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豆腐屋さんの社畜日記 ~愉快なブラック企業と労働基準監督署~  作者: 西織


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【8月】【滝野さんのリタイア】

【8月】


 8月に入った。



 猛暑の中、わたしたちは車を走らせる。ろくにクーラーが効かない行商車で、保冷剤が入っただけの発泡スチロールにガビッガビに硬い油揚げを入れて、どんどこ車を走らせる。


 しかし、真夏日はさすがに商品が心配になる。前にも書いたが、あげ類は特別な容器に入っているわけではない。発泡スチロールだ。発泡スチロールの箱に保冷材を敷き詰め、そこに油紙を引いてあげを乗せているだけ。〝8時行商〟のせいで長い間外に出ているものだから、保冷材はすっかり溶けてしまう。本当に衛生安全面は大丈夫なんだろうな。わしゃ知らんぞ。



 それに、暑いのは食品だけではない。わたしたちもだ。


 移動するときは車内でも、お客さんが来れば外で応対する。日光浴びまくりだ。それはもうげんなりするほどに暑い。タオルを首にかけて、水分をぐびぐびと取りながら、何とか凌いでいた。


 熱中症で倒れそうな人もいたが、それでもわたしたちはまだマシな方だった。


 もっと扱いが酷いのは、工場であげものを作っている人たちである。



 油揚げを作る工場は、油を使っているだけあって夏場は室内が40℃を越えてしまう。そんな中、熱い油の中に箸を突っ込んであげを揚げるのだという。聞いているだけで暑い。熱い。実際、そんな劣悪な環境のせいで、倒れる人は後を絶たなかった。


 倒れたら休憩室に運ばれて水分を取り、復活したら油揚げを揚げ、また倒れたら休憩室で回復に努める。この繰り返し。ストイックすぎる。ゲームのキャラみたいな扱い。


 当然、そんな身体の使い方をすれば、深刻な状況に陥ることもある。休憩したところでどうにもならない。完全にぶっ倒れる。そんな人が現れ、ほかの社員は救急車を呼ぼうとしたらしい。偶然にも社長はそこに居合わせていて、救急車を呼ぼうとした社員にこう言った。



「アホウ! そんなことで救急車を呼ぶな! みっともない!」



 100点満点のパワハラ。これは芸術点が高いですよ。みっともない、という言葉選びが素晴らしいですね。やはりパワハラ社長はこうであってほしいところです。



 後述するが、この環境は後々改善された。業務用の冷房が設置された。労基が監査で指摘したようだ。工場で働いている人たちにとっては、非常にありがたかったろうに思う。



 では、わたしたちは?



 7月初め、労基と会社は約束を交わしている。


「労働環境等を改善し、報告書を提出しろ」、というものだ。


 3ヶ月に渡って改善と報告を繰り返し、実際に労働環境を改善する。それが労基との約束事だ。



 そして、初めての報告書提出期限がこの8月の初めだった。



 残念ながらこの1ヶ月、何ひとつ変わってはいない。こんな状況でどんな報告を労基にするのか。


 報告書の提出日翌日、わたしは早速労基の田上さんに電話を掛けた。



「あー……、えーと、報告書の件について、ですよねぇ……」



 いつもいつも電話を掛けているせいで、さすがに田上さんも察しが早い。そして、それはわたしも同じ。開口一番で歯切れが悪いときは、間違いなく良い報せはない。


 その予想は当たっていた。



「提出日は昨日だったんですが……、社長、来なかったんですよ。で、今日になって電話したんですけどね。そうしたら、総務の方が『今はまだ作っている最中だから、悪いけどもう少し待って欲しい』と……」


「…………………………」



 同じじゃねーか。


 同じじゃねーかッ!


 もうこの再放送、見飽きたんですけどぉ!?



 何となく察してはいたものの、さすがにもうこのパターンはげんなりである。なんて起伏のないやりとりだろうか。ゲームのNPCのように同じことを繰り返す電話に、さすがに苛立ちが募る。労基に文句を言っても仕方ないのだが、あまりにも不甲斐なくはないか。


 申告から4ヶ月。会社に接触して3ヶ月。この間に起こったことは、社長が一時期テンションが低かったこと、うんこの塊みたいな就業規則ができたこと。労働環境は何ひとつ変わっていない。変わらず奴隷のように働いている。〝8時行商〟だって健在だ。うちの営業所からは新たな13連勤組も誕生した。



