Nowhere Man
うーーー。
か、身体がだるい。
う、う、うー。
どうしたんだ。
・・・・
うん?
誰?
誰かいるの?
・・・・
おかしいな。
気のせいか?
・・・・
いや、やっぱり誰かいるな。
誰、誰なの?
良く見えないな。
カーテンは引いている筈なんだけど、眩しくて仕方ないや。
それとも目が霞んでるだけなのか。
・・・・
ね、そこにいるのは分かっているんだ。
君、一体、誰なの?
じれったいな。いるのなら返事してよ。
・・・・
そんな所で黙っていられちゃ気味が悪いよ。
返事くらいしてくれたって良いじゃないか。無愛想だな。
何か用?
用じゃないの?
どっちでも良いや。
ねえ、折角来たんだから、もっと近くにおいでよ。
あ、ごめん。
ボクがそっちに行けば良いんだけど、手足の自由が利かなくて今は動けないんだ。
こうやって寝たままさ。ベッドの肥やしになっちまうよ。
上手い言い方だな。
・・・・
君は別に悪い所んなんかないんだろ。
じゃ、悪いけど、こっちにおいでよ。
遠慮は要らないよ。
丁度、退屈してたんだ、話でもしないか。
・・・・
なあんだ、君だったのか。
変な奴じゃなくて良かった。安心したよ。
それにしても、随分なご無沙汰だな。連絡くれれば良いのに。
・・・・
君って酷い奴だな。
ボクを置いてきぼりにするんだからな。
・・・・
何か言えよ。
・・・・
今だから言うけど、ボクは君が嫌いだった。嫌いで嫌いで仕方なかった。消えてしまえば良いのになんて思ったことは一度や二度じゃなかった。
君のその甲高い声も、気取った仕草も、鼻持ちならない不遜な態度も、それに意地悪でけちな性格も、ボクにとっては癇に障るところだらけだ。
でも、妙なものだな。君のそんな嫌なところがまた愛おしくて仕方なかった。その気持ちも嘘じゃない。
だから、こうして君が傍にいてくれると、ボクは嬉しくて嬉しくて堪らないんだ。
・・・・
君がいなくなってから、どれくらいになる?
え、五年。
五年かあ、もうそんなになるんだな。
時間が経つのは早いよなあ。
こうしてベッドで横になったままだと、時間が経つのも忘れちゃうよ。浦島太郎みたいなもんだね。違うのは乙姫様もいないし、鯛やヒラメの舞い踊りなんてのもなくて、朝から晩まで部屋にこもったきりということだね。
全く退屈だよ。
でもそう言いながら、自分から出て行こうとしないのは、きっと意気地がないせいなんだろうな。結局のところ、ボクは弱虫なんだよ。
でも、それは君のせいでもあるよ。
君がいなけりゃボクはただの木偶の坊さ。ボク一人じゃ何もできないんだよ。情けないけどそれが事実だ。それが分かっていて、出て行くなんて、君は酷い奴だ。酷い、酷すぎるよ。
ごめん、責めるつもりはなかったんだ。
つい、愚痴っちゃって悪かった。許してよね。
ホント、ごめん。後生だから、もう出て行くなんて、言わないでよ、ね。
ね、ね、約束だよ。
・・・・・
あのさ、これは嫌味のつもりじゃないんだけど、君がいなくなってボクが途方に暮れていたのは事実なんだ。
君なしじゃボクは空っぽで何もできないんだ。
本当はいろんなことをしてみたい。
野球もしたい、本も読みたい、映画もみたい、イラストも描いてみたい、海や山へも行きたい。中でも一番やってみたいのは、ツーリングだよ。バイクに乗って色んなところを回ってみるのが好きだからね。
それがどうだい。今じゃ何一つできやしない。
君と一緒じゃなきゃ、ボクは何もできないんだ。今頃になってボクは漸くそんなことに気付いたんだ。ボクにとって君は本当にかけがえのない奴だ。
君のいない人生はボクにはありえないんだ。
・・・・
情けないけど、それが今のボクさ。
自分じゃ何もできないからさ、CDプレーヤーから流れてくる音楽を聞くことだけの毎日さ。それも朝から晩までビートルズの曲ばっかりさ。
休む間もないからさ、時々CDプレーヤーが悲鳴を上げてるように聞こえる時もあるよ。
よく飽きもしないな、って思うだろうな。
でもボクにはそれしか楽しみがないんだもの。仕方ないさ。
それに曲を聞きながら、歌詞に出てくる情景を思い浮かべたり、意味を考えたりしていると、結構、楽しいものさ。案外、評論家にだって負けないかも知れない。それくらいの自信はあるよ。
そうだ、折角だから、今日はボクにビートルズの話をさせてくれないか。これまで、考えてきたそれぞれの曲の解釈をさせて欲しいんだ。迷惑かも知れないけど、いいだろ。
君だって、ビートルズファンなんだろ。いいじゃないか、暫くつき合ってくれよ。
・・・・
さあて、何から始めるかな?
