40回 秀才は、天才に嫉妬し、兄は弟を可愛がる。
試験期間一週間前。
由利亜先輩と家で勉強に勤しんでいると、備え付けの電話がうなり声をあげた。
この電話が今までになったのは、先輩と由利亜先輩が俺を呼び出すとき、つまりは俺が振り回される時にだけだ。しかし、今は由利亜先輩はここにいて、先輩は何やら用事があると明日まで来ない。
負の前兆。それが俺に降りかかっている。
あれをとったら、俺はまた振り回されることになるのだろう。わかっている。だからこそ、俺はあの受話器をとる気になれない。
と言うか、取る気がない。何をどう血迷えばそんな風に思っているのに電話に出るというのだろう、これで電話に出るような人間がいるのなら、そいつは相当な馬鹿か、もしくは底知れない馬鹿だ。
結局のところ、このときの俺が何をしたかったかと言うと、電話が切れるのを待ってから再度集中してこの難問を解くことだった。
にも関わらず、だからと言って、そんな俺のことなど知る由もなく、この状況にその電話を取らないと言う手順を考えることすらしない人間がいた。
目の前に。
「はい。もしもし、山野です」
しかも名乗りは完璧だった。ネイティブ山野なのかと思った。
そんな風に唖然としていると、「はい…」と由利亜先輩が止まった。
この反応で、俺はあらかたの想像通りの人物からの電話であることを悟った。
そもそも俺の部屋の電話番号など、知っている人間は両親、先輩(二人)、そして今回の受話器の向こう側の人物以外にいないのだ。
それはつまり、
「はい…太一君…」
「はいはい」
「お兄さんからだよ…」
受話器を受け取り耳に当てる。
『あ、もしもし? オレオレ~』
という訳で、俺は生まれて初めて、兄と電話をするのだった。
「仕事を手伝うのは吝かではないんだけど、一介の高校生にこの仕事量はどうなんですか? ちゃんと給料は払ってもらえるんでしょうねえ?」
ぶつぶつ一人でぶーたれる。
電話のあった次の日である。
俺は今兄の雇われて社長をやっている会社のオフィス、の仕事が山積みの部署に、助っ人として来ていた。
突然にかけられてきた電話の内容はこうだった。
『大きい改革を始めたら、今の人間では賄えない仕事量になったから、少しバイトとして雇われてくれないか』
何でも屋として請け負い家業をしている人間からの、まさかの依頼。
由利亜先輩の件で、はっきり言ってこっちが貸しを一つ持っている側のはずなのだが、まあ肉親に貸し借りもなにも無いだろうと、そこは割りきったものの、だからと言って仕事などしたこともない俺に何故の依頼なのか、聞いたがバッサリと、
『しっかりとした人を雇うと高いから』
と言われてしまった。そりゃそうだ。
てな訳で、なるかならぬかわからぬが、手助けとしてやって来ました大手企業。
山となった書類、目の下にクマの出来た社員の方々に聞いて、仕事内容を把握すると、俺は早速仕事に取りかかった。
無駄にかさばる資料にざっと目を通していくと、ほとんどがにたようなことを書いてあることの改訂版で、必要以上の無駄なことがヅラヅラと書かれ紙の無駄使いを目の当たりにする。
「そういえば俺、来週試験期間なんだよなぁ…」
プリント用紙を見て、ふと思い出す。
兄の尻拭いも弟の役目ではあるのだが、自分のことをおろそかにしている感が否めない。
パソコンに、目を通していった資料の内容をまとめて打ち込んでいく。
周りで俺のことを見ている社員さんは、何をしているのか解らないようで、おろおろしているのだがこれが終わらないことには俺も次には動けないので、待っていてもらうしかない。余計なことをされるのは迷惑にしかならない。
ちなみに、社員の方々には「少し休んでてもらって良いです」と言ったのだが、雇われ社長の弟が急にやって来て仕事をぶんどられた社員さんたちは、それはそれは驚いていらっしゃったのでほうって措くしかない。
二時間後。タイピングは早い方ではないので時間がかかってしまったが、とにもかくにも二時間で山のように積み上がっていた資料を、パソコンにまとめることに成功した。
これでこのゴミとおさらばだ。
「じゃあ、取り敢えず掃除しましょうか」
笑って振り返ると、社員さんは皆各々で眠りについていた。
「終わったー!!!」
背中をそらして伸びをして、そう叫んだのはさらに二時間後。
完璧に片付けてやったぜ、完璧にな!
