表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

天使が集う場所

殺されてしまった女性

作者: 夜久野 鷯
掲載日:2015/09/22

 彼は、わたしに純粋な愛をくれました。

 けれど、不器用なわたしは、彼に何ひとつとして返すことができませんでした。

 素っ気なく接してしまうわたしに、それでも彼は愛を捧げ続けてくれました。

 わたしは、わたしが嫌いです。

 でもそんなわたしを、彼は好いてくれました。

 わたしは、彼を好きになりました。

 でも。自分のことが嫌いなわたしに、誰かを愛する資格など、あったのでしょうか。

 いまとなっては、それすら、分からないのです。


     ◇◇◇


 通常より三十分遅れで仕事を終えた彼は、隣でなおも無言で作業を続けている彼女に何度も頭を下げながらようやくオフィスを離れた。

 本来ならば彼がやらなければならない仕事を彼女はあっさりと――というより、さも当然のように引き受けてくれたのだった。もう、彼の心は申し訳ない気持ちでいっぱいである。

 彼が課長から、今年度の総決算表を作ってくれと頼まれたのは二日前、十二月九日のこと。本来ならば会計が行う業務だが、底冷えする師走の気候に負けたようで、仕事ができず、特に何も仕事を請け負っていなかった彼が急遽作成することとなったのであった。

 だが、通常業務ですらろくにできない彼に、そんな大役が務まるはずもなく。結局、このオフィス一仕事のできる彼女――管理職の連中より余程彼女はできる人間なのだ――に泣きついて、代役を買ってもらったのであった。

 彼女の方も、こうなることを予測していたようで、無言で頷くと早速パソコンに金の出入りの軌跡を記し始めた。

 仕事を代わってもらったことを、課長は快く思っていなかったようであったが、「仁岡におかさんに任せた方が、絶対効率がいいです」という彼の言葉に渋々肯定をした。課長も、今年の仕事の能率が劇的に上がったのは、新入社員の彼女のおかげであることを重々承知していたし、何より彼女の能力を最も認めているのは課長自身であった。だから、彼女に委託すればまず間違いはないということに間違いはなかった。

 彼は、超人的な力を発揮する彼女の同期である。入るからには大手企業、という思いとは裏腹に実力は芳しくなく、仕方なくこの中小企業、浅岡商事へと入社した。対して名の売れた会社ではなく、どちらかといえば地域密着型の組織で、程々なものを程々な値段で売り程々な業績を残す、というよくあるパターンだ。

 高給は望めないが、まず倒産はしないだろう。そんな思いから、この会社を選んだのだが……。

 そこで彼は運命的に――といっても彼が一方的に思っているだけだが――彼女と出会った。

 できる女性というのは往々にして敬遠されがちだ。彼女の場合は、加えて一際目立つ美貌があったものだから、職場の女性、主に三十代後半の古顔の批判を買った。が、彼女はそれに屈することなく、着々と業績を伸ばし、ついでに他の人の仕事までこなし、属する総務の社員だけでなく、営業部や開発部の間でも一目置かれる存在となった。

 彼女が、まだ社交的な性格であれば、実力と人気は比例していったかもしれない。しかし、残念なことに彼女は大抵無言で、黙々と任務を遂行するタイプの人間だった。そのことが、美人が故の冷たい雰囲気と相乗効果を生み出し、比例どころか反比例することとなってしまった。

 それでも、力ある者に信頼を寄せるものは多い。約十名の同期や、二、三年先輩の職員の間では、彼女のせいで自分の力が下に見られると嘆く、あるいは恨むものがほとんどだったが、もっと先輩の社員(特に男性職員)や、重要なポストに就く人間にはめっぽう好かれていた。だが彼は例外で、同期であるが彼女には全幅の信頼を寄せていた。なにより運命を感じた相手なのだ。何があっても好意を抱き続ける覚悟くらいは持っていた。たとえ、それが迷惑だと思われていたとしても。有能なうえに美人だという理由だけで反感を買うことの多い彼女を、彼は守りたいと思っていた。

 すでに、辺りには夜の帳が降りはじめ、乾燥した凍える空気が彼を取り巻き、熱を奪っていく。

 彼女は果たして自分のことを好いてくれているのだろうか。

 ふとそんなことを思い、いやな想像をかき消すように首を左右に振ると、赤いマフラーを締め直して歩きだす。


   ◇


 白河慶二しらかわけいじは、冬休み前最後の講義を受け終えると、講師に向かって小さく一礼して足早に教室を出た。大学にしては早めの、十四日からの冬季休校らしいが、大学一年生の慶二には今一つ実感も湧かない。高校より早いことだけは、間違いない。

 なぜ彼が急いでいるかというと、もう三十分後に一緒に暮らしている女性、鷹村玲菜たかむられなとの約束が迫っているからだった。彼女はいつも、忙しいときに限って理不尽な理由で彼を呼び出し、慌てて走ってくる彼を笑いながら待つのだ。これが恋人なら許せるが、仕事の先輩だから許さなくてはならない、というつらい境遇である。

 仕事、というのは、普通の職業のことではない。死者の魂で溢れ返ってしまっている天界をなんとかすべく、神様が考えだした特別任務を遂行する、天使という職である。

 天使たちは、日本に三百名ほど存在する。彼らは、天界より通達を受け、救うべき人物の氏名、住居、状況などを教わり場合に応じてターゲットに接近、そのまま救出を試みる。その作業を三千回行えば、晴れて天使を卒業。癒し効果だけを残し、天使だったという記憶はすっぽりと抜け落ちる。という仕組みになっている。

 ほんとうに天使の記憶が抜けるのか、と慶二は疑問視していたが、今年の秋、三カ月前に元天使であろう五十代の女性と玲菜が会っており、今ではその考えは持っていない。

 なぜ彼女が慶二を呼び出したかは分からないが、どうせ、十日後はクリスマスだから先にプレゼント買ってよーなんて言うに違いない。彼女は、我が儘なのだ。

 すれ違う友人たちや、サークルの先輩たちと挨拶を交わしながら、自宅付近のカフェへと向かう。このカフェは、一カ月前にオープンした珈琲専門店、〈ラファエロ〉という喫茶店だ。マスターがものすごくイケメンであるとか、雰囲気が中世ヨーロッパ風でお洒落であるとか、珈琲通をも唸らせる味を持つ逸品を提供してくれるとかで、雑誌やテレビで紹介されまくっているいま流行りの店なのだ。

 流行に疎い慶二は、あちらこちらで話題になっていたにもかかわらず玲菜から教わるまでその存在を知らなかった。彼女はそのことをひどく馬鹿にしたが、馬鹿は今更分かったことではないだろう、と言い返すと彼女も黙るほかなかった。互いの性格を知るには十分すぎるほどの時間を二人は共有していた。

 彼がようやく珈琲屋のある通りに辿り着くと、既に店の周りには長い行列ができていた。ちょうど時刻が、昼時であることも重なっているのだろうが、さして大きく店を構えているわけでもないカフェにこれだけの人間が列を連ねているというのは、慶二にとっては理解しがたいことなのであった。

 玲菜はどこにいるのだろう、と最近買い換えたスマートフォンを取り出すと、メールが一件届いていた。玲菜からだ。


『やっほう! いまカフェ内に入ったよ♪ 並ばないで、店に入って』


 そこまで読んで、慶二は絶句した。溜息とともに吐き出された思いは、羞恥か苦悩か。

 いずれにしても、実行しないわけにはいかない。何故なら、カフェで落ち合う約束になっているからだ。天使は、約束は破らない。仮に慶二が天使でなかったとしても、玲菜との約束を破ったらどんな目に遭うやら。

 ――少なくとも、「満面の笑みで、『僕を待つ天使のもとへと導き願います我が神様』って店員さんに言ってね!」という依頼以上の困難が待ち受けているに違いない。

 はあ……天使は職業だからいいとしても、導き願います我が神様とはいったいどういうつもりなのだ。なぜ、店員にそんなことを言わねばならないのか。むしろお客様が神様だろう。

 まあ、玲菜の無茶ぶりはいまに始まったことでないし、元気のない彼女を見るのももうこりごりだ、と自らに言い聞かせ、慶二は覚悟を決めた。

 レンガ造りの重厚な外装も、なかなか趣がありヨーロッパの空気を感じさせたが、内装もまた素晴らしかった。

 照明は、すっきりとした白で明るくなり過ぎないよう調節されている。各テーブルには、ややオレンジがかったレースのテーブルクロスが敷かれており、中央には一輪差しが置かれている。慶二は花の種類に詳しくないため何の花かは分からなかったが、黄色の淡い花弁は店の雰囲気を一層優しいものにしていた。