そうだな、まずは、“Revolution”。
この曲のクレジットは例によってLennon= McCartneyだけど、John Lennonがほとんど一人で作った曲さ。因みにJohnとPaulは二人が作る曲はどの曲も合作ということにしようとメジャーデビューする前に約束を交わしたんだ。そのことは君も知ってるよね。初期の頃は実際、二人で作る場合が多かったんだけど、次第に少なくなってきてね、それでもクレジットはいつまでもLennon= McCartneyのままだったんだ。Johnなんか、ソロになってから作った曲でもLennon= McCartneyとしていたくらいさ。解散してからもJohnはPaulとの友情に殉じてきたことになるね。
さて、“Revolution”だね、これは一九六八年に発表したJohnの代表曲の一つ、ヨーコと知り合ってから、彼女の影響を受けて政治に深い関心を寄せるようになった彼が、初めて公式に自らの政治的心情を表明して作った曲なんだね。
ちょっと堅苦しいかな。
もう少し、ざっくばらんに行くよ。
この曲については、知っている人も多いと思うけどさ、アップテンポの“Revolution”とその原曲でスローテンポの“Revolution1”と異なったアレンジのヴァージョンがあるんだ。実は、この二曲じゃ、歌詞が一部違っている。” Don't you know you can count me out”のフレーズなんだけど、「ボクを革命の仲間に入れようなんて思わないでくれよ。」って意味なんだ。
JohnがLove and Peaceのスローガンを掲げて、ベトナム戦争反対のデモに参加したり、政治集会のアジをしたりして、かなり積極的に政治に関わったのは有名だけど、それはもう少し後のことなんだ。「Revolution」を発表した頃は、まだヨーコと知り合ったばかりで、自分が何をしていいか、どうあるべきか、身の振り方を決めかねていた時期だから、政治活動に参加するのはいいけど、だからと言って、ボクを革命のために利用したり、引きずり込もうなんて考えないでくれってことなんだろうな。後でできたアップテンポの方はちゃんとそう言い切っているんだけど、原曲のスローテンポの方じゃ、そのすぐ後で”in”と加えてて、”Don't you know you can count me out, in”(やっぱり入れてくれよ。)って言ってるんだ。聞き逃してしまうくらい、ぼそっと歌っているので、気付かないかも知れないけどね。これは多分、Johnの中の迷いを表しているんだろうな。
そう言えば、Johnは自分で社会主義者だって言ってるんだけど、レーガンを支持すると言ってみたりしてるんだ。レーガンはご存じの通り、タカ派で有名で、反戦主義のJohnとは全く相容れない筈なんだけどね。Johnの政治信条は一貫していなかったとも取れるんだけど、そうじゃなくて、理性で受け止めるよりも彼はアーティストらしく政治も感性で受け止めていたんだろうな。それだけ、考えが柔軟だったんだとも言えるよ。だから、“Revolution”のその部分も迷いの表現と言うよりは、意固地にならないJohnの柔軟姿勢の表明だったのかも知れない。実際はどうだったのか知らないけどね。
さあて次は、そうだな、“Ob-La-Di, Ob-La-Da”にするか。
登場人物はデズモンドとモリーのカップルだ。
これが実に面白いんだ。
どこが面白いかというとね、一番じゃ、デズモンドは市場で屋台を構える物売り、モリーはバンド歌手ってことになっててね、そのうち、この二人が結ばれて子供もできるんだけど、四番では市場で物売りをしているのがモリーで、デズモンドが歌手をしているんだって、立場が逆転してるんだ。しかも、デズモンドは日中家に居て、化粧までしてるんだ。モリーが屋台の売り子というのはいいけど、デズモンドが化粧して歌っている姿ってどんなんだろうね。新宿二丁目みたいなところで歌ってるのかな。二人の間に一体、何があったんだろう、夫がそんなところで歌っているのをモリーは平気だったんだろうか、なんて興味深いと思わないか。逸話ではさ、Paulが収録中につい間違っちゃって、それに気付いてすぐに直そうとしたんだけど、Johnが面白がって「そのままの方が良いじゃないか。」って言ったんだそうだ。ボクも、この方がジョークが利いてて良いと思うな。
ところで、“Ob-La-Di, Ob-La-Da”というのは、ナイジェリア出身でコンガ奏者の男が口癖にしていた言葉でさ、人生は続くという意味だって、Paulはその男から聞いたままを説明しているんだ。だけど、実際、そんな言葉はどこにもなくて、その男のでっち上げみたいだったんだね。結局、Paulはその男にかつがれたのさ。
でも、“Ob-La-Di, Ob-La-Da”って響きは、如何にも「人生は続く」って意味に聞こえるから不思議だね。
実はこの曲、「ワースト・ソング」の投票で堂々の一位に輝いているんだ。不名誉なことには違いないけどビートルズならそれが洒落になるような気がする。Johnならきっと面白がって笑い飛ばすかもな。「Paul、お前の曲、ワーストワンだって。何だって一番はいいじゃないか。」ってね。
どうあれ、ビートルズの曲の中でも特に有名なものの一つであることだけは間違いないよ。Paulの曲じゃ“Yesterday”が一番だって言われていて、CMやドラマの挿入歌なんかで良く使われているけど、余りに出来すぎている気がするね。勿論、ボクは“Yesterday”も好きだけど、すっとぼけていて底抜けに明るい“Ob-La-Di, Ob-La-Da”の方が本当はPaulらしくて良いなと思ってるんだ。
そうそう、同じPaulの曲で“Hey Jude”も結構、語り甲斐がある。じゃ、次はそれにしよう。
この曲はね、色んな解釈がされているんだ。
Johnの息子のジュリアンに捧げた曲だと言う説が一般的だけど、Paulが元恋人ジェーン・アッシャーに振られて落ち込んだ胸の内を吐き出したものだとも言われてる。彼女だけに宛てたメッセージ・ソングと言っても良いのかな。
だけど、ボクはそのどちらでもないと思う。
Judeにはユダヤ人の意味があるんだけど、この曲はあるユダヤ人に宛てたものなんだ。そのユダヤ人と言うのは、おそらく前年に亡くなった彼らのマネージャー、ブライアン・エプスタインのことなんだろう。言ってみれば、“Hey Jude”はエプスタインに対するレクイエムのようなものなんだ。
エプスタインの死の原因については未だに謎で諸説紛々なんだけど、何れにしてもビートルズと切り離して考えることはできない。それはそうだよね。ビートルズの才能を見出し、売り出したのは紛れも無くブライアンだからね。ブライアンがいなかったら、あそこまでビートルズが成功したかどうか分からない。ビートルズをスターダムにのし上げたのはブライアンだと言うことについては誰も異論を挟まないだろうな。そのブライアンもビートルズがツアーを止めて、スタジオミュージシャンとしての活動に専念するようになると、自分の役目は終わってしまったように感じていた、それはありえることだね。だからと言って自ら命を絶つなんてことがあるだろうか。如何にもありそうな話で、マスコミなんかが飛びつきそうなネタではあるけど、何だかとってつけたような解釈に思えるんだ。少なくともボクには違和感がある。彼が置き去りにされたような気になったのは事実かも知れないけど、それが理由で自ら死を選ぶことまではしないんじゃないかな。
ブライアンはもともと孤独な男だったらしい。
背が低くて、臆病そうで、他人と上手くコミュニケーションが取れない。だから、友達も出来ないし、頼れる人もいない。
それがビートルズと関わって、孤独じゃなくなった。しかも、彼が思い描いた通りにビートルズがスターダムにのし上がってくる。さぞかし、愉快だったろうな。でも、ビートルズがビッグになって独り立ちし始めると、どうしてもブライアンはまた孤独な人間に戻らざるを得なかった。ビートルズのメンバーから自分は邪魔者扱いされている、そんな気になったんだろうね。本当はそんなことなかったんだろうけど、自分で自分を追い込んじゃったんだね、きっと。それで、精神的に不安な日々が続くようになって、クスリに頼っているうちに命を落としてしまうことになった。多分、そんなところだろう。薬物事故、それが真相じゃないかな。
ところでブライアンの孤独って、一体、何だったんだろう。
それを突き詰めていくと、ユダヤ人である彼の出自に関わりがあるのじゃないかって、Paulは気づいたんじゃないかな。ユダヤ人に対する偏見は、リバプールじゃそれほど酷くはなかったかも知れないけど、皆無じゃなかった。ブライアンはずっとそのことを気にしていたんじゃないかな。
だけど、ビートルズの四人は違っていた。彼らは才能もさることながら、皮肉屋だけどユーモアたっぷりのJohnを始め、PaulもGeorgeもRingoもみんな気さくで、彼らといることはブライアンにとってきっと居心地のいいものだったんだろう。
ビートルズのメンバーは皆、階級意識の強いイギリスにあって、人種や民族や階級による偏見や差別意識は余り持ち合わせていなかったんだ。彼らもまた皆アイルランド系でイギリス社会では差別的待遇を受けやすい立場にあったからかも知れないけどね。誰だったか、黒人のシンガーが、
「公然とブラックミュージックが好きだと言った白人は彼らが初めてだった。嬉しかったね。」
って、ビートルズを讃えているくらいだよ。
きっと、ビートルズの面々はブライアンともユダヤ人であることなど全く気にも掛けずにつきあってたんだろうな。でも、と言うか、だからこそと言うか、ブライアンが抱えていた悩みにも気付くことがなかったんだと思うよ。
彼の死を通じて、初めてPaulは問題の深刻さに気づいたんじゃないか。
Paulは、“Hey Jude”で天国にいるエプスタインにメッセージを送りながら、現にこの世に生きているユダヤ人に対して励ましのメッセージを送ったのさ。でも、Paulの意図とは反対に、これを反ユダヤ主義の曲だって解釈して揶揄するような連中が現れクレームをつけ出したもんだから、真実をぼやかしてしまったんだろう。Johnのキリスト発言で散々懲りていたし、Paul自身は元々政治色が出ることを嫌っていたからね。ジュリアンだとかジェーンだとか、いろいろな解釈を許したまま、曖昧にしておいたんだろうな。違うかな?