ゴミの山とおさらばし、清潔な部屋とのご対面だぜ!
ここまで来てようやく三人しかいない社員の皆さまが起きだした。
「これは…一体…」
困惑顔の中年の社員が、俺を見てさらに動揺の色を濃くする。
「君が、やったのか…?」
俺は首肯して、
「じゃあ、仕事を始めましょうか」
そういって紙束を差し出した。
差し出した紙束の正体はプレゼン資料。
見る人が見れば、なんのプレゼンだかは一目瞭然だった。
「これは、人件費を抑えつつ仕事の効率を上げる今のやり方を完全に否定して、人材育成に費用をかけることで仕事の効率を上げ、そこから人件費をまかなえるだけの儲けを増やそうという感じのさっきでっち上げたプレゼンの資料です」
三人の大人は、俺とその資料を見比べて唖然としている。
「まあ、なんで俺がここに来たのかは、多分聞いていると思いますけど、助っ人です。でも俺も兄も、そんなことで、こんなその場しのぎでは絶対に蓋をしません。無理があるとわかっていて押し通すほど、バカではないつもりです。多分、兄もそのつもりで俺を読んだんでしょう」
電話口で、兄は会社の住所と、部署、大体の仕事内容だけを告げた。それだけ。
だがそれだけで俺がここに来れば何をするのかは大体察しがついていただろう。俺は「優しい」から。
「こ、ここにあった仕事の山は、どこに…?」
あたりを見回して、一人の女性社員が呟く。
ついさっきまで自分たちを圧殺しようとしていた仕事という殺人鬼は、一体どこへ行ったのか、不思議そうな彼女に俺はただ事実だけを伝える。
「とりあえずは俺が片づけておきました。パソコンにデータが入っているので確認しておいてください」
何も言えない女性社員は、あんぐり開けた口を閉じることもせずゆっくりと震えながら頷いた。
くだらない、でっち上げの就職者数増強案の資料を読んだここの係長だか課長は、こちらを見て。
「これは、社長に提出すればいいのかい?」
「あ、それは俺がやっておきます。その書類にハンコだけもらえれば。みなさんはデータに起こした資料に不備がないかのチェックをお願いします」
こちらを見ていた全員が、何かに操られるように縦に頷き、各々のデスクに歩いて行った。
社長室なんてのは、大体がお飾りで、無用の長物。
面積ばっかり大きくて、人が多くて三四人入る程度の無駄な部屋。応接室があるのなら、尚さらに必要のない部屋な気もするのだが、だからと言ってない会社は存在しないのではなかろうか。
よくよく考えてみれば、社長室同様に校長室も無用だろう。
職員室があれば校長であってもそこにいればいいだけなのだから、無駄なスペースを作る理由もそうそうない。
無駄なことを考えながら、エレベーターは二十階に到着し扉が開く。
「由利亜先輩ん家も高いけど、二十階もすでに結構高いんだな」
窓の外を一瞬見て呟く。
社長室は、エレベーターを降りてすぐ、目の前だった。
それなりの常識人であるところの俺は、真っ当にノックをして返事を待つ。
返事はなかったが、ガチャリと重厚そうな扉が片方開かれ、すっと女の人が現れる。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
アポは取っていないのに、待っていたと言われてしまった。
サプライズは失敗のようだった。
「やあ、太一。元気そうだね」
「だいぶ疲れたけどね、なんだってあんなに人が少ないんだ?」
奥まで入ると右手にスマホを持ちながら、左手でデスクトップと格闘している兄がいた。
こちらを一瞥することもなく、そういう兄は疲れるどころか楽しそうですらあった。