 やはり一番目につくのは、カウンター席か。二十席ほどの四人掛けテーブル席はすでに満席となっており込み合っているのだが、そこから僅かに離れた所に位置するそこには常連と思わしき客がのんびりと珈琲を楽しんでいる。そこはまさしく別世界で、年季の入った木製のカウンターでは一人の男が無言で豆を焙煎している。歳はまだ三十代半ばと見えるが、独特の貫録を持つ風変わりな男だ。マスターに違いないと慶二は勝手に決め付けた。それが正解であることは、後に知ることとなる。

 男の後ろの棚には、さまざまな種類の豆が置かれている。珈琲を入れるためと思われる機械も数多くあったが、名称までは分からない。そのうち訊いてみようと慶二は考えた。


「こんにちは。待ち合わせてるんですが……」


 店内を一通り見終えたところで、慶二は受付でレジを終えた古風なメイド服に身を包んでいるウェートレスに言った。若々しいが、おそらくは三十代前半。慶二も百七十センチ前半とさほど大柄ではないが、かなり見おろす形になったところを見ると、彼女の背丈は百五十センチにも満たないのではなかろうか。

 優しさを含んだ事務的な口調で、「どちらさまでしょうか」と尋ねられたところで、慶二は背後から刺さる猛烈な視線に気づいた。なんだよ、ちゃんと言うか確かめるつもりなのか。


「僕を待つ天使のもとへと」掌にじわりと汗がにじむ。「導き願います、我が、神様」


 決死の思いで口にすれば、メイドは思わず吹き出し、それから慌てて表情をつくろった。わざとらしい咳払いをして、「白河様ですね」と確認する。心なしか、同情の念が込められている様な気がした。


「はい。そうです!」


 大きく肯定したところで、彼はようやくメイドの思い込みに気づいた。

 彼女はきっと、恋人にからかわれている哀れな男だと慶二を認識しているのだ。一般に、天使の職は知られていない。つまり、普通なら、天使イコール恋人という脳内変換がおこなわれるのだ。

 恋人(と思われている相手)を天使と呼ぶなんて、なんて気障な言葉を口にしてしまったのだろうかと慶二は己を呪った。これは職業病ととらえてもいいのだろうか。天使と言われても特命のことしか思い浮かばないというのは、天使の鑑だと思っていいのか。むしろそうであってほしい。


「あの女性は、僕の先輩で、彼女ではないんですよ」


 僕を待つ天使にさらに言葉をつけたすのなら、僕を待つ悪魔のような天使の先輩、となるのだろうか。


「そういうことにしておきます」


 メイドは楽しげに笑うと、こちらですと玲菜のいる席へ慶二を案内した。


「遅かったねー」


 にやにや笑いを浮かべながら、彼女は珈琲をすする。彼女の前髪には、可愛らしいデザインの黒猫のピンが留められている。よく見れば、彼女が着ているセーターにも黒猫が描かれているし、ハンドバックにも黒猫のぬいぐるみがつけられている。

 あからさまな黒猫アピールに、慶二はいやな予感がした。


「でさぁ、今日来てもらったのは他でもない」

「かわないよ」

「まだなにも言ってないよー」


 玲菜は頬を膨らませたが、近くにウェートレス――先ほどの人とは別の店員だ――を見つけると、「珈琲二杯お願いします」と微笑んだ。長期戦の覚悟を慶二は決めた。

 それから慶二に向き合って、「かわない、ってどういう意味よ」と問うた。


「買わないと飼わないの、二つの意味があります」と真顔で返せば、「つまらん」と一蹴された。慶二は傷ついた。


「ごめん言いすぎた落ち込まないで元気出してって」

「あー駄目だー天使の先輩がここ奢ってくれなきゃ僕のライフは尽きてしまうー」

「……調子に乗るな」

「ごめんなさい、僕が優しくてかっこよくて美人で大人な先輩に珈琲を奢りますから」

「そこまで言うと、嫌味になるぞ」


 玲菜は呆れ顔で彼に警告したが、その後すぐに、「否定はしないけど」と相好を崩したところを見ると満更でもなかったようだ。


「でも、僕ばっかり玲菜さんに贈り物して、玲菜さんは僕になにもくれないなんて卑怯だと思う」

「ひ、卑怯」彼女は詰まったが、すぐに「わたしが一緒にいてあげることがなによりのプレゼントでしょう」と返答した。

「玲菜さん自身が僕のプレゼントってか?」

「そうだよ」

「じゃあ、玲菜さんは僕のものだから僕の自由にしていいってことだね」


 真面目な口調で話し、屈託のない笑顔を捧げれば、玲菜は目を見開き瞬間顔を紅潮させた。滅多に見られない彼女の一面だ。


「からかっただけだよ」慶二は少し笑って、「自由にしたいとも思わなっ、」


 そこまで言いかけて、慶二は脛に強烈な一撃をくらった。テーブルで位置関係が分からないというのに、寸分の狂いなく蹴りを入れる玲菜の技術は、相当なものだ。

 涙目で「痛い」と無言の訴えをすれば、なぜか玲菜も涙目で「馬鹿ぁ」と零した。


「なんで玲菜さんが泣いてるんだよ」

「わたしが慶二に攻撃する前に、わたしは心にダメージを負ってたんだよ。慶二が悪い!」


 秋の一件以来、玲菜は彼をあだ名ではなく、名前で呼ぶようになっていた。名前で呼ぶことに彼女が慣れてくると、「まあ、前のあだ名のレリックは、ちょっと変だったしね」と苦笑した。確かに、遺存種というニックネームは妙だと思う。

 いままで名前で呼ばれることは滅多になかっただけに、彼女の口からその言葉が溢れると不思議な暖かさが心に沁みて、幸せな気分になれる。

 その奇妙なくすぐったさには、いまだ慣れない。


「僕は、入店の時点で重傷を負っていたけどね」

「わたしだって、慶二がなかなか来ないから寂しかったし」

「ありがとう。寂しがってくれて」

「ぬわぁぁ!? 五月蝿い、黙れ黙れぇ」

「玲菜さん、お店の迷惑だよ」


 溜息を洩らしつつも、「僕が悪かったよ」と彼女にしっかり謝り、絶妙なタイミングで運ばれてきた珈琲を飲むことでその場はおさまった。

 筈だったのだが、数分と経たない内に、玲菜が蒸し返した。


「あのさぁ」玲菜は俯きながら、「その、あれだよ。確かに、わたしからプレゼント、したことなかったよね」

「ああ、その件ならいいよ、別に。たくさんの人が救われていくことが、最高の贈り物だよ」


 穏やかに、しかしきっぱりと言い放つと、玲菜は「うー」と謎の唸り声をあげた。


「で、でも、欲しいものくらいあるんじゃない?」

「うん……まあ、いまは天界からの依頼もないしね」


 そこまで慶二が言いかけたところで、彼のスマートフォンから最近人気を博しているアニメソングが流れた。玲菜が、慶二もこのアニメ好きなんじゃん、と頬を緩ませたので、彼は「玲菜さんが観てるときに、一緒に観てるから……」と言い訳をした。苦し紛れである。

 玲菜に感化されていつのまにやらファンになってしまったんだよね、とは言えない。玲菜になんだか負けたような気がする。


「早く出れば?」玲菜にせかされて、彼はようやく画面を見た。そこには、天界の二文字。「天界からだ」

「えー、このタイミングで?」

「仕方ないよ」苦笑いを浮かべつつ、慶二は通話に応じた。「もしもし」


『遅いぞ、何やってたんだ』


 声を聞き慶二はうんざりした。その表情を見てか、玲菜がちいさく「高科たかしなさん?」と口を動かす。その通りだ。

 高科、というのはエンゼルカンパニーの中でもかなり上位クラスの天使で――会社で表すのなら部長のポストになるか。ともかく、彼から連絡が入ることは滅多になく、ごく稀にかかってくればその依頼は無理難題、しかも失敗すれば五時間の説教付きという悪夢が待っているのである。

 それだけでも心身ともに凄まじい疲労に襲われるが、それに拍車をかけるのは高科の人間性、否、天使性である。細かいことに口を出し、完璧な場合はミスを誘いその失態にねちねちと小言を言い、仕事に関係ないプライベートなところまで土足で踏み込み、罵倒する。

 過去に一度、慶二は彼からの電話を受けたことがある。そのときはまだ天使歴一年の新人で、玲菜からは「天使の洗礼だから仕方ないねー、ま、気にしないでよレリック」、と言われた記憶があった。