ちょっと深刻になっちゃったね。
じゃ、次はブライアンの孤独について語った後だから、“Nowhere Man”について語ろう。
ボクはビートルズの曲の中でも“Nowhere Man”が一番お気に入りなんだ。
この曲は、邦題が「ひとりぼっちのあいつ」になってるんだけど、なんてダサい題名なんだって思うね。と言うよりも、それじゃ意味が全く違ってくるだろうってね。
もし、「ひとりぼっち」と言うんだったら、歌詞の中にロンリーとかアローンってフレーズがあっても良さそうだけど、この曲のどこにもそんな単語なんか出てきやしない。
他に適当な訳語が見つからないものだから、訳者は「ひとりぼっち」にしたんだろうな。無理に邦題なんか付けなくても良かったのにな。
そう言えば、同じ“Rubber Soul”の中の「ノルウェーの森」も完全に誤訳だな。“Norwegian Wood”が原題で、“Wood”は如何にも森と言う気もするんだけど、歌詞をじっと聞いてみると、どうもそうじゃない気がするんだ。
「彼女はボクに部屋を見せて、Norwegian Woodみたいで素敵じゃない?と訊く」んだけど、部屋が森みたいって変だと思わないか?彼女って、余程のロマンチストなのか、それとも、本当に森の中にツリーハウスみたいに部屋があるのか、どっちかだね。
でさ、ワインを飲んで、彼女は「そろそろ寝る時間よ」って言ってさっさと一人ベッドに入って寝るんだ。つっけんどんにされたボクは、仕方なしに風呂ん中で寝るんだよ。でも、歌詞のどこにも森の中を散歩するとか、森林浴とか、鳥のさえずりとか、そういうフレーズはなくて、“彼女”の部屋の中での出来事が描かれてるだけなんだ。
とどめは最後の“light”ってところ。翌朝、彼女に置いてけぼりにされたボクは腹いせに部屋にライターで火を付けたなんて、訳の分かんない解釈もあるくらいなんだ。それじゃ犯罪だよ。
この部分は、本当はこうさ。ボクは煙草に火を点けようとライターに手をかけて捻りながら、夕べの彼女の言葉を思い出し、「Norwegian Woodでいかすでしょ、か」って投げやりに呟いた、と言うことだ。訳詞にするには難しいけどね。
この曲は妻のシンシアに内緒でJohnが女の子と遊んだことを歌ったものらしいんだけど、何もできないまま、目が覚めた時には彼女は先に出かけていて一人きりになったJohnは、頭の中が空っぽにされたような気持ちで煙草に火を付けんじゃないかな。その後、多分、Johnは二度とその部屋には行かなかったんだろう。
それはともかく、Norwegian Woodって一体何だ?。
それを言う前に、ノルウェーってイギリスの隣国だって知ってたかい。日本人は意外に知らないと思う。遠い国のことだからそれも当然だよ。イメージではイギリスとノルウェーは随分離れているような気がするんだ。一方は島国でもう一方は大陸の半島にあって、両国の間にはドイツやフランスやたくさんの国が連なって遠距離にあるように感じるんだけど、実は海を隔てて隣国どうしなんだ。言ってみりゃ、ちょうど、日本と韓国の関係みたいだね。それでさ、イギリスとノルウェーは馴染みが深くて、古くからイギリスにはノルウェーの品物がたくさん入って来てるんだ。
特にノルウェーは森林国だから木材が豊富で安く、木製の品がイギリスにはたくさん入ってくるんだ。Johnがこの歌を作った頃というのは、ノルウェー産の材木を使って部屋ん中を木調にしつらえるのが流行ってたらしいんだ。“彼女”も自分の部屋をそんな風にしたんだろうね。
値段の安いノルウェー材を使って内装したのは、お金に余裕がなかったからか、それとも単なる趣味なのか、それは分からないけど、“Norwegian Wood”は「ノルウェーの森」なんかじゃないことだけは確かだ。尤も、「ノルウェーの森」という訳は考えようによったら、それほど間違っているとも言えないかも知れないな。“彼女”はノルウェー産材で部屋をあしらうことによって、ノルウェーの森にいるような気分に浸って空想に耽ったりしてたのかも知れないからね。部屋を見せながら、“彼女”がJohnに訊いたのは「まるでノルウェーの森みたいで素敵でしょ。」って意味だったのかもね。
ここは、誤訳とするよりも、日本語と英語のニュアンスの差と考えるのがスッキリするのかも。バックボーンの文化的な違いがあるから、それを正確に表現するのは実際難しいんだろうな。
そう言えば、古い映画で「カサブランカ」というのがあるのは知ってるだろ。その中で、ハンフリー・ボガートがグラスを握って、イングリッド・バーグマンに向かって言うんだ。「君の瞳に乾杯」ってね。有名な台詞でさ、ボクも映画館でリバイバル上映している時、その台詞が字幕で流れてくるのを見て、なんてステキな言い回しだろうって思ったんだ。その昔、日本でもその台詞が流行ったこともあったらしいよ。でも、良く聞くと、その訳も怪しいんだ。ビデオを借りて、何度もその部分を聞き直してみたんだけど、どうも“your life”と言ってるようなんだね。つまり、「君の人生に乾杯」って意味さ。それが訳者にはどうも“your eyes”と聞こえてしまったんだと思う。聞き違いによる誤訳なんだろうけど、その方がずっとクールで良いと思うな。だって、相手はなんてったってイングリッド・バーグマンだぜ。人生に乾杯するより、瞳に乾杯する方がぐっとくるよな。
おっと、随分、脱線しちゃったね。
話を戻すとしよう。
“Norwegian Wood”だったね。いや、これも脱線したんだな。えーと、元々の話は何だっけ。あ、そうだ。“Nowhere Man”だったね。
“Nowhere Man”の邦題が「ひとりぼっちのあいつ」というのはおかしいということだったね。この邦題もそうだけど、「どこにも居場所のない男」という解釈も変だね。ボクは全く意味を取り違えていると思うよ。全く逆なんだ。この男は他人から仲間外れにされて居場所がないのじゃなくて、自分の方から周りに距離を置いて自分だけの居場所を持ったのさ。その場所には自分以外の者は誰も寄せ付けようとしないんだ。
