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豆腐屋さんの社畜日記 ~愉快なブラック企業と労働基準監督署~  作者: 西織


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【川崎さんのリタイア】2【反撃の準備】

 さて、川崎さんの話に戻ろう。


 先輩たちが土曜日出勤を決意したあと。次は引継ぎ作業だ。しかし、これがすんなり行ったかと言えばそうではない。




 彼女が使える時間はたった13日間。2週間も満たない。その数日間で、お客さんに時間と曜日が変わることを告知し、それと並行して引継ぎ相手と地図の打ち合わせをしなくてはならない。


 これが異常に大変だ。


 川崎さんと引継ぎ相手、ともに負担が大きいのが地図の打ち合わせである。


 まず、引継ぎ相手は自分が回るルートをその目で見られるわけじゃない。川崎さんは通常の業務があるために、いっしょに現地を回れないからだ。見知らぬ土地を地図の情報だけで走ることになる。見知らぬ土地で、見知らぬお客さんを100人以上拾わないといけない。これがめちゃくちゃキツい。


 想像してほしい。地図の情報と、人の口頭での情報。このふたつだけで、知らない土地で100ヶ所以上の場所に車を停められるだろうか。難しく感じるだろう。実際難しい。クソ難易度。




 自然と、川崎さんとの打ち合わせは念入りになる。会ったことのないお客さん、通ったことがない道、見たことのない家を回るためには、川崎さんから情報を引き出さないといけない。


 これらの引き継ぎ作業を、すべて通常業務を終えたあとに行う。22時に仕事が終われば、そこから引き継ぎ作業を始める。五人分。13日の間に、五人と打ち合わせをし続けていた。本当に大変だったと思う。さっきから地図地図と言っているが、これもすべて自分で手作りしなくてはならず、それに掛かる作業時間も膨大だ。このときの川崎さんは死にかけていたと思う。


 行商中はお客さんに時間と曜日が変わることを告知し、業務が終われば引継ぎ作業、土日は営業所で地図作り……。寝不足と疲労でフラフラしている中、さらに会社は川崎さんに追い打ちをかける。


 近年稀に見る、キングオブしょうもないことを言い出したのだ。




「こんな形で無理矢理に辞めて、引継ぎが上手くいかなかったら、退職しても会社に来てもらうから。会社に損害が発生したら、賠償金を請求するからそのつもりで。そっちが権利を主張するのなら、こっちもそのつもりでいくから」




 ……ギャグで言っているんじゃなくて? マジで言ってんの?


 頭が痛くなるような発言だが、これがすべて本気なのだから質が悪い。すべてのワードがツッコミどころという素敵センテンスである。


 そもそも、社長がさっさと退職願を受け取れば、こんなことにはならなかったのだが……。みんな幸せだったのだが……。もう忘れちゃったかな? 二ヶ月も前のことだからもう覚えてない?


 数ヶ月前からあらかじめ退職することを伝え、余裕を持って退職願を出した彼女に、どうやって賠償金を請求するのだろう。むしろしてみてほしい。プランをぜひ聞いてみたい。




 ちなみにこの「権利を主張するのなら」というのは、後述するが有給の話である。辞める前に有給を請求した川崎さんにどうやらハラワタ煮えくりかえっていたようで、こんなことを言ってきたのだ。


 大人げない話だ。


 大学を卒業したばかりの二十歳そこそこの女の子相手に、よくもまぁここまで言える。


 会社側は川崎さんが辞めることを「根性が足りないから」「甘えてるから」というふうに解釈していたが、そんなことはない。全くない。川崎さんはちゃんと頑張っていた。そもそもこんな仕事、まともな人間がするものじゃあない。


 100時間を超える残業をし、男どもと同じ力仕事をし、そのうえ社長にはクソパワハラを受ける環境で、川崎さんは限界を迎えていた。壊れかけていた。彼女の受けたダメージはかなり大きい。




 辞める数週間前から、「瞼の痙攣が止まらない」「最近、物忘れが激しい」と川崎さんは言っていた。


 この物忘れ、というのが本当に不安だった。「こんなことを忘れるか……?」というものが多かったからだ。聞いていて戦慄した。正直、かなり怖かった。彼女は知らないだろうが、滝野さんと「病院に連れて行った方がいいと思う」と裏で相談していたくらいだ。


 その物忘れで印象的だったのが、『お客さんの家に行くのを忘れてしまった』、というもの。


 わたしたちの仕事は、お客さんの家をルート通り回る。これは毎週毎週、何度も何度も繰り返す作業である。いやでも身体に染みつく。何も考えてなくても、自然とそこに辿り着く。ぼうっとしていて道を間違えることはある。けれど、お客さんの家を飛ばすなんてことは、よっぽどのことがない限りない。家と道、同時に間違えなければ出ないミスだ。普通はあり得ない。普通は忘れない。


 だからこそ、彼女の異常に恐怖を覚えた。


 仕事を終え、慌てて会社から出ていく川崎さんにどうかしたのか、と尋ねると、「飛ばしたお客さんに豆腐届けてくる」と照れ笑いした彼女が、妙に印象に残っている。





 余談になるが。


 彼女が退職して3ヶ月ほど経ったとき、わたしも同じことをやらかした。客をふたり、飛ばしてしまったのである。


 愕然とした。本当に愕然とした。信じられなかった。わたしは、お客さんの購入リストをメモしているので気付いたが、これがなければ完全に忘れていた。忘れたことにすら気付けなかった。「今日は客が少ないな」と首を捻っていたと思う。