「私も大学生の身分ですので」やんわりと説明をして、「どなたの救出依頼でしょうか」

『ああ、手短に説明するぞ。一度しか言わんからよく聞け。いいな』

「分かりました」


 三分ほど、慶二は高科の説明を聞いていた。性格は極悪だが、部長クラスの人間には違いない。救出するべき人間の特徴と事件の背景の概要の語りは明瞭で、直接脳内に書きこまれるようであった。

 通話を終えると、慶二は向かいの席で寛いでいた玲菜に仕事の内容を知らせた。今回の救出は一人では難しいと彼は踏んだのだった。おそらくは、高科も彼が先輩である彼女に助けを求めることを想定していたのだろう。だったらはじめから二人で行えと言えばいいのだが、高科はそんな男ではない。「こんな仕事も一人ではできないのか。お前もまだまだひよっこだな」と一言言うためにあえて黙っていたというのが真実か。


「ニュースで見たわ。これは、警察が絡んでるからね。あまり口出せないかな」玲菜が難しい顔をして呟き、「まあ、霧崎きりさきさんだっけ? のケアは必要だろうし、とりあえず、いまから会いにいくか」と残った珈琲をすすった。

「場所は、案外近いし」慶二も同意した。


 概要だけで、どこに住んでいるかまで慶二は伝えていなかったので、彼女はもっともな疑問を口にする。


「近いって?」

「うん。僕たちの住んでいるアパートの、向かいのマンションが自宅らしい」

「だからわたしたちに頼んだのかぁ」

「だろうね」


 脳内を完全に仕事モードに切り替えながら、二人は珈琲代を払った。全額払わなければ、と内心冷や汗をかいていたのだが、彼女は何も言わずに自分の分だけを精算した。

 彼女なりに、先ほどの慶二の言葉を気にしていたのだろう。


     ◇


 霧崎雅則まさのりは、完全に閉め切った部屋の隅っこでうずくまっていた。会社には、体調不良で休むとだけ伝えてある。彼女がいなくなってしまったいま、もはや会社が機能するはずもなかった。以前なら、仕事を分担してなんとかやっていけるよう努力したはずだ。

 けれど。彼女の登場で、浅岡商事は変わってしまったと先輩は語っていた。優秀な人材は、会社にとって毒にも薬にもなったのだ。

 仕事の能率は確かに上がった。彼女が、人一倍――いや、二倍も三倍も尽くしたからだ。

 しかし、個々の社員の能率は下がった。彼女に、任せっきりだったからだ。当然の結末である。


「なんで、」


 雅則は、闇に囁く。まだ昼時だというのに、分厚い紺色のカーテンは閉められ、電気も消されている。唯一、この部屋に明かりがあるとすれば水色の蛍光の時計くらいか。

 普段は空気を含んだ柔らかな黒髪も、いまは鳥の巣の如く絡まっている。顎には、髭が残っており一見すると浮浪者だ。


「なんで、死んじゃうんだよ」


 雅則の尊敬する同期、仁岡麗子れいこが会社で殺されているのが発見されたのは、昨日、十三日の朝であった。業務が始まる九時よりも前に来る清掃員が、倒れている彼女を見つけたとのことだった。職場に行ったらパトカーが止まっており、しかも彼女が殺されていたのだから、雅則の思考は完全に混乱していた。それでも、ぼんやりと事実を受け止め、昨日はある程度の話を聞いて他の社員と共に帰宅した。

 麗子は、資料室で絞殺されていたと課長から聞いている。本来、資料室の鍵は閉められており清掃員もそこまでは入らないのだが、部屋の扉が僅かに開いていたことを不審に思い開けてみると、そこに死体があった、という経緯だった。

 殺された原因を調べるために、彼女のパソコンを調べたところ、一部のデーターが欠けていることが分かったのだ。警察は復元を急いでいるが、暫く時間がかかりそうだった。


「麗子さん……」


 絞りだすような声で名前を呼べば、たちまち瞼が熱を持ち、雫が頬を伝った。それはとどまることを知らず、静かな嗚咽を引きつれて流れ続ける。部屋を包む空気は、彼を慰めない。

 どれほどの時が経ったのか。突然鳴ったチャイムで、雅則は我に返った。暗闇に二時ジャストの文字が浮かび上がっている。

 警察かな、と適当に予想をつけた。彼女と同期の中では強い関わりを持っていたために、後日話をすることは昨日聞いていた。彼も、犯人逮捕につながるならと快諾していた。

 手で軽く髪を整え、涙や鼻水を洗面所で洗い流す。カーテンを開いて部屋に明かりを差しこませて、ようやく雅則は玄関のドアを開けた。


「こんにちは」


 穏やかな笑みを浮かべて立つ人物は、到底警察には見えなかった。それに、スーツを着ていない。私服警官なのかとも思ったが、男の後ろに立つ女性の「猫一色」の姿を見ると、刑事の説は完全に消えた。

 誰だ? 至極当然の疑問が沸き起こる。


「僕は、白河慶二と申します」男が名乗れば、背後の女性も暖かな口調で、「わたしは、鷹村玲菜です」と語った。


「あ……俺は、霧崎雅則、です」

「雅則さん、とお呼びしても?」


 玲菜、という女性が問うたので、彼は「どうぞ」とだけ呟いた。それから思いだしたように、「上がってください」と手招きする。彼らがほっとしたように息をついたので、なんとなく雅則は笑ってしまった。素直に感情を表に出すタイプではないが、どうもいまひとつ隠しきれない様子だ。信頼してもよさそうだ、と部屋の電気ストーブをいれながら彼は思う。


「珈琲でも飲みますか?」

「結構です」


 二人が同時に断ったので驚いていると、男性――慶二と言ったか――が、「ラファエロに行ってたんです、さっきまで」と弁明した。なるほど、珈琲専門店で飲んだあとにわざわざそれを飲む気にはならないだろう。


「じゃあ、日本茶でいいっすか?」

「ありがとうございます」


 雅則は奥にしまっていたお茶の缶を取り出すと、急須に茶葉を落としてポットの湯を注ぐ。湯呑を三つ出して、順番に、少しずつ淹れていく。


「意外ですねー」間延びした声で玲菜が言うので、彼は「ええ、まあ」とだけ答える。


「女性の趣味、とか?」

「え」

「やったー、当たったみたいだよ、慶二!」


 素直に喜びを表現する彼女にどう接すればいいか分からなかったが、ともかく悪い人でないことは確実なのだ。彼女らになら、麗子のことを話してもいいかもしれないと雅則は思った。


「実は、その、女性というのは俺の同期の女性でして。俺はなんというか、完全に片思いだったんすけどね。多分、向こうは仕事のできないクズ男くらいにしか見てなかったと」


 口調が淡々としているだけに、愛する人を失ったものの悲しさがより一層伝わってくる。心の内に秘めた哀惜の感情は、静かに言の葉に乗せられて慶二たちの心に突き刺さった。

 紺のカーテンが中途半端に開かれているのに、玲菜は気づいた。先ほどまで閉めていたのだろうか、と疑問に思ったが、さすがにそれを訊くのは躊躇われた。彼の話す苦しみに比べれば、カーテンのことなど些細なもののように思えた。


「でも、彼女、きっと孤独だったと思うんだよなぁ。俺なんかがその隙間を埋められるなんて、到底思えなかったけど、でも、やっぱり、支えになりたかった」


 機械のように仕事をこなす、優秀な女性だったと高科から聞いていた。敏腕で、端正な容姿を持つ麗子は、人付き合いの悪さからあまり好かれていなかったと。雅則の話を聞くまでは、慶二も少し麗子に対しては苦手意識にも似たものを漠然と抱いていたのだが――。

 こんなにも愛してくれる人が、ちゃんといたんじゃないか。

 それだけでも、せめてもの救いであったと彼は思った。


「決算表の仕事、麗子さんに任せちゃってさ。その帰りに、麗子さんは俺のことどう思ってるのかなぁってふと思ったんです。でも、いまじゃ、それすら分からないんすよね……」


 瞳を潤わせて項垂れる彼に、玲菜が優しく諭すように話す。


「麗子さんが、あなたが思うようにほんとうに孤独だったのなら、あなたの愛情は、伝わってたはずよ。優しさになれていない人は、何よりもそれに敏感だから。はじめは戸惑ったかもしれないけれど、雅則さんの思いに偽りはないのでしょう? だったら、伝わらないはずがないじゃない」