“Sitting in his Nowhere Land,”は、誰にも邪魔されない自分だけの場所にいる、ってことだろ。Landは国でもいいかもな。自分だけがいて、自分の思いのままになる空想の国、誰でも一度は抱く無邪気な憧れさ。
そして、“Making all his nowhere plans for nobody”、誰のためでもない自分だけのプランを練っている、ってね。
Johnは、この曲の主人公についてブライアンやGeorgeを匂わせるようなことも言っているけど、本当は自分のことさ。人気絶頂の最中にいた彼は、ファンやマスコミにもみくちゃにされる中で、自分の本当の居場所って何処にあるんだろう、って考えたんだ。いろいろ考えていく内に、結局は自分の頭の中にあるんだと気付くんだ。
Nowhere Manの文字をよく見てみろよ。
Now Here Manって読めるだろ。
Johnの好きな言葉遊びの類なんだろうな。
どこをどう探したって、どこにもいない、どこにも存在することのできない男、って言っておきながら、実はここにいるんだ、って明かしているんだね。Johnらしい皮肉な言い方さ。
Johnは自分以上にクールな奴はいない、自分よりいかす奴はいない、って自信を持っていたんだと思うよ。非常に不遜で傲慢な人間で、自分のような者が成功しない筈はない、きっと成功するさってね。そうやって、上へ上へとめざしているうち、実際、頂上まで辿り着いちゃったんだ。でも、そこは思っていたような世界じゃなかった。自分の思いのままにできる世界だと思ったら実はそうじゃなかった。
Johnは、自分が他人に良いようにされていくことに辟易して、恐ろしくさえなってきたんだろうね。そして、自分の身の回りを探してみたんだけど、どこにも自分の居場所らしきものが見つからない。身の回りが駄目ならもっと別の場所をと探すんだけど、もっとない。探すことにも疲れて、ぐたっとなった時に現れたのが自分の頭の中の世界だったという訳さ。実に哲学的じゃないか。Johnらしいな。
だからと言って、彼は孤高の人になるのは望んでいないんだね。
もっとより多くの人と交わりたいと思っているし、もっと注目されたいとも願っている。だけど、それとは裏腹に自分一人になれる世界も欲しいんだ。
ひとりぼっちは嫌だけど、孤独は愛する、って感情、誰にでもあるじゃない。
ボクだってそうさ。
君がいなくなって、周りが見えなくて、身動きも満足にできない、引き籠もってばかりいるボクは出来損ないかも知れないけど、自由な時間を過ごせた気がするよ。孤独な時間はそれなりに楽しかった。
それにしても、五年間か、、、、。ちょっと長すぎたな。
そろそろ飽きてきたな。
・・・・
ね、ホント、もう一人にしないでよね。
・・・・
ボクばかり喋って、君、退屈しないか?
そこに、土産があるだろ。多分、クッキーだと思うけど、どうかな。
あ、ボクは好物なんだけど、今は食べられないんだ。ボクの分も食べてくれて良いよ。
え、“Penny Lane”、って店のオリジナルだってさ。
駅前の商店街の中にあるって。最近できた店らしいんだよね。ボクは行ったことないけどさ。だって、こんな身体じゃどこにも行けないじゃない。
そう言えばさ、ビートルズに因んだ名前のお店とか品物とか、結構あるよね。そう思わないか。日本人って、ビートルズファンが多いのかな。それとも、ビートルズファンの人にお店をする人が多いんだろうか。日本だけじゃなくて、他の国でも同じなのかな。
そうそう、それで思い出したけどさ、随分、前の話になるけど、ね。
一人でバイクに乗って遠出したことがあったんだ。
行く当てもなくね、風の吹くまま、気の向くまま、気ままな旅って奴さ。
それでさ、どこだったか忘れたけど、見渡す限りの田園風景、って、ああいうのを言うんだろうな。そんな田圃や畑ばかりの田舎道を走ってたんだけど、空気は綺麗だし、風が清々しくてホント気持ち良いんだ。それは良いけど、民家はまばらでね、どう見たってひなびた過疎の村って感じなんだよね。「こんなところでどうやって生活してるんだろう。」って他人事ながら心配になって、あれこれ考えながら走ってたんだ。
しばらく行くと、道の途中にさ、しゃれた外装の建物があったんだ。近づくと、建物の壁に張った看板に“In my life”って書いてあるんだよね。喫茶店かレストランだろうなって、思ってね。丁度、お腹もすいた頃だし、その建物の前に駐車場があったんでバイクを止めたんだ。建物の外観だけじゃなくて、瀟洒な構えの玄関で、中も明るくて雰囲気が良さそうだったんだ。失礼だけど、こんな田舎に似合わず随分とお洒落だな、って思ったもんだ。バイクを置いて、玄関を入って行こうとすると、どうもレストランのようではなさそうなんだね。ロビーとフロントのようなものが見えたので、え、もしかして、って思ったんだ。何となく艶めかしい感じがするからね。つきあってる彼女と何度かそんなところに行ったことがあるけどさ、流石に一人じゃ入れないなって思って躊躇ったんだ。でも、ちょっと気になるじゃない。それで。もう少し近寄って様子を窺うと、玄関のすぐ横にケア付き高齢者住宅って書いてあるんだ。
なあんだ、気を持たせやがって、こん畜生、ってね。
それにしても、“In my life”なんて尤もらしい名前じゃないか。
田舎で余生を過ごしましょうってことなんだろうな。隠微な雰囲気を漂わせているのもわざとじゃないかと思うんだ。老後だからと言って枯れて行くばかりじゃない。いつまでも若々しく、恋の花も咲かせて、楽しく過ごしましょう、なんて意味があるんじゃないかな。若い頃を都会で過ごしたリタイア組が入るんだろうけど、そういう人にとっては良いんだろうななんて勝手に想像しながら、またバイクに乗って走り去ったんだ。空腹の仕舞いをしなきゃならないじゃない。もうペコペコだったからね。
