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豆腐屋さんの社畜日記 ~愉快なブラック企業と労働基準監督署~  作者: 西織


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【逮捕の選択】

【逮捕の選択】


 10月。



「はよ就業規則出せ」


「もうちょい待って!」



 といういつものやり取りをしているうちに、10月に入った。


 実はお前ら仲良いんじゃねぇの? 俺をハメようとしているんじゃねぇの? と疑心暗鬼になりそうな時期だった。実は労基と社長は既に結託していて、労働環境を改善する気なんてさらさらないのではないか……、そう疑うほど、状況に変化は表れなかった。




 しかもこの時期、就業規則を作っていた総務のひとりが退職した。きちんと引継ぎができているならいい。しかし、状況的にそれは怪しかった。


 その人だけではなく、ほかにも総務で退職者が出たせいで、総務でもひどい人手不足だったのだ。販売や工場だけではない。会社全体、どこも人の手が足りていない。総務は総務で、残業地獄だったようだ。


 ただでさえ忙しいのに、社長はちょっかいをかけてくる。社長は毎日残業している総務が気に入らなかったようだ。会議をするよう指示した。「残業を減らすための会議」を毎日。その会議のせいで残業が増える……、という無間地獄に陥っていた。無駄のお手本。例によって総務のお姉さんから聞いた話だ。




 就業規則を作っていた社員は会社から去り、総務は多忙を極めている。じゃあだれが作るんだ就業規則。改善もクソも何もない状況に陥りつつあった。



 同時期。



 川崎さんが労基を通して行った残業代請求、これもある程度答えが出た。


 労基から電話が掛かってきて、こう言われたらしい。



「払えよー、っていう指示はしているんですが、ぜんぜん言うことを聞かなくて。そもそも連絡も取れませんし……。なので、何ならもう民事訴訟してもらった方がいいかもしれないです」



 おいおい。匙投げとるやんけ。


 強制執行権がないのはわかるが、本当にいいようにされているだけではないか。残業代は回収できない、労働環境も改善できない、「ちょっと待って」と言われたら数ヶ月待ち続ける。


 あまり労基を責めたくはない。けれど、これはさすがにどうなのか、と思わずにはいられない。



 労基が忙しいのはわかる。いつも忙しそうにしているのも知っている。出張で連絡が取れないのもしょっちゅうだ。あっちの定時後に電話が掛かってくることもよくある。


 社長に就業規則の提出日を土曜日に指定され、休出したのにすっぽかされてブチギレていたのも知っている。(わたしにキレられても困るが)



 しかし、ここまで何ひとつ状況が変わらないなら、この数ヶ月はいったい何だったのか。



 さすがに、「何とかならないのか」と田上監督官に尋ねた。忘れもしない、火曜日の夕方だ。静かな住宅街の端っこで、空いた時間を使って労基に電話を掛けた。人通りがほとんどない場所だ。奇しくも、以前に奉仕活動の電話を受けたときと同じ場所だった。


 数ヶ月も同じ状況で硬直したままだし、結局これ以上話は進まないのか。それならそうと言ってくれ。そう田上さんに言った。


 言葉が返ってくるのに、少し間があった。



「……このままの状況が続いたとして。もし、社長が逮捕される、なんてことになるとしたら。あなたは、それを望みますか?」



 そんなことを、訊かれてしまった。


 田上さんがどういう意図で尋ねたかはわからない。意味があるかもわからない。しかし、問われた。「逮捕されることを望みますか」と。



 答えに詰まった。



 社長が逮捕されたら、わたしたちの悲願は達成される。わたしたちの勝利だ。散々、「早く逮捕されろよ!」と軽口を叩いてきた。「逮捕されました!」なんて言われたら、手を叩いて大笑いするだろう。逮捕のニュースを探して永久保存する。


 最高のエンディングだ。


 今まで好き勝手振舞っていた、邪知暴虐の王。わたしたちを奴隷として扱い、酷い目に遭わせてきた。その報いを受ける。社会の常識に裁かれる。自分の手に付けられた手錠を見て、彼はようやく自分の過ちに気付く。


 見たか。間違っているのはあんたで、正しいのがわたしたちだ。それがわかったか!