 頭をあげて、雅則は玲菜と視線を合わせた。そこにあるのは、救いを求めてすがるようなか弱さでもなく、綺麗事はいらないというような卑屈さでもなく、心の底からの感謝だった。言葉以上の感情が、その瞳に映されていた。

 彼ならきっと大丈夫だ、と慶二は悟った。自分で立ち上がることの出来る人間は、独特の瞳を持っている。そのことを、過去の経験から慶二はすでに知っていた。

 だが――それは、雅則が「何も気づかなかった場合」の結末だ。


「これ、僕の電話番号です。もし雅則さんが苦しい思いをしていたらいつでも連絡をください。僕は心理学を学んでいるので、もしかしたら支えになれるかもしれません」


 慶二は電話番号をメモした紙を渡して、「そろそろお暇しますね」と立ち上がった。


「ありがとうございました」雅則はこれ以上ない、というほどの思いを込めて言って、「心が、軽くなった気がします。これ、心理学の力なんすか?」

「ま、似たようなものっすよ」


 慶二は親近感を高めるために口調を真似して返答した。彼も、軽やかな笑いを返してくれた。


「では」


 もう一度だけ頭を下げて、二人は立ち去った。


     ◇


 雅則の住むマンションを出ると、霧と言った方が正しいような小雨が降り始めていた。先ほどまでは澄んでいた冬の空には、ずっしりと重たい灰色の雲がかかっている。暫くすると、本降りになりそうな雨雲だった。

 二人は慌ててアパートに向かって走り出した。

 自宅につくとほぼ同時に、雨粒が勢いを増した。轟轟とうなる雨音に耳を傾けながら、間に合ってよかったと濡れた髪をぬぐい息をつき、それから話題は今回の依頼のことへと変わっていった。


「天界に報告だねー」玲菜は安心したように呟く。「あの人、ちゃんと麗子さんの死を受け止めてたし。定期的に連絡取れば、大丈夫じゃないかな」

「うん……」


 歯切れの悪い返事に、彼女は小首を傾げる。慶二は硬い表情を浮かべて、自身の考えを口にする。


「麗子さんは、殺されたわけでしょ。資料室って言ってたし、犯人は会社の人間だ。まあ、十中八九。外部の人がデーターを盗むために忍びこんで鉢合わせた可能性だってなくはないけど、あまり好かれていた人でもなかったんだし、内部の人間の犯行だと思うんだ。推理とかはあまり得意じゃないから間違った考えかもしれないんだけど」


 そこまで言ったところで、彼は左側の彼女にここまでは大丈夫か、という無言の問いかけをする。玲菜は黙って頷いた。

 彼はさらに続けて、


「警察が来るっていうのは、まあ雅則さんが麗子さんと仲が良かったからだとは思う。事件当夜のアリバイがどうなってるかは分からないけど、彼には殺す理由がないからね。一方的な片思いで狂う人もいるけど、僕にはそうは見えなかった」

「まあ、悪い人じゃなさそうだったしねぇ。わたしたちにも、必要以上の警戒心見せなかったし」


 慶二の言葉を裏付けるように、玲奈が言葉を挟む。


「まだ犯人が社内の人だってことを雅則さんは気づいてなかったみたいだけど……。仮に気付いたとして、会社内に犯人がいるってことは、逮捕されない限り同じ職場で働くことになるんだよ。たいせつな人を殺した奴と、同じ所で仕事したくはないだろう? そうすると、次に考えるのは」

「会社の誰が犯人か?」

「僕ならそう思うって話だけどね。あいつは麗子さんの力量を妬んでいたから――あいつは麗子さんの美貌に嫉妬していたから――あいつは麗子さんの能力を恐れていたから――疑い出せばキリがない。疑心暗鬼に陥って、人間不信になる可能性だって捨てきれない。犯人が捕まらない限り、彼に真の救いは訪れない」


 慶二は厳しい目で遠くを見つめる。雅則を救う手段が犯人逮捕だとすれば、もはや二人にはどうしようもないことなのだ。捜査は刑事の仕事。慶二の仕事ではない。


「あ、でもさ」思いだしたように玲菜が呟くと、忘れないうちに発言しておこうといわんばかりの速さで後の言葉を継いだ。「強力な味方がいるじゃない」

「誰?」

「麗子さんだよ。鎮魂部署に問い合わせればいいじゃん!」

「そうか! その手があったか」


 以前心中に失敗した女性を救うために、独りで亡くなってしまった男性の言葉を慶二が肩代わりして伝えたことがあった。「彼」の言葉を聞いた女性は、その想いに応えるように元気を取り戻し、感情を失いかけていたのが嘘のように明るく暮らしている。玲菜は、いまでも彼女と連絡をとっているようであった。

 慶二は嬉々としながら、電話をとると天界の番号十四ケタを入力した。いままで何度もかけてきたため、もはやメモを見るまでもない。

 大抵、彼らは二回のコールの後に受話器をとる。しかし、なぜか今回は四度目で応答した。

 何故だろう――形容しがたい、もやもやとした疑惑が脳裏によぎり、彼は瞬間息を詰める。意識の外側では、篠突く雨が猛威を振るっていた。


「こんばんは、救出部署の白河慶二です。仁岡麗子さん、お願いできますか?」


 ようやく繋がった電話にそう問えば、向こうから落胆とも動揺ともつかない、魂が抜けるような重々しい溜息が返ってきた。


『驚くなよ。仁岡麗子は――』


 その答えを聞いたとき、慶二の表情は複雑な心境で固まった。薄々、今回の件は一筋縄ではいかないような気はしていたのだ。

 通常ならば、そのような事態となったところで事件解決にはかかわりはない。

 だが、こと、雅則の救出ということとなると、彼女の協力がいずれ必要になるのは目に見えていた。それは、愛する者を失った人を救出したことがあるからこそ分かる、確信めいた予測なのである。

 さて――どうしたものか。

 切り札ともなるべき、彼女はもう手の内にない。

 彼女は、天界から姿を消してしまったのだった。


     ◇◇◇


 彼が好きになってくれたわたしを、わたしは愛してみることにします。

 受け入れることから、すべては始まると思ったのです。

 いまさらなにかを始めようなんて、あまりに愚かなのでしょうか。

 本来ならば、終わらなくてはならなかったのですから。

 けれど。わたしは、与えられた機会を活かすことにします。

 ――それが、きっと彼に対する償いとなるのだから。


     ◇◇◇


 慶二と会話をした十四日の翌朝、つまり十五日、雅則は会社へ向かう準備を整えていた。もはや彼女のいない職場へ行く意味などないと感じていたが、今は違う。自分は、彼女の分まで生きなくてはいけないのだという使命感にも似た思いを抱いていた。

 あの後ほどなくして、先輩後輩コンビの警察――名を、原口、藤井と言った――が雅則のところへ話を聞きに訪れていた。同期の中では数少ない、彼女に好意を抱いていた人物であったし、交流も他者と比べれば多い方だった。そのため、彼女の人となりを確認するために、彼も聞き込みのリストに加わったようであった。

 昨日は鳥の巣に失礼なほどに絡まっていた髪も、なめらかに空気を含んだ柔らかいものに変わり、顎のあたりをうっすら覆っていた髭もさっぱり剃られている。紺色のスーツを着込み、青のストライプのネクタイを鏡の前できっちり締める。資料と携帯、財布を鞄の中へ放り込み、思い出したように手帳とUSBを詰め込んだ。

 行ってきます、と誰もいなくなる部屋に呼びかければ、すっかり慣れてしまった寂しい沈黙が返ってくる。やはり、一人暮らしというのは孤独との闘いなのだとつくづく思う。

 最寄りの駅へ向かいながら、ふと、彼女も――麗子も、一人で暮らしていたのだろうかと考えた。彼女から自身のことを聞いたことなど皆無であったし、そもそも会話が成立したことなど右手だけでも余るほどだ。ただ、麗子の孤独は痛いほど伝わっていた。今なら分かる。彼女は、おそらく幼い頃から人並み外れた能力と容姿により敬遠されてきたに違いない。大人でさえあからさまな態度を取るのだから、より感情を隠すのが苦手な子どもならばどんな態度を取られてきたかは想像に容易い。頼りにはされたかもしれないし、羨望の的にもなったかもしれない。けれど、友人として扱われたことなど、ないに等しかったはずだ。

 いつしか、麗子にとって唯一の友が、孤独となっていたのではないか。それは彼女の一部だったのではないか。ならば、一人で暮らす環境というのは地獄どころか天国であったかもしれない――。