そう言や、こんなのもあったな。
“All you need is Pub”
すぐに分かると思うけど、西洋風大衆酒場って奴さ。丁度、近くにペンションがあったんで、そこに泊まることに決めてさ、チェックインした後、その店に入ったんだ。ビートルズの曲名を店名にして、「パブこそすべて」って宣伝してるんだぜ。
可笑しいだろ。
でも、その洒落っ気がいいね。店主のネーミングセンスだね。
店自体も洒落っ気がまた半端じゃないんだ。
店に入ったすぐのところに、“All you need is Rum”と大きな字で書いた貼り紙がしてあって、「ここはラム酒がメインなんだ。」って分かるようにしてあるんだ。それなら、ラムベースのカクテルでも頂こうか、と思って、どんなのがあるかバーテンダーに訊いてみたら、「生憎、切らしてます。」だってさ。だったら、“All you need is Rum”って書くなよと思ったけど、聞いてみると、最初はそのつもりだったらしく、店の名前に合わせてキャッチフレーズも書いてみたんだけど、どうも客はラム酒なんて飲まないらしく、他の店同様、ウイスキーかブランデー、ばかりが売れるので、店のポリシーは曲げてラム酒は止めちゃったらしいんだ。さっさと貼り紙を外してしまえば良いのに、でも未練があるんだろうな、折角考えたんだからって残してままにしてあるそうだ。
気持ちは分かるな。
そう言えば、こんなのもあった。
駅の観光案内に貼ってあったポスターのキャッチコピー、「八重洲・伊東・伊豆」ってあるんだ。東京駅八重洲口から伊東・伊豆までと言うことなんだけど、何故かビートルズのシルエットがバックに描かれててね。肖像権はどうなんだってことも気になったけど、どうしてビートルズなんだ。「八重洲・伊東・伊豆」とビートルズがどう結びつくんだ。暫く考え込んじゃったよ。
でも、「八重洲・伊東・伊豆」と何度も口ずさんでいるうち、ふと気づいたんだ。
何の事はない、駄洒落なんだよね。“Yes It is”のもじりなんだ。“Yes It is”と「八重洲・伊東・伊豆」、似てるじゃないか。如何にもって感じがするだろ。“Yes It is”は「涙の乗車券」のカップリングになった曲だけどさ、へえ、こんなのもありなんだ、って妙に感心したな。
そうだ、もっと面白いのがあるよ。
これは極めつけかも知れないな。
これもさ、一人でツーリングに行った時のことなんだけどね。
いつものように何の計画もなく、朝、急に思い立ってエンジンをかけ走り出したんだ。清々しい朝だったなあ。空は澄み切って雲一つない。おまけに風が心地良くて、わざわざシールドを取り外して走ったんだ。進んでいくほどに段々、自然の景色が広がってって、それにつれて空気もさらに良くなるんだ。バイクだから深呼吸するのは難しいけど、頬を打つ風や鼻から吸い込む空気がとても新鮮だった。ボクはなるべく周りの景色を見ようと余りスピードは出さずに走ってたんだ。ホント、何も考えずに気の向くまま飛び出してきたものだからさ、何処を走っているのか分からないんだよね。ただ、郊外だというだけが分かるくらいで、道路にも案内表示がないんだ。殺風景と言えば失礼かも知れないけど、田園風景が広がってて、その背後に山が続いているんだ。これぞまさに自然という感じだね。
そんな中にポツンと白い塀に囲まれた建物が見えてきた。塀の長さは百メートルあったかな。それがぐるっと四方を囲んでるんだ。塀に囲まれた敷地の中にこれもまた真っ白な建物があった。白亜の塔といったような佇まいで、周りの景色にはちょっとそぐわない建物さ。
それが気になってね。
覗いて見たくなったんだ。でも、何だか陰気な感じもしたから入ってみようという気にはなれなかった。それでスピードを落とし、歩くくらいの速度でゆっくり通り過ぎようとしたんだ。見ない振りを装いながら、ほんの少し顔を傾けて覗き込むと、塀の中央に石造りの門があって、その門には何と“Hello Goodbye”って書いてあるんだ。名前なのかキャッチフレーズなのか知らないけど、この建物の主もビートルズファンなんだななんて思いながら、門の前でバイクを止めてまたがったまま奥の方をそっと覗いたんだ。
すると中に建ってたのは三階建ての白いビルでね。広い敷地の割には建物そのものはそれほど大きくなかった。多分、敷地の他の部分は駐車場になってるんだろうな。そんな広い駐車場があるくらいだから、レストランか何かなんだろうなと思ったんだけど、どうもそんな様子でもない。
一階の正面は全面硝子張りで中が透けて見えるんだけど、中扉が閉まっていてよく分からなかった。でも、そんなに人がいる気配じゃなかった。端の方にロビーらしきものがあるんだけど、そこにも誰もいない。ただ紺色の制服を着た人が表を掃除しているのが見当たるだけさ。
余計に気になってね、ぐるりと見回したんだ。
すると、硝子張りの上の方がタイル張りになってて、そこに文字版が上がってるのに気付いたんだ。看板みたいなもんだね。それが何と書いてあったと思う?
何とかセレモニーホールって書いてあったんだ。その下には塀に書いてあったのと同じように“Hello Goodbye”とあったんだ。名前は忘れたけどセレモニーホール、え、葬祭場かよ、って驚いた。いや、驚くよりおかしかった。
葬祭場に“Hello Goodbye”か、思わず噴き出しそうになったよ。“Goodbye”は良いとして、“Hello”はないだろ。経営者のセンスを疑ったね。
ビートルズファンなんだろうけど、いくら好きでも葬祭場に“Hello Goodbye”はふざけていると思わないか。段々、ムカムカしてきて、さっさと立ち去っちまおうとスロットルをいきなり全開したんだ。
「“Hello”って言われたって、絶対にこんなところになんか来てやるもんか、まだまだ“Goodbye”なんかする気はないからな。」
って考えながら、その場を後にして道路に出たんだ。そしたらさ、バーンって物凄い音が響くのが聞こえたんだ。
・・・・
うん?