「前社長に金で雇われて来てみたら、こんな会社だった。重役は仕事しないし、社員は低能ばっかりだし、今まで一人で会社を回してた前社長は引き継ぎも曖昧なままに海外旅行に出かけちまった」
言いつつスマホを置き、両手でタイピングを始めた。
「仕事しねえ役員に金を払うのもバカらしいんで全員解雇して見たんだけど、派閥の人間が全員道連れになっちゃって、それで現状ひどいありさまってわけ。お前の言った部署には俺のお墨付きの人間を入れておいたんだけど、お前が今ここにいるって事は、もう使い物にならないか…」
人を貧乏神みたいに言ってくれる。自分で呼んでおいてその扱いはどうなんだろう。
「で? 重役解雇したならもう兄さんの自由なんじゃないの、なんで俺にこんなもの作らせたんだ?」
俺はそういって、ようやく本題に入る。
「なんでって、それはお前が勝手に作ったんだろう?」
「まあ、そうだけどね、でも兄さんはこれが必要だろう? 自分ではなく、他人が書いたこれが」
兄さんは何も言わなかった。
ただ、俺の放り投げた資料に目を落としてため息を吐くだけ。
その間俺は、「どうぞ」とメガネの似合う女性が出してくれたお茶に舌鼓を打っていた。秘書なのだろうか、それにしてはおっとり感が激しいような、おっとり系の人妻と言われれば納得できる。
この男が結婚したとは聞いていないが、まさか不倫とかしてないだろうな。
まじまじと見過ぎたせいで、隅っこで静かにしていた女性がにっこり笑顔を向けてきた。ぺこりとお辞儀をして、なんとなく申し訳ない気分になった。
「歳は二十八、バストが90、ウェストが62、ヒップが88の未婚。彼氏募集中。経験人数ゼロの超天然記念物」
社長用の仰々しい机から、応接用の机、俺の目の前の椅子に座りながら、誰のか知らないが個人情報を垂れ流してくる。
「斉藤唯と言います。山野先生の部下です。よろしくお願いしますね、太一さん」
見た目に反したキリットした声。
「先生、私のスリーサイズいつの間に測ったんですか? あと、ほかの方には絶対言わないでくださいね?」
「測らなくても見ればわかるよ。言わないし」
信用ならねえ…
この人はなぜこんな奴の武官度やっているのだろう。疑問になったが怖いので聞かないことにした。またぞろ花街先生のようなエピソードを掘り当てないとも限らない。
まあさっき経験人数ゼロとか言ってたけど。
でもそれっていつが囲って何もしてないからの人数なんじゃね、と思い至ったときには話題は変わってて。
「ちなみに太一、ほかの仕事の方はどうなった?」
「あの部署のたまってた仕事なら、大体終わらせたけど」
何か問題でも?と聞くと、「いや別に」それだけだった。
「先生、本当に?」
「だから言ったろ?」
「でも…信じられません、あの量を…」
何やらひそひそと二人で話しているが、俺は外の様子を見てそろそろ帰ろうと思い至る。
立ち上がり、扉に向かうと斉藤さんが後ろを追ってきて、扉を開けてくれる。
「ご迷惑をおかけしました。また、お願いしますね?」
さっきまでとは違う、色っぽさを出しながら微笑む斉藤さんは、たれ目の目じりにほくろがあって、正直好み弩ストライクだった。
「いつでも」
兄の不始末は、弟が処理しなければ。
それは家族愛などではなく、恥を覆い隠すための行為。
俺は多分、気づかぬうちに、兄を見下している。
そのことにすら、俺は気づかないまま。
「あんなに小さい男の子が、この量を一人で…」
「驚いた?」
「先生、あの子は一体…」
「あれは天才だよ、自分じゃ非才だと思って嘆いてるみたいだけどね」
「笑い事じゃないですよ、あんな恐ろしいほどの才能を目の当りにしたら、人が人でなくなるのは容易ですよ…」
「そう怖い顔するなよ、太一に悪気はないんだからさ」