 物思いにふけるうちに、雅則はいつしか電車に乗り込んでいた。彼女のことを考えると、どうしても周りが見えなくなってしまう。彼女には二度と会えないという感情が、冷やかな流れとなって胸の間に沁みていく。その凍てつく思いを溶かすように、小さく首を振って赤いマフラーを結び直すと、再び想像の海に身を任せた。

 それから二十分ほど単調なリズムに揺られ、ようやく会社に辿り着いた頃にはすでに多くの同僚たちがデスクに座っていた。彼女がいない分を己の力でカバーしなくてはと息巻いているようだった。


「おはよう!」


 右隣の同期に笑いかけると、彼は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに泣き笑いの表情で「霧崎ぃ、昨日休んだだろー、ほんと心配したんだぞ! このままやめちまうんじゃないかって」と胸を小突いた。雅則より背が高く体格もよい彼の小突きはかなり痛い。痛てぇなと笑いながらも、左の席を見やると麗子の代わりに花が置かれていた。寂しさが心を支配する。

 彼は、同期の中で最も信頼を置いている友人で、雅則も相手のことを気軽に龍太りゅうたと呼んでいる。そういえば、彼の締めるマフラーをプレゼントしたのは龍太である。

 雅則にとっても、彼は心の安らぐ一時をくれる重要な存在だった。


「とにかく戻ってきてくれてよかったよ」


 龍太は大きく頷いてから微笑んで、再びパソコンと向き合った。この男は、気さくな性格でありながら女性とまったく縁がないという不思議な人物だ。恋した女性には必ずといっていいほど彼氏がいて、奪おうともしないから結局恋は報われない。雅則も、麗子は色恋沙汰こそなかったものの性格が性格だったため、そんな共通点からこうして深く通じ合うようになったのかもしれなかった。


「あ、そうだ。何度も悪いんだけど」


 覚えているうちにそれとなく聞き出そうと、雅則は彼に話しかけた。小さく声を洩らしてから、椅子を回転させて彼が視線を合わせた。


「結局さ、総決算表ってどうなったんだろな?」

「あー、お前が仁岡さんにパスしたあれか」


 総決算表――もともとは会計の仕事だが、体調不良で仕事ができず、手の空いていた事務の雅則が九日に急きょ頼まれたことだった。が、自分の手には負えないと、十一日に麗子に代わってもらった仕事である。

 聞いた理由はといえば、昨日聞き込みに来た刑事が、最近彼女が請け負っていた仕事を訊いてきた際に、雅則が総決算表の作成だと答えると途端に彼らの顔が曇ったからだった。一部データーが欠けていたというのは聞いていた話だが、どうやら、その中の一つが決算表らしい。

 まさか表を作らないわけにもいかないので、誰かがその仕事を引き受けたはずだった。


「課長が鮎川あゆかわに頼んでたぞ。あいつは会計担当だかんな、早く仕上げなきゃなんねぇし、妥当な人選だろ。もともとは、会計の仕事なんだから」

「鮎川か。さんきゅ」


 彼なら大丈夫だろう、とひとまず安堵して、心も整理できたところで、ようやく彼は目の前に山積みになった仕事を一つずつ片付けていった。もう、麗子には頼れない。そんな感情を胸の中で反復させながら。


     ◇


 異変に気付いたのは、鞄から手帳を取り出したときだった。普段は乱雑に入れているせいで探すのに一苦労するのだが、今回ばかりはやけに早く見つかったのだ。悲しいことにそれを不審に思った雅則は、鞄の中をよく確認してみた。


「うわっ……」


 見事に整理されていた。小さなポケットにはUSBが資料順に並べられている。しかも、付箋で中の資料が書かれているという丁寧さだ。プリントをはさんだ資料ファイルも無駄なく収められているし、おまけにその中身も紙と紙のずれがなくなっていた。携帯はバイブの振動が伝わるよう底に置かれている。手帳はUSBのポケットの横の収納部分に入っていたらしく、それで手を突っ込んだ瞬間に掴めたのだろう。

 今朝の行動を思い起こしてみるが、雅則は確かにいつも通り適当に放り込んだはずだった。

 整理されているのは悪いことではないし、紛失したものもない。そういえば、USBに付箋を貼るのは麗子の癖だったなとぼんやりと考えていた。

 妙なこともあるもんだと思っていると、受付からの電話が鳴った。間もなくして、課長が雅則の名を呼んだ。


「霧崎、客が来ているぞ。どうやら……仁岡君の妹らしい」

「は?」

「その様子じゃ妹の存在は初耳らしいな。まあ、私もだが」


 課長は笑いながらさらに、


「とりあえず会ってこい」

「分かりました」


 雅則は返事と同時にコートとマフラーを手に取って、一階下の受付へと出向いた。

 はじめにその姿を見たときは、一瞬彼女が麗子の妹であるとは認識できなかった。彼女も美人ではあったが、冷淡な雰囲気はまるでなく、むしろ朗らかで優しげな風貌であった。髪は麗子と同じく黒々としている。それをゆるくカールさせて、後ろで束ねていた。服装も、襟と袖口にファーの付いた茶色い膝丈のワンピースに白のケープ、と女子らしい恰好をしている。一通りの容姿を目に焼き付けたところで、彼女がまだせいぜい高校生くらいであることに気づいた。

 が、やはり気になるのは彼女が車椅子に座っているということだった。あまり見ても失礼かと一瞬目を逸らしかけたが、そちらの方が更に悪質だと判断し、目を見たまま近寄った。


「はじめまして。麗子の妹の、愛佳あいかと申します」


 ソプラノの声だったが、決して甲高くない、不思議な心地よさがあった。凛とした――一種の悟りを開いたような、堂々とした声質だったからかもしれない。


「あ、俺は、霧崎雅則っす……です」


 少しかがんで、愛佳と目を合わせるように言った。


「お会いできて光栄です。姉と連絡を取り合うと、いつも姉は霧崎さんの話をしていたんですよ」


 麗子は社会に出ると同時に一人暮らしを始め、実家には愛佳と両親の三人で暮らしているのだという。


「姉が家族以外の人の話をするなんて珍しくて……それで、どうしても一度お会いしたくて。でも、私はこんな身体なので、なかなか来られなくて。いまは冬休み前で午前授業が続いているんですけれど……機会を待っている間に、姉は」

「そ、そっか」


 まだ愛佳は言葉を紡いでいる途中だったが、言いたいことは把握したので遮るように会話を終了させた。姉は亡くなってしまって、と妹に改めて言わせるのは酷なことであると思えたのだ。赤の他人である雅則がこんなにも苦しいのだから。


「姉が霧崎さんのことを話す理由が分かった気がします」

「聞きたいような聞きたくないような……」


 雅則は正直に言った。それを聞いた妹はくすくすと笑いながら「悪いことじゃないですよ」と話す。その口調は、はっとするほど麗子に似ていた。突き放すような冷たさこそないものの、やはり姉妹なのだと雅則に実感させた。


「こんなこと言ったらお姉ちゃん怒るかもだけど」いつの間にか、親しげな言葉に変わっていた。「お姉ちゃんは、人のこと信用できなかったんだと思う。自分が何でも出来ちゃうから、それが当り前だったから、同じようにできない他の人を信頼しきれなかったんだと思うんです」


 ならば、なにもかも頼りきりだった雅則は、この世で最も信用できない男だったのではないか。そんな考えが脳裏をよぎった。

 指先が、マフラーに触れる。


「でも、霧崎さんって本当に優しいんですね。私のこともちゃんと見てくれたし、目線まで合わせてくれて。嬉しかった」


 愛佳が喜んでくれたのならば、彼女を傷つけることなく対応できたのならば、それでよかったと彼は感じた。


「だからきっと、お姉ちゃんも霧崎さんの優しさが本物だってことに気づいたのかも。霧崎さんのこと話すお姉ちゃんは、上手く言えないんだけど……ほんっとに柔らかい感じだったし」

「そうなんだ……俺は、麗子さんには嫌われていると思ってたよ。ろくに仕事もできないクズ野郎だってね」


 自嘲気味に言ってみると、愛佳は「あっ、でも、仕事は残念だけどって言ってたなぁ」と悪戯っぽく返答した。


「や、やっぱり」

「ま、でもお姉ちゃん人の悪口言うタイプじゃなかったから、そういう意味でも特別だったんだと思います」


 雅則の心を絶妙に揺さぶる言い方をしてから、愛佳は白のレースがあしらわれた皮製のポシェットを探りだした。肩かけの紐には、黒猫のぬいぐるみが付けられている。愛佳はようやくものを取り出して、「これ、お姉ちゃんが買ってたやつなんですけど」と雅則の方へ車椅子を動かしてきた。