 もちろん、報告書は必ず提出させますから。そんなことを田上さんが言っているのを聞きながら、わたしは聞こえないようにため息を吐いた。




 その感情を抱いたのは、いつだったのか、もう思い出せない。しかし、恐らくはこの数ヶ月の間だろうと思う。


 この会社を辞めるつもりはなかった。労基に改善してもらい、多少は負担が少なくなれば、またせっせと働き続けられると思っていたのだ。辞めずに済むと思っていた。


 しかし、すっかり「辞めたい」という感情は育ち切っていた。長く続ける自信はもうない。完全な限界を、迎えつつあった。




【滝野さんのリタイア】


 さて。



 実は8月時点で滝野さんの退職が決まっていた。この年の8月末、彼もこの会社を去っている。



 元々、随分前に退職の旨を伝えていて、本来なら4月には辞めたかったそうだ。しかし、引継ぎ相手がおらず、川崎さんのこともあった。会社からは「新入社員がその営業所に配属されるまでは待ってくれ」と頼まれたらしい。そこからきちんと引継ぎを行い、円満退社となる予定だった。


 なるはずだった。


 しかし、新入社員が研修を終えた7月。彼らが、わたしたちの営業所に配属されなかったのは前に書いたとおり。


 結局、滝野さんが待っていた引継ぎ要員は来なかった。上司の頼みを仕方なく聞いたのに、結局無意味だったのだからひどい話だ。それならもっと早くに辞めたかった、と彼は嘆いていた。




 そんな状況でただでさえイラついている滝野さん。改めて8月退社の話を進めていると、なぜか本社に呼び出しを喰らった。休日にだ。仕方なく本社に向かうと、なぜかそこには役員がずらりと滝野さんを待ち受けていたのである。


 社長、人事部部長、総務課部長、総務部課長。数少ない役職持ちが滝野さんを取り囲んでいた。


 威圧的な空気の中、社長が言い始めたのはこんなことだった。



「このタイミングで辞めるっていうことは、会社に対して損害を与えようとしているってことやな」



 は?


 ……確かに、このタイミングで滝野さんが辞めるとわたしたちは困る。かなり困る。何せ、現状で川崎さんの穴を埋め切れていない。それに乗っかる形で滝野さんの仕事を抱え込む形になる。ただでさえ長い労働時間はさらに伸びるだろう。9人分の仕事を7人でやるのだから。無茶な引継ぎをすれば客数は減り、売り上げは減り、最終的には会社に損害を与える……、と言えなくもない。


 しかし、言うまでもなく、そこに滝野さんの非はない。全くない。別に「来週辞めまーす」とへらへら言ったわけではないのだ。きちんと数ヶ月前に辞めると伝え、上司と話し合い、「新入社員が来るから待ってくれ」という条件を飲んで4ヶ月も待ってくれた。感謝すべき相手だ。約束を違えたばかりか、穴を埋める努力も対応する案も出さず、ただただ放置していた会社側がよくもまぁ言えたものだ。



 そりゃあもう、滝野さんだってカチンとくる。言い返す。



「辞めるタイミングは随分前からきちんとお話させて頂いたでしょう。新入社員を研修後に配属するから、それまで待ってくれ、と言ったのはそちらですよ。なのに人が足りないからって工場に回しておいて、その責任をこちらに負わせるのはおかしいでしょう」



 正論である。


 強い口調で滝野さんは言い返すと、社長は口ごもりながらこう返した。



「それはお前、言ったって仕方ないやろ。会社だって代わりを用意するために、金をかけて求人募集していた。しかし、応募者がいなかったんやから、仕方ないやろうが」



 そう社長は言ったらしい。


 これは悪手だ。もし彼の発言が事実なら、(なぜ社長が高圧的なのかは置いといて)仕方がない、と思えなくもない。


 しかし、社長の言葉が嘘なのは明白だ。




 滝野さんは知っている。わたしたちは知っている。様々なツテから得た情報で、会社の内情を知っている。


 高い金を出して求人広告を出し、数十人という応募者が現れたこと。しかし、それらすべてが社長の面接で落とされていること。総務のお姉さんが「良さそうな人はいたんだから、入れてくれればいいのに。人事部部長がどれだけ推しても社長が落としちゃう」と愚痴っていたこと。