それからどうなったんだ?
え、え、一体どうしたんだ。
まるで記憶がない。
どうなっちゃってるんだ。
思い出せない、全く思い出せないよ。
う、頭が、頭がずきずきする。
何だ、何なんだ。どうしちまったんだ。
・・・・
く・る・し・い。
・・・・
待てよ、待て、待て。
・・・・
落ち着け、落ち着くんだ。
落ち着いて、よーく考えてみるんだ。
・・・・
何となく、何となくだけど思い出してきた。
前後のことはよく分からないけど、一つだけはっきり思い出したことがある。
君だ。君がボクの前から消えちゃったんだ。
君が去って行ったのはその時だったんだ。
サヨナラも言わずに、スーッといなくなっちゃって。
酷いよ。
君なしじゃ生きていけないことが分かっている癖に。
勝手過ぎるよ。
ボク一人じゃどうにもならないんだ。
それなのにどうして、どうして、ボクを置き去りになんかしたんだ。
・・・・
辛かったんだぜ。寂しかったんだぜ。悲しかったんだぜ。君がいなくて、ボクはもうどうしようもなかったんだ。
ひとりぼっちにするなんて酷いよ。
君とボクは一心同体だった筈だろ。
それなのにどうしてなんだ。
お陰でボクは夢も希望も失っちゃったよ。
もう、ずっとこのままなんだ、って思ったら、生きているのが嫌になって何度死にたいと思ったか。でも死ぬことさえもできないんだ、ボクは。情けないよ。
・・・・
ごめん。
・・・・
ごめんよ。恨み言ばかり言っちゃ駄目だよね。
こうして戻って来てくれたんだもの、感謝しなきゃいけないよね。
・・・・
ありがとう。
ホント、嬉しいよ。
心から礼を言う。
・・・・
もう二度と会えないと思ってたから。
また、君に出会えて、ホント、嬉しい。嬉しいよ。
ありがとう。
・・・・
君と一緒なら、ボクはもう一度自由になれそうな気がする。勇気が湧いてきた。
これからはずっと一緒だよ。
もう、絶対に一人にしないでくれ。約束だ。
君なしには生きていくなんてできないんだ。
頼む、ボクから離れないでくれ。
絶対だよ。絶対。
・・・・
君さあ、こんな時に言うのも何だけど、ボクは今、“Nowhere Man”の本当の意味が分かったような気がするんだ。
孤高を気取っていても、やっぱり、人並みに誰かが恋しいんだ。誰かが傍にいないと息をするのも苦しいんだ。
う、どうしたんだろう。
どうして、涙なんか出るんだろう。
「え、まさか。大変。」
素っ頓狂な声が部屋中に響き渡った。
「藤崎さん、藤崎さん、」
驚きに満ちた声で自分の名前を呼ばれて、藤崎は何事かと戸惑った。彼は、怪訝な表情で辺りを見回した。
「あ、瞳が動いた。見間違いなんかじゃないわ。誰か呼んでこなくちゃ。」
女は慌てて、部屋を飛び出して行った。
暫くすると、女は白衣の男を連れて戻って来た。
「先生、藤崎さんの顔を見て下さい。涙が伝った跡があるでしょ。」
男は首を傾げた。どうせ、女の見間違いだろ、そういう表情だった。
見間違いじゃなくても、そういうことは稀にある、そう言いたげにも見えた。
女はさらに力を込めて続けた。
「先生、よーく御覧になって下さい。」
そう言って藤崎の顔の前に指を差し出すと、ゆっくり左右に動かした。
「ほら、瞳が動いたでしょ。」
白衣の男は慌てた。
男の狼狽振りはそのまま言葉に表れ、上ずった声で言った。
「ま、まさか、まさか、、、、見間違い、、じゃないよね。」
「ええ。ちゃんと指を見てます。指の動きに合わせて瞳が動いてるでしょ。」
「そうだな。いつものような目じゃない。虚ろではなさそうだな。本当にちゃんと気づいているのかな。」
そう言いながら男は、藤崎の傍に歩み寄って、胸ポケットに忍ばせていたペンライトを取り出した。男はペンライトの明かりを藤崎の顔に当て覗き込んだ。藤崎は一瞬、眩しそうに目を閉じたが、また、開いて、その明かりをじっと見つめていた。
「藤崎さん、わかるかい。」
そう言われても、彼は何の事やらさっぱり合点がいかなかった。自分が今どこにいるかも、自分がどういう状態にあるのかも、彼には何一つ埒外に思えた。
それどころか、彼には白衣の男が自分に襲いかかる暴漢のように思えた。「何をするつもりだ」恐怖に脅えさえし、必死で抵抗しようとした。
しかし、思うように身体は動かず、まるで金縛りにあったように手足は硬直し、抵抗するどころかその場から逃げ出すことさえままならないのだった。否、それ以上に自分の意識で思いのままに身体を操る自由を失っているのだった。彼は苛立った。
無理矢理にでも動かそうとすると、余計に身体が硬直して、思うに任せず、どうして良いか、彼は焦った。やっとの思いで、手足の指先を動かすことができたが、それ以上はどうにもならないことに、彼は悔しくて表情を強張らせた。しかし、その僅かな変化が、彼をもう一度、生身の世界へと救い出した。白衣の男は強張った表情とピクリという指先の動きを見逃しはしなかった。
「藤崎さん、藤崎さん、藤崎さん」
白衣の男は何度も名前を呼んだ。
その度に藤崎の指はピクピクと動いた。
「奇跡だ。」
白衣の男は魔物にでも遭遇したような表情でそう言いながら、藤崎の手をさすった。そして隣にいる女に向かって、同意を求めるように
「こんなことがあるなんて驚きだ。」
と言った。
女もまた驚いた表情で、あるいは喜びに満ち溢れた表情で、ほとんど叫ぶように言った。
「藤崎さん、意識が戻ったのね。良かった。」
そう言われても、藤崎はとんと合点がいかず混乱するばかりだった。彼にすれば今にも襲いかからんとするかに見える白衣の男に怯え、どうにかしてこの不自由な体を振り解いて、この場から早く逃げ出してしまいたい、その一心だった。
白衣の男もそれを勘違いして、藤崎がこの世界に舞い戻ろうと必死で扉をこじ開けようともがいているように理解し、
「無理しなくて良いよ。すぐに体を動かしたりしたら、また、悪くなるかも知れないよ。」
と優しく言っていたわった。
「私が誰だか分かるかい。分からないだろうね。無理もない。君は今まで五年間も眠っていたんだよ。このまま、植物状態かと思って諦めていたんだけど、まさか、意識が戻るなんて、奇蹟だ。本当に良かったね。良かった、良かった。おめでとう。」
白衣の男と並んで立っていた女も嬉しそうにしながら、こぼれ落ちそうになった涙を拭っていた。