 首を傾げながら彼の方からも近づき受け取ると、小さな赤いパッケージだった。


「中身、見ていい?」

「うん。何が入ってるかは、私も聞いてないんだけど……なんかね、優しさのお返しなんだって。自分は仕事を請け負うって形でしか返せなかったけど、せめてクリスマスにこれは渡そうって、一昨日くらいに電話してくれたの。霧崎さんに買ったものだし、渡した方がいいと思って」

「麗子さんが……」


 胸から押し寄せてくる暖かい波を必死で押さえこみつつ、蓋を開けてみると控えめに輝くタイピンが納まっていた。

 鳥の形をしたデザインで、目と羽根に宝石が埋め込まれている。角度によって色合いが変化し、派手すぎない光を眩く放つそれは、素人目にも本物であろうと思えた。

 彼女は、こんな高価なものをくれようとしていたのだ。


「タイピンかぁ。多分、会社でつけてくれてるのを確認できるやつにしたかったんだろうな」

「ああ……なるほど」愛佳の意見に賛同し、膝から一気にしゃがみ込むとタイピンを付けてほしいと申し出た。愛佳も、快諾してくれた。


「はいっ、どうぞ」

「うん。たいせつに、する」


 付けてもらった刹那、涙腺が限界を超えた。一旦流れてしまうと、それはもう止まらなくなってしまった。情けないと思いながらも、涙は拭かず、不器用に笑って見せた。

 愛佳も、一緒に泣いてくれた。


     ◇


 三十分ほど話をしたのち、雅則は業務へ戻った。小さい会社であるので、バリアフリー化など当然されていない。段差がなくなる場所まで愛佳を送り出してから、アドレスを交換して別れた。

 昨日降った雨のせいで、朝方はまだアスファルトが濃い灰色をしていたのだが、いまはもうすっかり乾いていた。暖かな気温は十二月にしては珍しいほどで、冬ならではの乾燥した白い空が雅則には眩しく映る。

 再びパソコンと対面すると、溜まっていた仕事を一気に消化し始めた。何故だか、とても効率よく仕事ができるようになっていた。麗子の仕事ぶりをずっと横で見てきたからだろうか。いままでできないと思えたことも、いまなら乗り越えられるような気さえしていた。


「雅則、いつのまにそんな出来る男になったんだよ」


 右側から驚愕とも呆れともつかない言葉が投げかけられた。前者なら仕事を麗子にバトンタッチしていた無能男の変身ぶりを素直に驚いたのだろうし、後者ならそこまでできるなら、なぜいつも代わってもらっていたのかという不信感を抱いたのかもしれない。


「ん? ってか、そのタイピンさっきから付けてたっけ?」


 目ざとく気付いた彼に、実はと事の経緯を説明した。


「ほはぁ、じゃあ、そのタイピンに麗子さんの力が宿ってるのかもな! はははっ」

「なぁに非現実的なことを言ってんすか」


 オーバーに笑って見せたが、雅則はそれは案外的を射ているかもしれないと思い始めていた。

 あのいつの間にか整理されていた鞄。電車に乗っている間に、無意識に麗子のことを想像して整頓したのかもしれない。彼女のあの能力が、自分に僅かながら宿ったのかもしれない。そして、それがタイピンという形でいよいよ本格的に自分のものになろうとしているのではないか――。

 不意に、背後から視線を感じたが、振り返ってみてもそこには誰もいなかった。窓から、真昼の太陽が差し込んでいる。


     ◇


 慶二と玲菜は、雅則の様子を伺うために浅岡商事に来ていた。風も吹かず、気候も穏やかだ。慶二は普段と変わらず薄手のコートを着ているが、寒がりな玲菜も今日ばかりは厚手のコートを脱ぎ捨てて、もこもこのパーカーを羽織っている。


「雅則さん、元気にしてるかなぁ」


 何気なしに玲菜がそう呟くと、目の前をゆっくり進んでいた車椅子の少女が動きを止めた。

 それに気がついた慶二が、その少女の方へと近づいて膝をかがめると、「も、もしかして、霧崎さんの知り合いの方?」と尋ねた。何で敬語なんだと玲菜は一瞬疑問に思ったが、彼の背後に回って少女の顔を見て氷解した。慶二は美人の前では緊張するたちだ。証拠は、彼が玲菜に初めて会ったときにとても緊張していたことだと玲菜自身が考えた。なんともおめでたい考えだが、事実彼女も可愛らしい姿はしている。


「あ、ええ。といっても、ついさっき会ったばかりなんですけれど……」


 言葉を探すように返事をしてくれたので、慶二は警戒を解くべく会話を続けるために、自己紹介をした。天使は、人と話すことで心の距離を縮め、苦しみを軽減させる力を持つのだ。彼女が救いを求めているようには見えないが、対話による癒し効果は常に発揮されるはずだった。


「僕は、白河慶二、です」

「私は、仁岡愛佳と申します。高校二年生です」


 どうやら彼女、麗子の妹らしいと二人は答えに辿り着いた。


「わたしは、鷹村玲菜! よろしくねー!」

「よろしくお願いします」


 にっこりと愛佳が微笑むと、途端に周りの空気が明るくなったような気がした。姉である麗子は人付き合いが苦手であったのに対し、彼女は周囲の人間を幸せにする才能を持っているかのようであった。


「もしかして、雅則さんに会いに来たの?」


 質問すると、雅則の知り合いだと確信したのか、愛佳は笑顔のまま「はいそうです。一度会ってみたかったのと、姉が霧崎さんに渡そうとしていたものがあったので、それで来たんです」と理由付きで返した。


「渡そうとしていたもの?」


 初めて聞く情報だと慶二は思わず彼女の言葉を反復した。そもそも、妹の存在自体いま初めて知ったのだから、いかに天界がくれる情報量が少ないかを改めて思い知った。


「中身は知らなかったんですけど、鳥の形をしたタイピンでした」

「そうか。うん、実はね、僕たちは雅則さんが心配で様子を見に来たんだけど……杞憂だったようだね」


 麗子の妹と話をすることで、自分自身の中でも一つの区切りを彼は付けただろうと慶二は踏んだ。ならば、第三者である二人がこれ以上踏み込んでいく必要はなさそうだ。


「雅則さんのこと、よろしくね。あの人、人の心の痛みが分かるだけに、自分で思い詰めちゃうタイプだと思うから」

「はい。連絡先交換したから、これからはお互いに支えあえればって思います」

「よかった。こんな心強い味方がいるなら、もう安心だな」

 慶二はやんわりと微笑むと、「そういえば、この黒猫のぬいぐるみ、玲菜さんも持ってるよね」と振り返った。

「うん。ああ、猫欲しいなぁ。飼いたいなぁ」

「かわないよ」


 昨日と同じやり取りをしていると、愛佳は微笑ましそうにそれを眺めながら、「このぬいぐるみは、お姉ちゃんが……死んじゃった前の日にくれたんです」と言った。


「そっかぁ……最後のプレゼント、大事にしなきゃね」


 玲菜が優しく言うと、愛佳も泣いている様な笑っている様な表情を浮かべて、「そうします」と微笑んだ。二人もつられて微笑して、一緒に駅の方へと向かった。時刻は昼ごろだったのでランチも共にして、結局夕方まで一緒にいた。

 愛佳も現実を真摯に受け止めていた。雅則も、彼女がいい心のよりどころとなるだろう。救出は成功したようだ。


     ◇


 仕事に熱中している間に、いつの間にか業務時間が終わっていた。夕日はもう沈みかけ、外はすっかり夜の気配に満ちている。今日は、薄い三日月が浮かんでいた。

 重要な仕事は大抵終え、昔の溜まっていた分も何とか消化しきった雅則は、決算表を頼まれた鮎川のもとへと向かっていた。理由は、決算表について聞くためだ。


「鮎川ぁ」


 鮎川も、担当は違えど雅則や麗子、龍太の同期であるので、それなりに会話もする男だ。名字で呼び捨てにしあう程度には仲はいい。


「なんだ?」


 返事をした鮎川は、妙に疲れているように見えた。決算表を作るというのは、やはり専門の会計とはいえ大変なことなのだろうと適当に予想してみる。


「どうだ? 決算表」


 たいした推測もなしに訊いてみただけなのだが、鮎川はなぜか酷くうろたえた様子で立ち上がると、「仁岡さんからなにか聞いていたのか」と低い声で雅則を見下ろした。意味が分からないといった表情を浮かべて雅則が立ち尽くしていると、鮎川は、「そりゃ聞いていたなんて俺に言えるわけがないよな」、と的外れも甚だしい発言をして、さらに「聞かなかったことにしてやるから、お前は黙ってろ」と半ば脅迫する。