 これが本当に怖かった。これほどぞっとしたことはない。




 前に営業所のパソコンで勤怠記録を探していたとき、スパイ映画を思い浮かべたが、今回はパニックホラーだ。


 ウイルスに感染した仲間が、妙な症状を引き起こしながら死んでしまう。そのあと、自分にも同じ症状が徐々に出て愕然とするシーン。仲間には必死で隠すパターン。


 まさか、そういう登場人物の心情がわかる日がくるとは。


 ただただ疲れてぼうっとしていただけかもしれないし、ほんのうっかりがたまたま出ただけかもしれない。かもしれない。そうやって見て見ぬふりをするしかなかった。





 突貫工事の13日間を潜り抜け、川崎さんは何とか予定通りに退職した。


 川崎さんが辞めた週の土曜日。




 彼女は、地図作りが終わっておらず、土曜日に会社へ出ていた。数時間かけて地図作りを終わらせ、「本社に行商車を運んで来い!」と言われたので、往復3時間かけて車を運んだ。


 もちろんすべてタダ働きだ。


 このとき、わたしも滝野さんも会社に用事があり、3人だけで営業所に集まっていた。わたしたち3人が、会社に揃った最後の日である。


 豆腐屋から解放された川崎さんは、憑き物が落ちたような顔で笑っていた。すごくやわらかな笑みだった。正直それがとても羨ましかった。



 その日を最後に、彼女はこの会社を去った。



 数ヶ月後、会社のことで訊きたいことがあり、彼女に電話を掛けたことがある。


「今電話、大丈夫ですか?」と尋ねると、やわらかな口調で、「大丈夫大丈夫。さっきまで会社の飲み会があってさ、今駅まで歩いているの」と笑っていた。のんびりした空気を感じられる、穏やかなしゃべり方だった。それを聞いた途端、あぁ川崎さんは本当に解放されたんだな、と思った。本来、彼女はこんなふうに穏やかにしゃべる人なのだ。のんびりとした人だ。いつも疲れた顔の彼女はもういない。


 今、彼女は少し遠い会社で働いている。仕事どうですか、と尋ねると、「まぁ余裕だね」と笑っていた。豆腐屋は過去のことになっていて、本当によかったと思う。






【反撃の準備】




 さて。


 川崎さんの置き土産の話をしよう。




 前に少し触れた、川崎さんの有給の話だ。何度も言っているように、この会社には有給がない。取る仕組みがない。だれも取ったことがないから知らない。


 そんな会社に「有休欲しいんですけど~」と言っても通らないと川崎さんは思った。なので川崎さんは、有給を取る旨を手紙にしたため、郵便局の内容証明を使って送りつけた。退職届のときと同じだ。そうすれば会社は無視できない。


 結果、見事有給を勝ち取ったのである。


 しかし、社長はそれが気に喰わなかった。だから、賠償金がどうのと言ってきたわけである。有給申請がどれほど社長の癪に障ったか、後々の展開でわかってもらえると思う。




 社長はブチギレ、ほかの社員は「そんなことをしたのは君が初めてだよ」と嫌味を言ってくる。しかし、川崎さんは有給を取った。きちんと取れたのである。



 この功績は、思いのほか大きい。



 川崎さんがこのやり方で有給を取った、という話は社内で広まった。すると、次の退職者もマネして有給を取るようになったのだ。その次も。あえてこんな言い方をするが、内容証明で有給申請をするのが流行ったのである。



 有給申請のパイオニアになった川崎さん。しかし、彼女の中の窮鼠はまだまだ止まらない。


 彼女が次に取った行動は、有給申請なんていうチャチなものではない。これが成功し、彼女が再びパイオニアになれば、会社の資金を喰い尽すことも十分あり得る。経営が傾いている豆腐屋の、とどめを刺すかもしれない一手だ。


 たったひとりで数百万円を回収する、強力な一手。



 残業代請求である。



 前々から何度も言っているように、わたしたちの残業時間は非常に長い。わたしは平均110時間。ほかの人も同じようなものだろう。


 年間1300時間を超える残業時間。しかし、これらはすべてサービス残業だ。一円もつかない。しかし、きちんと請求すれば。訴訟なり何なりで請求すれば、会社は払わざるを得ない。


 それは相当な額になるはずだ。


 もし、川崎さんがこの残業代請求を成功させ、有給申請と同じようにやり方が広まれば、どうなるだろうか。流行らせたとしたら。社内だけに留まらず、今まで辞めていった人たちが「なんか残業代もらえるらしいね?」と集まってきたら。


 そうなれば、本当にこの会社は力尽きるかもしれない。


 何せ、年間1300時間。残業代は過去二年まで遡って請求できるため、2600時間を超えてくる。それだけの額をポコポコ出す羽目になれば、会社のダメージは凄まじいだろう。





 この会社の経営状況がいかに危ういかは、既に説明した通りだ。金がない。大豆がない。プリンターのインクすら買ってくれない。給料は遅れ続ける。


 現状況で、既に大ピンチだ。


 たくさんあった予備の行商車もかなり減った。社長が外車から軽自動車に乗り換えたときは「大事な車まで売ってしまったか!?」と思ったものである。(実際はそういうわけではなかったようだが)



 もしも、一番お金がない時期に何人かの残業代請求が通ったら、それこそ差し押さえまで届いたかもしれない。



 しかし、そこは奴隷の王。中小企業の社長が見せた粘りは、凄まじいものがあった。


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