と良太郎は思った。
すると、そんな良太郎の視線を感じたのか、男性が話しかけてきた。
「お仕事ですか?」
「ええ、まぁ」
「私もほんの2、3年前までは満員電車に揺られながら、毎日通勤していました。それが、定年を迎えた今となっては毎日やることがなくてね。朝から釣り三昧というわけですよ」
どうやら男性は、定年退職を迎え、釣り三昧の余生を送っているようだ。
「良いじゃないですか。のんびりできて」
良太郎は気を使って言葉を絞り出した。
「次は〇〇、次は○○」
「そうですかね…あ!私、次で降りるので」
そう言い残すと、男性は後方車両の方へと向かっていった。おそらくは、エレベーターの近くで降りたいのだろう。
男性にお辞儀をした後、良太郎はスマホを取り出し。今日一日のスケジュールを確認しようとした。
あっという間に、次の駅へと到着。
だが、スケジュールをチェックする良太郎と同電車内にいる乗客たちは、この後、ある事件に巻き込まれるなどということは知る由もなかった。
電車が走り出した。次の駅までは20分ほどかかる。ここの間隔だけは毎日異様に長く感じるのだ。
その時だった。「おーい!」
後方車両から、とてつもなく大きな怒号が聞こえてきた。
周りはざわつき始める。
すると、後方車両から良太郎の乗る前方車両へと、人が波のように押し寄せてきた。
「なんだ、なんだ。」乗客たちが雪崩のように倒れ始める。
良太郎も思わず立ち上がってしまった。
その時、一人の女性が大きな声でこう叫んだ。「銃よ!銃を持っているわ!」
後方車両から悲鳴が聞こえてくる。
良太郎は思わずそこに立ち尽くしたまま、身動きが取れなかった。
「銃?なんのことだ。まさか…」
頭の中で考えを巡らせる良太郎だったが、目の前に人々が押し寄せている光景を見て、これが現実であることを理解した。
さっきの駅を出発してから5分ほどが経過している。次の駅までは、まだ15分ほどかかる。
この地獄のような電車内で、15分も落ち着いていられるとは到底思えなかった。
乗客の一人がスマホを取り出し、電話をかけている。
「〇〇行きの電車内に銃を持った男が…」現在の状況を説明しているように聞こえる。
「クソ、クソ、クソ。なんで、こんな目に!いつもよりも遅い電車に乗ったばかりに!」
良太郎は後悔した。あのサラリーマンが嘔吐しているすぐ横を通っていれば。命の危機に立たされることはなかったのだ。
まさか、気分を害したくないがために、遠回りをしたことが、こんな最悪な状況を招くとは。
「さっきの釣り竿のおっさんは、命拾いしたな」ふと、そんなくだらないことさえ頭をよぎる。
次の駅到着まで、あと10分。
犯人のいる後方車両には、まだ数人が取り残されている。
どうやら、良太郎のいる車両へと逃げ切ることができたのは、危機を察知し、すぐさま逃げることに成功した人たちのようだ。
しかしながら、決して安全とは言えなかった。
なにせ、この電車は高速で走り続けており、乗客は外に出ることさえできない。
いわば、超高速で走る箱の中に閉じ込められているようなものなのだ。
「次の駅に警察を待機させるとのことでした」
同じ車両の乗客がそう話しているのが聞こえてきた。
「次の駅で停車できるのかしら?もしも、運転席にまで犯人の手が及んでいたら。」
それもそうだ。犯人が単独犯だという確証はない。目的すらわからない。
犯人の話す言葉は、良太郎のいる車両には全く聞こえてこないのだ。
良太郎たちは、このほんの少しの希望にすがることしかできなかった。
そうこうしているうちに、また5分が経過し、次の駅に到着するまで残り約5分となった。
その時だった。
「パン!パン!パン!」と3発の銃声のような音が車内に響き渡った。
犯人が発砲したんだ。
良太郎は状況をすぐに理解した。
車内では乗客たちが悲鳴を上げ、一斉に身をかがめて自分を守った。
後方車両からは悲鳴や怒号が飛び交っている。どうやら。何かを争っているようだ。
良太郎のいる場所からは何も見えない。一瞬だけ、2人の男性がもみ合っている様子が見てとれた。
乗客と犯人か?それとも仲間同士で言い争っているのか?はっきりとはわからない。
そのうちに電車は速度を緩め、ついには警察が待機中だという駅に到着した。
ドアが開くと、警察の機動隊が待機していた。
「突入!電車に乗れ!電車に乗れ!」
後方車両で、警察が突入したようだった。
良太郎は、警察官数名により先導され、電車を降りた。
「落ち着いてください。もう大丈夫ですよ」
犯人は一人だったようで、しっかりと制圧したという会話も聞こえてきた。
良太郎は、ホームへと降り立った後に、ふと、犯人が機動隊により取り押さえられた現場に目をやった。
そこには、一人の男性が立っていた。
定年退職後の釣り生活を謳歌している、あの男性だった。
良太郎は下車したはずのあの人が何で?と思ったが、真実は知る由もなかった。
車両の中を見た限りでは、どうやらあの男性が犯人と揉み合いになりながら、乗客たちを救った英雄のようだった。
一歩間違えれば、命を落としかねない状況で、犯人に立ち向かう勇気があったとは驚きである。
良太郎は、ただただ事件を陰から見ていただけの傍観者に過ぎない。
ホームの階段を下りながら、良太郎は、毎日生きていく中での一つ一つの選択が大きな影響を及ぼすということを改めて実感させられたのだった。