「どういう意味だよ、まじで、俺は何も」


 勝手に話を進めるなと、雅則にしては珍しく声を荒げて反論すると、奥から「霧崎」と課長の声がした。

 鮎川が絶望的な表情を浮かべる。左腕に付けた時計に手を触れている。反射的に見てみると、かなり高級なものであることが雅則にも分かった。彼女からのプレゼントだろうか。そういえば、三日前から付けていたような気がする。

 事情を知らない雅則も、急に頭に警告音が鳴り響いた。


「なんでしょうか」


 腹の底からわき上がる感情には気づかないふりをして、雅則は課長に伺った。背の低さもあるのかもしれないが、課長に対する恐怖心はなくなっていた。麗子よりも小柄な彼を恐れることなどないと脳が判断していた。


「何故君は、仁岡君にこの仕事を引き渡したんだ」


 それは彼女の方が効率よく終わらせられるからだと説明したではないか、と思いつつも同じことを口にした。

 雅則は、この総決算表こそが麗子が殺された原因ではないかと疑い始めていた。彼女のUSBからは、この総決算表のデーターが抜けていたという。そして、この課長と鮎川の態度。鮎川は、課長から何か含められたのではないか。


「課長、もうあがる時間なんで、帰っていいですか?」


 沈黙を破ったのは、龍太だった。場違いな発言ではあったが、それは空気を日常へと引きもどした。


「――ああ、いいぞ。霧崎、お前も曽山そねやまと帰れ」

「分かりました。龍太、一緒に帰ろう」


 その場はなんとかそれで収まったが、後には何ともいえないわだかまりだけが、雅則の胸に残った。

 駅に向かいながら、彼は龍太に一言礼を言った。


「助かった」

「いやぁ、あの空気やばかったっしょ。決算表、なんか秘密があるのか? うちは普通に、程々なものを程々に売る中小企業のはずなんだがなぁ」

「そう信じたいけどな」


 それ以上、会話は続かなかった。

 二人を追いかけるように、薄い三日月が浮かんでいる。


     ◇


 家に帰ると、ちょうど玄関口に原口と藤井が来ているところだった。先ほどのできごとを話した方がいいかもしれないと駆け寄ると、案の定決算表について彼らは訊いてきた。


「データーの復元ですが、どうもまだ時間がかかるようで。USBが破壊されている以上、もう我々も諦めていましてね。そこで、なにか仁岡さんから預かっているものはないか、とお聞きしたいのですが」


 昨日ずっと質問をしていた先輩刑事の原口がそう語ってから、「そのタイピン、あなたのものですか?」と質問してきた。安物のスーツとネクタイに合わせるには、確かにこのタイピンは高価すぎる。小物の価値を一瞬で見抜くあたり、この刑事はなかなか目が利くようだ。

 

「いえ。今日、麗子さんの妹にお会いしまして。麗子さんが僕にプレゼントするように買っていてくれてたらしいんすけど……それを、愛佳ちゃんが持ってきてくれて」

「ほう。そのケースですが、お持ちですか?」

「ええ」赤のパッケージを渡してから、「でも、なにか入ってるとは思えないですけど……」

「――確かに」


 落胆する刑事らに、雅則は先ほどのできごとを話した。


「やっぱり!」


 昨日から沈黙を守っていた藤井が、反射的に口走った。先輩刑事がちいさく舌打ちをする。それから、渋々といった様子で、


「浅岡商事は、少額ながら借金を抱えているんですよ。課長がどうも会社のお金を着服したようで」


 とわけを説明した。その発言で、雅則の中である一つの結論が導き出された。慎重に、彼は推理を話した。


「俺たちはそのことを知りませんでした。課長が隠していたからですよね。でも、決算表で金の出入りを細かく書いていく間に、麗子さんは使いこみに気付いた。それで、課長が……麗子さんをっ」


 彼らは何も言わなかった。突如、携帯のメロディが鳴り響いた。先輩刑事は電話口で「帰宅したか」と呟いたが、すぐに電話を切ると、「ご協力感謝します」とだけ言って足早に立ち去った。なにか、事件に進展があったのだろうか。

 刑事が帰ったあとで、雅則は、ようやく自らの愚かさに気がついた。資料室で殺されていたのだから、犯人は会社の人間である可能性が最も高いではないかと。そんな簡単なことにも気付かず、自分は人殺しかもしれない相手の命令に従って仕事をしてきたのだ。犯人は目の前にいたかもしれないというのに。


「くそ……っ!」


 麗子を殺した犯人を、自分は絶対に許さない。怒りに震える拳をもう片方の手で包み、はじけそうな憤りを抑え込もうと試みる。この思いは、愛佳も同じのはずだと。そう思うことで、なんとか理性を保とうとした。

 が、もはやそれは不可能だった。課長が麗子殺しに関わっていることは誰の目にも明白だ。けれど、データーが欠けている以上、麗子がそのことに気づいていたという証拠はない。ましてや、殺人の証拠はもっとない。このまま、警察は課長を取り逃がすかもしれないという最悪のシナリオが脳裏をよぎった。

 ――とにかく、課長に話を聞きに行こう。

 そんな思いを胸に立ちあがると、誰かが雅則の肩を引っ張った。


「うわぁぁぁぁぁ!」


 なぜ自分以外の誰かが部屋にいるのだ、そもそもどうやって入ったのだ、そしてなによりこいつは誰だ、そんな様々な感情が渦巻く中で、完全に混乱しきった雅則は、振りかえりざまに背後に殴りかかった。

 すかっ、という空振り音が聞こえてきそうなほど豪快に殴り損ねると同時に「落ちついてください」と女性の声がした。


「……え?」


 その声は、ずっと会いたかった人物の声にそっくりだった。

 まさか――。まさか。


「麗子さん?」


 霧が晴れたように心が落ち着いてくると、目の前に白い装束姿で苦笑しながら雅則を見上げる彼女の姿があった。


「い、生きてたんですか」声が震えた。

「いいえ、死んでいますわ」


 真面目に返事が返ってきた。整った顔も、真っ直ぐな黒髪も、会社の姿そのままだ。違う点はといえば、スーツの代わりに白装束を着ていること、そして足の辺りが霞んでよく見えない、といったところか。


「死んでるなら……じゃあなんでいるんですか」

「天界から抜け出してきました」

「天界ってなんですか!」

「天国のことです。天国っていったら、向こうの天使さんから『ここは天界のエンゼルカンパニーだ!』って怒られたわ」


 雅則の質問攻めにも、心なしか嬉しそうに対応する。

 雅則と麗子は知る由もないが、天使を職業とする慶二と玲菜はこのエンゼルカンパニーの職員である。彼らが在籍するのは、救出部署という神様が直々に人間の中から選抜した人間がいるところだ。天使でありながら人間の姿をしているのは、そもそも人間の中から選んでいるからというわけである。


「まあ、落ちついてください。誰が私を殺したかは分からないのだけど、でも課長は犯人じゃないわ。絶対に」

「なんで分かるんですか」


 麗子が幽霊となっていま目の前にいるという現実は、思ったより簡単に受け入れることができた。たとえ霊だったとしても、こうして会えていることに変わりはない。会社で感じた気配は、麗子のものだったのである。


「課長は、私よりも背が低いから。首を絞めるには、肩を上げなきゃいけないでしょ? でも、そんな感じはしなかったのよ。死に際とはいえ、私もかなり抵抗したしね。身長が低いなら、さすがにそのことには気づいたはずよ、私も」

「なるほど」納得してから、「そういや、麗子さんとこんなにお話しするのは初めてですね」と苦笑した。

「そうね……ごめんなさいね。本当は生きている間に、もっと霧崎くんに恩返しをしたかったのですけど……」

「いや! 助けられたのはこっちの方っすから。それに、タイピン。ありがとう! 大事にします」

「ありがとう。タイピン、愛佳に付けてもらっていたわね」


 何故それを知っているのだ、と思うと同時に、雅則は今日の不可思議な出来事を思い出した。


「もしかして、鞄整理したのも、仕事がはかどったのも、麗子さんのおかげっすか?」

「鞄は私がこっそり整理したけど仕事に関してはノータッチよ」タイピンの霊力が、などと現実離れした考えを起こした自分が酷く恥ずかしかった。「実は遠目に見ていたけど、よく頑張ったわね、霧崎くん」

