大人と子供
蒸し暑い地上から抜け出し、地下道に入ると、一匹の蜘蛛がいた。
懸命に糸をだし、自分だけのお城を作っていた。
虫なんて入りっこないようなこんな道に、どうして入り込んでしまったのだろうか。
自分の意思?それとも、流れに身を任せた結果?
どちらでもいい。どっちにしろ、近日中にこの蜘蛛は死ぬだろう。何の感慨を持つわけでもなく、ただそれがもうすぐ死ぬことだけを理解し、私は歩を進めた。
向かう先は学校である。
地下道を抜けると、じめじめした空気が私を襲った。
この空気のなか、学校前の坂を上ると思うと気が滅入る。朝から、気が滅入ることばかりだ。
寝る前に聞いたお母さんとお父さんの声、10位の牡羊座、ぶつけた小指、玄関を開けた時だけ降った雨。
舌打ちしたって何にもならないと思うものの、ついついしてしまいそうになる。
あーあ、お母さんに怒られちゃう。お行儀良く、淑女らしく、年相応の振る舞いを。
お母さんが大好きな三拍子だ。
年相応。
私は最近、それがよく分からない。
勉強は嫌いじゃない。運動よりも疲れないから。
好きかと聞かれると、よく分からないけど。
人といるのも苦手じゃない。望まれる返答はお手のものだ。
素直さとは程遠いけど。
頬杖をつきながら、休み時間が終わるのをひたすら待つ。
ようやくチャイムがなった。
「道徳するぞー、席つけーー」
いそいそとクラスメイトが席へと移動する。『道徳する』と言う言葉は私にとってはとても面白いのだけど、みんなはクスリとも笑わない。あ、また舌打ちしそうになった。気を付けないと。
「班になってー、机くっつけろーー」
私の班は、私と昌くんと莉子ちゃん、そして慎太郎くんの四人だった。
昌くんと莉子ちゃんとは話すのだけど、私はこの慎太郎くんが苦手だった。なぜと言う理由もなく、ただその雰囲気が苦手だった。慎太郎くんにしてみればいい迷惑だろう。いや、そもそもなんとも思っていないかも知れない。
先生が班ごとに一つ、大きな紙を配ってくれた。あ、いや、『くださった』だった。私たちはくっつけた机の真ん中にその紙を置いた。
「お題は、大人だ。
大人になるとはどういうことか、班で話し合って紙に書いてくれ。最後発表してもらうからなぁ」
大人と子供。
しっかりした人と抜けている人。
「うーん、18才を越えてること?」
莉子ちゃんが無難で最もな意見を出した。
「んー、とりあえず書いとくか!」
大きな紙の一番隅に、18と小さく文字が踊った。
「仕事をしているって言うのは?」
「確かに。それなら税金を納めてるってのもいけるな」
「自分のことが自分でできること、とか?」
侃々諤々って言うんだっけ。
諤々侃々だっけ。どっちでもいいけど、そんな感じだった。
「✕✕ちゃんは?」
私かぁ。
大人ね。
大人。
大人ってなんだろう。
お酒を飲んだお父さんは、子供にしか見えない。怒り狂っているお母さんは、泣きじゃくる赤ん坊にしか思えない。18は優に越しているはずなんだけどな。
考えに考えた末、むしろ何も考えなかったかのように、無難な答えを口にした。
「責任感を持っていること、かな」
莉子ちゃんと昌くんは「なるほど」と言って紙に私の答えを記入した。
慎太郎くんだけが、私をじっと見ていた。
本当にそう思ってるのか、それは君の意見なのか。
そう言っているかのような、見透かすような瞳だった。私は思わず目を反らす。底の浅い人間だとばれてしまいそうで、怖かった。そうか。だから私は慎太郎くんが苦手なのかも知れない。
「慎太郎くんは?」
「僕?
………そう、だなぁ」
嫌に絡み付く目だと思った。被害妄想?わかんないけど。
「自分は大人だって、胸はって言える人。
つまりはまぁ、いないんじゃないかな」
それはずるいよ、と梨子ちゃんが抗議した。莉子ちゃんに昌くんも同意する。私は、少し感動していた。年相応とかどうとかそんなの人それぞれだろ、と言われた気がした。
あるいは、『自分は自分だろう、他人は気にせず好きなこと言おう』とでも言われたような。
勿論そんなことは決してないのだろうけど、そう聞こえたし、そうであってほしいと思った。
この前みた、お母さんとお父さんの喧嘩。
子供のそれよりもひどいと思った。
どちらかが謝っても終わらないそれを見ると、気が滅入った。
ここ最近の気の滅入りの原因は、それだったのかも知れない。そんなお母さんの言う三拍子が理解出来なかった。『お行儀良く、淑女らしく、年相応の振る舞いを』
だってお母さんとお父さんが、年相応じゃないじゃない。
「改めて聞こうか。✕✕はどう思う?」
今度はしっかりと慎太郎くんをみる。彼はいつもの余裕そうな笑みで私を見ていた。
大人と子供。
しっかりした人抜けている人。
「私は、大人であろうと最善を尽くすことが、大人だと思うよ」
今度は、慎太郎くんは満足げに笑った。
良くわかんないな、と莉子ちゃんと昌くんは言った。
それでいい。わかってもらえなくてもいい。
一般的な年相応かは知らないけれど、これが12才の私相応だと、私は誇った。
朝から見かけた蜘蛛は帰るときも生きていた。
明日、あの蜘蛛は死んでるんだろうか。
生きているといい。
懸命に作り上げた彼だけのお城で悠々と暮らすがいい。
私も、あのお城で悠々と暮らすさ。
そしていつか、自分だけのお城を築く。
そう考えて、父と母と私が住む、小さな家へと私は足を踏み出す。地下道を抜けた先の日差しが、私を歓迎してくれた。