病院と入院と、お見舞と管の束。
俺にとって自分の考えを捻じ曲げるほどの人からの影響というものは、兄からのものに限ったものだった。
どんなに努力してもたどり着けない人間の境地というものは、あの兄の中にあるのだと信じて疑ったことはなかったし、だからこそ、俺は兄に憧れつつもそれでも何があったところで目標に据えることはなかった。努力し、手に入れ、昇華し、モノにする。そんな人間離れした人間らしいことを何食わぬ顔でやってのけ、それでも満足せず、あまつさえ俺のことを引き合いに出して「あいつの方が凄い」などとのたまう兄に、俺はそれだけでぞっとするものを感じたものだった。
今回のことだって、兄がいればその場で解決していただろうし、それでなくとも動揺して何も手に付けられなくなるような失態を演じたりはしなかっただろう。俺にあの男の真似事など、やはり無理があったのだろう。何に関したところで中途半端に手を出し、何をするにも中途で断念した俺には、最後のところを行う胆力が、結局のところかけていたのだろう。
わかっている。こんなのは言い訳だ。
自分の中にある何がしかの感情が、つぶれるほどに揺さぶられたことに目を背けるための逃げ口上。できるわけがない、自分から逃げるなど、そんなことは出来るわけがないのだ。お天道様は許してくれても、きっとあの兄は許してはくれない。
俺の弱さを優しさと称し、由利亜先輩の逃げ道を消して見せたあの兄。
何があろうと弱さを憎み、何をもってしても逃げることを許さない俺の実兄。
そんな裁判そのもののような兄に、憧れた自分にあきれ果てる。だが、責められないのも確かなのだろう。過去の自分は、強さを求めたのだ、何よりも強いものに憧れたのだ。今の俺にはそれは強すぎる光だ。直視すれば目を焦がし、触ろうとすれば灰にされる。
疲れた俺は諦めるのではなく、目を背けた。
逃げ出すのではなく手を伸ばすのを辞めたのだ。
俺には無理だと、なれないのだと見切りをつけた。大人になったつもりでいた。憧れたものを、見て見ぬふりをすることが、大人になるための条件なのだと言い聞かせてきた。間違いなのだと全く理解していながら、それでも間違いを正すことなく、見ないために、もう一度憧れたりしないために。
しかし違ったのだ、憧れなんて高尚なものではなかった。
目を背けても光はうっすら目に入ってきていて、手を伸ばさずとも光は俺を焼いていた。
俺は結局なろうとすることを辞めたり出来てはいなかったのだ、だから今、何も出来なかったということを痛感している今、こんなにも兄のことを思い出し苦い気持ちを味わっているのだろう。そうでなければあり得ないのだ、俺がこんなにも兄に敗北感を感じている理由は、兄とは全く関係ないこの現状に、その感情の発露を見出している状況は、説明ができない。
言い訳の言い訳は、ここまでにしよう。これ以上は、生き恥だ。
病院へ着いた。
俺自身入院した経験も、身内に大病の人間もいなかったこともあり誰かの見舞いというものはされたこともなければしたこともなかった。初めての経験がこんな形で訪れるとはまさか思ってもみなかったが、最も重要な時に何もすることのできなかった俺が、その人物を見舞うというのは心苦しいものがあった。
そんな俺の心内を知ってか知らずか、というかわかっていたのだろう由利亜先輩は、
『太一君がいかないなら私も行かない、別に私は長谷川さんと仲良かったわけじゃないし』
とか、結構薄情なことをいって俺の良心を抉ってきたのであった。
それにしたってこんなに薄情なこという人間もそういないのではなかろうか。
病院の中は混雑というほどではないが人がいて、それなりに混んでいた。病気で来たのだろう人はマスクをしているし、そうでない理由で来た人は小声で誰かと話したりしている人がいてあまり一様な集団ではない。地域密着型の総合病院であるところのここは、憩いの場としても機能しているらしかった。