「五年前、君は事故でここに運ばれてきたんだよ。半死半生の状態でね。覚えていないだろけど。」
白衣の男は声を潜めながら、一語一語を噛みしめるように言った。
子供を諭すような穏やかな響きにも関わらず、却って、藤崎は困惑した。
どういうことだ。全く意味が分からない。酷い目眩が急に藤崎を襲い、その刹那、頭の中が混沌とし、ぐるぐると渦を巻き始めた。渦の中心から何かおぞましい光景がぼんやりと浮かんできて、次第に影を結び始めると、彼は恐怖で悲鳴を上げそうになった。
「そうだ、あの後だ。」
記憶の厚い壁が、その先に進むのを押しとどめようとして、彼は胸が苦しくなって来た。逃げ出したい気持ちがいっぱいで、その壁を乗り越えて行こうと言う勇気などそうそう簡単に湧いてきそうにもなかった。しかし、この壁は嫌でも越えて行かなければならない。
「ボクが僕であるためには逃げてはならない。自分自身を取り戻すために立ち向かわなければならない。」
どこからかそんな声がしたような気がした。苦しくても逃げる訳にはいかない。頑張れ、誰かが背中を押しているように思えた。
彼は、混濁した意識の中から、置き忘れてきた信実の欠片をひとつひとつを拾い上げる努力をした。
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「“Hello”って言われたって、絶対にこんなところになんか来てやるもんか、まだまだ“Goodbye”なんかする気はないからな。」
力一杯スロットルを回して道路に出た途端、バーン、、、。
そうだ、僕はその時、道路を走ってきた大型トラックに跳ね飛ばされたんだ。ちゃんと安全確認しなかったボクも悪かったけど、あのトラックもかなりの猛スピードだった。しまったと思う間さえなかったんだ。」
ほんの一瞬の出来事は、スクリーンに映し出されるワンシーンのように思え、彼にはまるで他人事であった。
「バーンっていう物凄い衝撃音が今も耳に残っているけど、あれはボクのものだったんだな。他人事じゃなかったんだ。あの音こそボクを深い闇に引きずり込んでいたんだ。」
閉ざされていた記憶が、少しずつ形をなしていくうちに、最早、他人事ではなくなりつつあり、それと同時に恐怖も甦った。おぞましい光景は彼を脅えさせた。
無意識に全身が震え、手や足や肩や胸もが痙攣を起こしたように動いた。
白衣の男は
「藤崎さん、大丈夫ですか。無理しないで下さい。」
そう言って、震える藤崎の肩を押さえるようにした。
藤崎はまだ夢の中にいるようだった。
「君が去ったのもあの時だったんだな。」
彼は胸の内で呟いた。
「あれからボクはひとりぼっちだったんだ。何するでもなく、一人でボンヤリしていたんだ。ボクは死ぬことさえ許されずただ眠り呆けるだけだった。いや、眠っていたかどうかさえ怪しいな。社会と隔絶してボクだけの世界なんて気取ってみても、ボクは何も得るものがなかった。何かを見出すことさえ出来なかった。自分の居場所さえ見つけることの出来ない不自由な奴さ。そんなことまでみんな君のせいにしてさ、でも本当はボク自身が逃げてただけなんだ。現実から目を反らしていただけなんだ。事故の恐怖に怯えて、現実の世界に戻るのを拒んでいただけなんだ。ボクはお粗末な人間だな。いや、だったな。もう、ボクは逃げたりなんかしない。君が戻って来てくれたんだもの。大丈夫、もう、大丈夫さ。やっと自分に勇気が湧いてきた。」
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「お帰り。、、、ありがとう。」
ボクの中に君という存在を結びつけ、僕という自分自身の人格をようやく取り戻した藤崎はその手応えを確実に芯中で受け止めていた。
目頭で踏み止まっていた涙が溢れ出し、藤崎の頬を伝い、枕を濡らした。
「どうして涙なんか出るんだろうな。」
やせ我慢の彼は、涙など見せるのが小っ恥ずかしくてこっそり拭っていたのも、今はどうにもできない。それが藤崎は悔しくてならなかった。しかし、その悔しさが彼に生きる喜びを与えてくれた。
藤崎の頬がきらりと光るのに気付いた医師は、ポケットからハンカチを取り出して、その涙を掬い取るようにして拭い、後ろで控えている看護師に向かって言った。
「すぐにご家族に知らせてあげなさい。」
看護師はうまく返事が出来ずにいた。喉元を突き上げる嗚咽を必死で堪えながら、医師の指示に従い、病室を出た。治る見込みがないと諦めながらも五年間ずっと世話を続けて来た患者だ。家族の負担を考えれば、死なせてあげた方が良いのではと考えたこともあった。そんな思い出が甦ってきて、嬉しさと共に懺悔のような気持ちがこみ上げてき、彼女は涙ぐんだ。ナースステーションに向かう途中、彼女は我慢しきれず声を出して泣いた。そんなところを誰かに見られはしないかと周りを気遣いつつ溢れそうになる涙を抑えた。そして、また足早にナースステーションに向かって行った。
「ここは病院なんだ。」
俄に周りが慌ただしくなっていくのをぼんやりと全身の皮膚で感じ取りながら、藤崎は気持ちを整理していた。嬉しい、そんな単純な気持ちではなかった。言葉では表せないさまざまな思いが複雑に交錯し、胸の内は茶褐色に染められたようであったが、何故か透き通って見えた。それは再び生に目覚めた彼の無垢な気持ちの表れだった。
丁度その時、聞き慣れたイントロが藤崎の耳に届いた。
“Let it be”
ゴスペル調の荘厳な曲調がポップシンガーらしくなくどこか気取って聞こえ、ビートルズファンの彼もこの曲ばかりは余り好まなかった。
なすがまま、それがまるで嘯いているように彼には聞こえた。
「Paulはいいよ、自分は成功したんだからな、それもとんでもない成功者なんだもの。でも誰もがそんなにうまく行く訳じゃないさ。なすがままになんて言ってたら何もできなかったなんてことになるだけさ。」
そんな穿った見方で、Paulの奢りを表した曲だと決めつけていたのだ。
子供の頃、Paulが落ち込んだりすると、死に別れた母が夢に現れ慰めてくれた、それがこの曲のモチーフだ、と、そんなエピソードを聞いても、素直に受け止めることはできなかった。Paulの穏やかな声が、まして嫌味にさえ聞こえた。