 わたしたち以外なら、この嘘は通じたかもしれない。基本的に、会社の情報は社員に教えてもらえない。普通は知り得ない情報だ。


 だから社長が、「どうせこいつに何言うてもわからんやろ……」と嘘を交えて話すことは、何ら不思議ではなかった。



 けれど、相手はよりによって滝野さんである。


 ほかの営業所にツテを持ち、「なんでそんなことまで知ってんの?」ということまでしれっと収拾してくる滝野さんである。誇張なくこの会社一の情報通だろう。そんな人相手に、一発でわかる嘘を持ち出してきたのだから、これはもう滝野さんもブチギレだ。



「応募者がいないってそれ嘘ですよね。求人出して応募者が来てたのは聞いてますよ。1ヶ月で30人以上は来たらしいじゃないですか。それを社長が全員落としたそうですね? 工場も、総務も、販売も、どこも人が足りていないのに。知らんと思いました? だから今嘘吐いたんですか」



 まさか、社長も嘘を看破されるとは思っていなかったのだろう。何も言い返してこなかった。


 その代わり、社長は呼び出しておきながら、「もう話すことはない」と言い残して部屋から出て行った。逃げるように。……これでは完全に、口喧嘩に負けた子供ではないか。


 まぁ今更何をしようとそこまで驚きはないのだが。


 これが50年生きた人間の行動かと思うと悲しくなる。



 結局のところ、この呼び出しは滝野さんを引き止めたかったようだ。残された役員たちから、それらしきことを言われたらしい。これは社長なりのお願いの場だった。



「会社に損害を与えようということやな」


「そんなつもりないです!」


「じゃあ残るべきやろ」


「はい! そうします!」


 というのが社長の理想だったようだ。人と話すのは初めてなのかな?


 口下手すぎ。プライド高すぎ。川崎さんのときもそうだが、本当に人にものを頼むのが下手な人だ。ド下手くそだ。




 当然ながら、滝野さんはこの会社に残るつもりは毛頭ない。辞めるのは確定だ。


 となると、彼のコースは同じ営業所の社員が引継がないといけない。既に土曜日出勤している社員が4人もいるという現状で。営業所の社員は現在7人。7人で9人分の仕事をこなす。


 いや、無理だろ。


 どうあがいても無理だろ。勘弁してくれ。




 営業所で会議が始まる。滝野さんの引継ぎだ。彼の5日分のコースを、わたしたち7人に割り振らなくてはならない。


 わたしも土曜日出勤しなくてはならないのだろうか、と内心物凄く、それはもう物凄くドキドキしていたのだが、幸いそれはなかった。


 これ以上、土曜日出勤を増やすのではなく、7人の5日間に何とか押し込む方向に決まったのだ。



 まぁ川崎さんのときのように、土曜日にそのままスライドするのは不可能ではあった。何せ、7人中4人が既に土曜日出勤だ。13連勤組だ。残り3人が土曜日出勤を覚悟しても、2日分足りない。だれかが週7で働かなくてはならない。


 正直、もしかしたらそれもあるかもしれない、とは思っていたのだが。



 7人全員のコースを解体し、最適化を重ね、空いた時間を作ってどうにか押し込む。無理矢理詰め込む。溢れた分はその分早く出社する。遅く帰る。かなりの大手術であったが、どうにか平日に押し込むことができた。多少の早出、遅出はご愛嬌である。


 幸いだったのは、わたしにはあまり影響がなかったことだ。わたしと滝野さんでは販売する地域が離れているので、あまり押し込まれることはなかった。週に2時間残業が増えた程度だ。ほかの人は、それぞれいつもより毎日1時間出社が早まるくらいだろうか。いつもは2番目3番目に出社していたわたしが、滝野さんが辞めたあとだと、5番目6番目になっていたくらいだ。


 わたしが7時に出社すると、そのタイミングで行商に出発する先輩がいたり。


 7時20分に出社すると、もう既にだれかが出発していて会えなかったり。


 5時6時に平然と会社にいるわけだ。少なくとも、6時前には必ずだれかがいた。一体何時に起きているんだろう……。



 ちなみに、一番影響を受けたのは所長だ。滝野さんが抜けたあと、しばらくは死にそうな顔でふらふらしながら「こんなんいつか倒れるぞ……」と言っていたのが印象的だった。




 そして、滝野さんもこの会社を去った。


 残ったのはわたしひとり。ここからは、愚痴を言い合うこともできず、労基の報告に一喜一憂することもない。滝野さんから情報をもらうこともできない。


 頼りになる仲間は、もういなかった。


 滝野さんがいなくなって初めての朝、会社が妙に寂しく感じたのをよく覚えている。

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