「入院病棟はどこかわかる?」
「はい、さっき案内板見てきたんで大丈夫です」
俺と由利亜先輩、それに花街先生はそんな人の集まるところはスルーし、奥まった方へと進んでいく。
進むほどに人の数は減っていき、静寂な空間へと変わっていく。病院にはこういう場所がいくつかある、人の多くいるところからこういう場所に来ると人が全くいない場所に来た感覚に陥ったりするから不思議だ。雰囲気的に人がいないだけで、よく耳をすませれば話声も忙しそうにする音も聞こえてきて、ここが実は病院の裏側なのだと知ることができる。
「このエレベーターみたいですね」
聞くが早いか由利亜先輩はすぐさまボタンを押す。
時間をおかず降りてきた箱に乗り込み、先輩の入院しているという階のボタンを押す。
「それにしてもあんなに大騒ぎになったのに、まさか盲腸で倒れてただけとはねえ」
あきれ交じりに由利亜先輩はいう。
今回の騒動の原因。搬送されて受けた検査によって受けた診断はそのままその通り、盲腸。虫垂炎と呼ばれるその病気は、異物により虫垂内の閉塞が起こり二次的に細菌感染を起こす化膿性の炎症。名前だけはよく知られているが、実態はあまり詳しくは知られていない。ほおっておくと腹膜炎になったりする恐ろしい病気だったりするのだが、傷みが激しいものが多いためそもそもほおっておくことができなかったりする。
「でも、盲腸って本当に痛いのよ?」
「先生も経験あるんですか?」
俺が聞くと、コクリとうなづいた花街先生は、
「まだ大学生だったころにね、講義中に倒れちゃったの。本当に痛くて気絶するくらいだったわ…」
思い出しながら喋っているせいで傷みまで想像してしまったのだろう、身震いして言葉を切った花街先生は、到着の合図とともに開いた扉をくぐる。
「まあでも、私の時は入院しても三日くらいだった気がするけど」
白い、学校のものと同じような床の上。
音のしないその場所は、言われた通りの場所のはずで入院病棟なのは確かなのに、とても多くの人が入院している雰囲気ではなかった。この階だけなのだろうか、こんなに静かなのは、病院だからと、そういわれればそれまでなのだけれど。
「ここじゃない?」
ようやく見つけた名前の札を由利亜先輩が指さす。
「みたいですね、じゃあ入りましょうか」
言って、ドアノブに手をかけると、「ちょいまち!」と花街先生から待てがかかった。
何事だろうとそちらを向くと、
「太一くん、さすがの私もそこはノックくらいするよ…?」
「あ、ああ、なるほど、そりゃそうだ、こりゃあ失敗、常識人こと俺としたことがまさかそんな常識外れをしてしまうとは、では、もう一度やり直しまして…」
コンコンコン、と戸をたたく。ジェントルな俺としては、ここでも常識を守ることは必須だ。「はい?」という不思議そうな声が返ってきたところで、ようやく引き戸を開く。
何気に重厚なその扉は、少し重くて、その扉の先には久しぶりに見る先輩が、どうしようもなくやつれた姿で、呆気にとられるほどの状態で寝そべったベットだけがあった。
情けなくも俺は、気絶こそしなかったものの、それ以降の記憶がほとんどない。
目を覚ました時、ああやっちゃったなあと心の中で自分に毒づくことしかできないほどに、自分の体が疲弊しきっていることに気付いた。
テスト受けた後に、お父さんたちのお見舞いに行く予定だったのに。
何から何まで予定が狂ってしまった。こんなことなら定期検診をちゃんと受けておくべきだったと反省し、鼻の頭が痒いなあと震える手で触れようとしてプラスチックのマスクが当たる。
(邪魔…)
そう思ったとき、コンコンコンと扉を叩く音がした。誰だろう、医者か、看護師か。
「…はい……」
うまく出せない声で答えると、にぎやかな人たちが入ってきた。
太一君は一度として目を合わせてはくれなかった。