ところが今はどうだ。
僕を、他でもないこの僕を慰めてくれている、そんな錯覚がして彼の胸に深く染み込むのだった。
「なすがまま、そうだな、人生、なるようにしかならないんだ。諦めるじゃない。捨て鉢でもない。なすがまま、それで良い。それで良いんだ。無理することなんかない。なすがまま、なすがままに生きて行けば良いんだ。きっとそうだ。そうに違いない。
だって、、、だって、ボクは、今、とにかく生きているんだ。」
“Let it be”もエンディングに近づいてきた。
聞き慣れた曲を通して、彼は初めて「生きる」と言うことを真剣に考えた。そして本当の意味で「生きる」ことを肯定できた気がした。Paulが言いたかったのはこういうことなんだな。彼は思った。
藤崎はもの思いに耽りながら天井を眺めた。白一色の変化のない風景が踊って見え、ふと気になった。
母だろうか。
そうに決まっている。
病室にプレイヤーを持ち込んで、四六時中、ビートルズを流しっぱなしにしておいたのはきっと母だ。母は気休めにしかならないことも分かっていながら、僕の好きなビートルズを掛けておけば、そのうち意識を取り戻すかも知れない、そんな一縷の望みを託したのだろう。それが現実に功を奏したものか、果たして、それは分からない。が、自分が微かに残っていた命を繋ぎ止めて、みんなのいる世界にまた戻って来られたこと、何のお陰だろうとそれだけは紛れもない事実だ。
この世界は良いことずくめじゃない。それどころか汚くて、醜くて、苦しい事ばかりが蠢くのがこの世界かも知れない。だが、生きていることはそれだけで素晴らしい、彼は声を出せようものなら、この場で思いっきり歓声を上げたい、そんな気持ちだった。
ところで、和美はどうしているのだろう。
もしかしたら、母じゃなくて彼女だったのかも。僕が熱狂的なビートルズファンだと知っているのは母より寧ろ彼女の方だ。彼女が僕のために、、、いや、そんな筈はない。五年も、寝たきりの男を待つ馬鹿な女なんていないよ。
けど、ひと目だけでも和美に会いたい。
会えないと思うと、余計に会いたいな。
彼は結婚まで誓い合った彼女の姿を思い浮かべた。頭の中には屈託のない彼女の笑顔ばかりが残っていた。
ベッドの脇に据えたローチェストに置いたプレイヤーから流れる曲は“The Long And Winding Road”に替わっていた。
「僕には一瞬に思うけど長い道のりだったんだな。皆には随分心配かけたんだろうな。」
生きる喜びを改めて見出した彼は、周囲の人々に対する気遣いというものも呼び覚ましつつあった。
「初めての道を走って、知らない場所へ行くのってステキじゃないか。そういや、道って、知らない世界、未知の世界に誘うから、「みち」って言うのかな。」
そんな話を彼女にしたことを思い出し、彼女と過ごした楽しい日々に思いを馳せていた。
「どうしているんだろ。和美に会いたいな。」
トントン、ドアをノックする音がした。
看護師の背中には彼にとってこの世でかけがえのない人の顔があった。図らずも彼は思わず大粒の涙を流した。
母だった。
真っ白に染まった髪に徒に通り過ぎた歳月を嫌でも思わずにいられなかった。人が羨むほどの綺麗な黒髪が白くなったことよりも、身繕いを細やかに気遣う母が髪も染めずにいることの方が彼には辛かった。
「お母さん」
そう呼んで飛びつきたかったが、声が出ず、顔さえ振り向けることができない不自由さに彼は恨めしく思いながら、瞳を大きく動かし、母に精一杯の合図を送った。
「ね、今、瞳が動いたでしょ。」
看護師が喜び勇むように言った。
母の口元が細かく震えており、何か言いたげなのが彼にも分かった。驚きと歓び、その他のさまざまな感情が入り交じって言葉にならないのか、何を言って良いのか分からずにいるのか、母は言葉を吐き出そうとして出せないでいる口元を半開きにしたまま、ベッドに歩み寄った。
枕に沈めた彼の頭に覆い被さるようにして、母は自分の顔を近づけた。母の目から溢れ出す涙が彼の頬に零れた。息子の額に手を当て、ようやく聞き取れる程度のか細い声で
「敬、お帰り。」
と言った。
「只今、母さん。」
彼は必死で絞り出そうとしたが声にはならず、胸の内で答えた。だが、その声は母の胸にも届いた。
母は言葉に詰まってまま、彼の頭を抱きしめ、その瞳から溢れ出す涙が彼の頬を濡らした。。五年間の積もりに積もった思いが一気に洗い流されたようだった。
「そんなところにいないで、お入り下さい。」
看護師は、そっとドアを開け、その隙間から廊下に向かって誰かに声を掛けた。
促されるままに物静かに入って来たのは、浅黄色のブラウスに身をまとった小柄な女性だった。浅黄色は彼の好みの色だった。髪には彼がプレゼントしたカチューシャをつけ、唇には薄紅のルージュを引いていた。それも彼が贈ったものに違いなかった。
和美!
まさか、信じられない気持ちだったが、紛れもなく、フィアンセの和美だった。
彼女の顔も涙でくしゃくしゃに崩れていた。笑顔に溢れていた瓜実顔はどこか憂いを帯び、儚げに見えた。
母と入れ替わりに、和美は彼の傍に歩み寄り、くしゃくしゃの顔を寄せた。激しく漏れ出す嗚咽に邪魔されながらも、彼女は懸命に言った。
「敬、お帰り。」
喉の奥の震えがその声に表れていた。
和美の瞳から溢れ出た大粒の涙が零れ落ち、藤崎の頬で三人の涙が混じり合い流れ出し枕を濡らした。窓から差し込む夕日に照らされ、それは澄明な輝きを放っていた。まるで人跡未踏の森に湧く石清水のような初心さと神聖さに満ちているように思われた。
五年もの間、外界との関係を拒み、自分だけが君臨する世界に閉じこもっていた”Nowhere Man”の藤崎は、諦めもせずずっと待ち続けていた和美に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。そして、彼女に心から感謝した。
「Now here.僕はここにいるよ。」
彼はそう言いたかった。
余りの感動で、彼と同じように思いを伝えられずにいる和美は、喉の奥で詰まった言葉の代わりに、自分の頬を彼の頬にそっと擦り合わせた。
柔らかな頬の感覚は、初めて口づけをしたその時のままだった。
藤崎は胸の内で叫んだ。
All I need is love.