 そう高らかに言えたら、どんなにいいだろう。


 わたしたちが望んだ、最高の終幕だ。


 わたしたちが、望んだ。



 ……もし、わたしたち〝3人〟に訊かれれば、答えは決まっている。「そりゃ逮捕されて欲しいですよね?」「そりゃな。そりゃそうやろ」「当たり前やんか」と簡単に出ただろう。そうだ。そりゃそうだ。当たり前だ。



 しかし。


 そうではないのだ。



 わたしの近くにはもう、あのふたりはいない。労基から手紙が来て喜んだ仲間はもういない。この場にはいないのだ。


 残っているのはわたしだけ。訊かれているのもわたしだけ。


 わたしが、訊かれているのだ。


 まるで、この選択がわたしに委ねられたかのような感覚に陥る。逮捕するのか、否か。



 もちろん、そんなことはないだろう。わたしの言葉にそんな力はないはずだ。田上さんも深い意味があって訊いたわけではないのかもしれない。ただの世間話かもしれない。


 だがしかし、万が一にでも。


 わたしの言葉に発言力が宿っているとするならば。もしそうだとしたら。


 わたしの一言で、社長の逮捕が決まるとしたら。



 この質問は、重すぎる。



 頭の中で、ぐるぐると様々なことが思い浮かんだ。川崎さんや滝野さんだけではなく、先輩社員たちの顔が浮かぶ。もし逮捕になったらどうなるのか、会社はどうなってしまうのか。会社のダメージは著しい。それは以前、聞いた。決して、無事ではいられない。


 社長も、会社も、社員も。


 重い。



 5月、労基から手紙が来て、わたしが殊更に動揺したのを覚えているだろうか。労基の最初の接触だ。呼び出しの手紙だ。あのとき、届いた手紙を見て、わたしは動揺した。自分のしたことに動揺し、「とんでもないことをした」と狼狽えた。


 それをケアしてくれたのは、滝野さんと川崎さんの存在だった。


 そのふたりはもういない。わたしは、わたしひとりでこの選択を受け取らなければならない。それがひたすらに、重かった。


 手放しそうになるほどに。



 反射的に、「いや、望んでいるかというと、そこまでしなくても……、とは思うんですが……」と言い掛けた。重さから逃げようした。言い掛けたが、ぐっと飲み込む。


 わたしの言葉にもし発言力があるとすれば、それは絶対に避けなければならない選択肢である。言ってはならない。逮捕か現状維持か、なら絶対に逮捕だ。それは揺るぎない。今までのことを思い出せ。



 わたしは以前、あの無茶苦茶な就業規則の同意書にサインしたことを物凄く後悔している。サインするんじゃなかった。心底そう思っている。あそこまで自己嫌悪したのはいつぶりかわからないくらいだった。


 そのことがあったからだろう。ここで同じことを繰り返してはいけない。そう思ったのだ。


 だから、こう返した。



「逮捕、されて欲しいと思います。そうでなければ、辞めて行った人たちも報われないと思いますし、逮捕されて『やっていたことは悪いことだったんだ』と自覚して欲しいと思います」



 ……とはいえ、多少腰の引けた回答になったのはご愛嬌。「逮捕されるべきでしょう、僕は絶対にそれを望みますよ、してくださいね!」と言えるほど強気にはなれなかった。


 わたしの答えを聞いたあと、田上さんは少しだけ沈黙してから、話の続きを口にした。




「実は。既にこの会社の問題は、わたしだけの案件ではなくなりつつあります。このまま、労基の要求を無視し続けるならば、労基全体の問題となり、最も重要視される案件に移行されます。その辺りのことも、11月になったらご説明できると思います」




 そう言われた。そんなことを言われた。


 どうやら、水面下で話は前に進んでいたらしい。何もしていなかったわけじゃないらしい。


 話は、ようやく終幕に近付いている。


 ここまでくれば、「また待たなくちゃいけないのか……」という野暮なことは今更言うまい。

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