「見てたんすか! 照れるなぁ。そうだ、愛佳ちゃんのところにも行ってあげて下さい!」


 そういうと、麗子は悲しげな表情を浮かべて、「真っ先に行ったのだけど……あの子には、私が見えないのかもしれないわ」と呟いた。「アドバイスもらいたかったのに」

「そうですか……なにか伝言があれば、愛佳ちゃんにいま伝えますよ! アドレス交換したし」麗子の後半の台詞は、聞こえなかったようだった。心なしか彼女も安心している。

「そうだ、私があげた猫のぬいぐるみの中に、USBが入っているわ。それを、警察に持っていくように言ってくれる?」


 保険用に妹にデーターを預けていたとは。もしかすると、心のどこかで彼女は自らの死を覚悟していたのかもしれなかった。だからこそ、今こうして冷静な対応がとれているのだろう。冷静沈着な麗子らしい、と自然に頬が緩む。

 彼女の言葉を聞き、そういえば、彼女はポシェットにぬいぐるみを付けていたっけと、昼間のことを思いだしながら、携帯に掛けてみた。愛佳はすぐに出た。慌てた様子だった。


『霧崎さん! 警察の人がね、お姉ちゃんがくれたぬいぐるみを壊そうとしてるの! なんか、入っているかもしれないからって……でも、私嫌なの! これは、お姉ちゃんの最後のプレゼントなの。これでなにも入ってなかったら……』


 彼女の言葉が聞こえたのか、麗子は苦しげに唇を結んだ。しかしすぐに真顔に戻ると、「中にUSBは入れているから、説得してくれない?」と耳元で雅則にことづける。


「愛佳ちゃん。実は、麗子さんから聞いていたことを、思い出したんだ。大事な資料を、こっそりプレゼントに隠して、妹に、届けるんだって」


 妹の存在すら今日知ったのだ。嘘をつくことは苦手だったが、これが犯人逮捕につながるのならと頭をフル回転させた。読点ばかりの台詞になってしまったが……頼む、信じてくれ。


『お姉ちゃんが……分かった。調べてもらうね!』


 ほっと一息つきたい衝動を抑えて、なにかが発見されるのを電話越しで待っていた。数分と経たず、奥から「発見しました!」と歓喜に沸く声が聞こえてくるのが分かった。


『なんか、パソコンに差すあれが見つかったよ!』

「そっか。よかったよ。これで、犯人逮捕間違いなしだね」


 暫く雑談をしてから、雅則は電話を切った。それから麗子の方へ向きあって、


「これから会社に行きましょう。課長はまだいるはずですから。そして、……麗子さんを、殺した人間も」

「そうね。急ぎましょう」


     ◇


 駅を出ると、そのまますぐに会社へ向かった。課長はいつも、最後まで会社に残っているのだ。そのせいで社員は帰りにくいのだが、本人はそれに気づいていない。今日も例外ではないはずだ。

 会社に使いこみがあったという話は、電車の中で麗子から詳しく聞いた。

 はじめに決算表を書いている間は気づかなかったらしいのだが、売上金や購入額がどうもうまく噛みあわないと不信に思った彼女は、資料室を探ったのだという。すると、同じ年のファイルがもう一つ、奥の方にあるのが分かった。そちらの方には、正しい金額が記されていたが、なぜか一カ月ごとに二十万ずつ差し引かれていたのが気にかかった。疑惑が大きくなる中、過去の資料も調べてみると実際と掲載された内容が一部異なっていることも分かった。いままでの総額は、九百六十万。実に、四年間にわたって着服があったということになる。なぜいままで気づかれなかったのかは謎だが、本来は会計が行う仕事だ。着服は会計が犯人なのだろうか。ならば、決算表を誤魔化すのは小さな会社では容易いことかもしれない。しかし、その後ただでさえ不慣れな仕事を通常業務もままならない雅則に委託するのは、課長の人選ミスであると麗子は考えた。なぜ、課長は彼を選んだのか。ほんとうにただの人選ミスなのか。課長自身は仕事量的に、決算表を作るのは難しい。そこで、あえて仕事が苦手な人物に任せることで犯人はその事実を隠蔽しようとしたのだ。それができたのはただ一人。犯人は課長であろうと推理した。会計と共謀して、いままで隠し通してきたのだろう。


「いま、決算表は誰が作っているの? そんな話をしていたような気がするけど、昼間はどうも、長くいられないのよ」

「鮎川っす。それで、あいつ、俺に麗子さんから何か聞いていたのかって問いつめたのか……」

「え?」

「鮎川は会計担当だから、麗子さんと同じように怪しいって思ったのかも。ただ、課長が犯人ってとこまでは分からずに、直接課長に訊いてみたのだとすれば……」

「脅迫されているってこと?」

「じゃないかなぁ」


 だとすると、鮎川の身も危ないかもしれない。雅則は、一抹の不安を胸に、そして課長と問いつめるという覚悟を胸に、三日月の宿る夜空を背にアスファルトを蹴る。すぐ後ろを、麗子が追いかけてきていることを感じ取りながら。

 ――果たして、会社にはまだ明かりがついていた。駐車場には、課長のものである車も停められている。来たかいがあったと思いながら、中へ入った。

 同僚たちが驚いたように一瞬振り返ったが、早く家に帰りたいからと残業に専念する。決算表作りはやはり重労働らしく、魂の抜けた状態で鮎川も仕事を再開した。課長だけが、そのまま雅則の方へ向かってきた。彼もまた愛佳と同様、麗子には気づいていないようだ。麗子が見えるというのは特別なことなのだと、少しだけ優越感も覚える。


「何しに来たんだ」


 単刀直入に、雅則は課長の罪について尋ねた。


「毎月二十万。結構な額っすよね?」

「何の話だ」

「とぼけんな。……よく四年間も隠しましたね」


 沸き起こる憤慨を押し隠し上から睨みつけると、課長は怒りに震えながらも観念した様子で「仁岡君から聞いていたか」と呟いた。

 いつしか、課の全員が雅則と課長の話を聞いていた。質問には答えずに、雅則は考えを述べ続ける。


「でも、麗子さんを殺したのは課長じゃないんですよね。僕も、課長に人殺しができるとは思っていません」


 ほっとしたような表情の課長に、雅則は続けて、


「でも、直接手を下さなくても、殺すことはできますよね。――共犯がいれば」

「なっ……何を言っているのだ。私は課長だぞ」

「これ以上白を切ると、天罰が下るっすよ。悪いことは言いません。自首してください。それを言いに来たんです。そして……麗子さんを殺した犯人の目星も付いています。その人にも、俺は自首してもらいたい。では、俺は帰ります」


 横にいるはずの麗子を見やると、いつの間にか課長の背後に回り込んでいた。何をするつもりかと凝視すると、デスクの上の分厚いファイルを持ちあげて、思い切り課長の頭に叩きつけた。鈍い音が響く。突然持ち上がったファイルに社員たちの間に戦慄が走ったが、誰よりも驚いていたのは課長だった。


「天罰です。呪われないだけ、ありがたいと思いなさい」


 麗子の口調を真似して言い放つと、課長は目を見開いて声を洩らすと、気が抜けたように椅子に腰を落とした。

 無様な。そんな言葉を心に浮かべて、雅則は振り返りもせず機敏な足取りで会社を後にした。

 帰り道、雅則は麗子に、「まさかファイルで殴るなんて思わなかったっすよ」と笑顔を向けた。「麗子さんもあんなことするんっすね。意外だなぁ」

「スカッとしたわ」微笑む麗子の姿は、やはり愛佳に似ていた。続けて「霧崎くんが天罰なんて言葉を使うからよ」と彼を見上げる。


「俺のせいっすか!?」

「そう。……雅則くんのせいよ!」


 麗子は、生前では見せなかった明るい笑顔でそう言うと、照れ隠しに「早く帰りましょう」と走り出した。その後を、慌てて雅則が追いかける。

 白く細い月が、暗い夜空をやわらかく照らしている。そんな穏やかな、師走の夜。


     ◇


 翌朝、犯人が自首したことを雅則は知った。愛佳から、朝一番で連絡が入ったのだ。


『なんか、鮎川って男の人だって』


 やっぱりか、と雅則は思った。憎しみは相変わらず心を支配しているが、それ以上にこれで麗子も浮かばれることだろうという安堵感が大きかった。

 鮎川を怪しいと感じたのは、あの時計を見た瞬間だった。同期であるから、給料がどの程度であるかは予想がつく。彼女からのプレゼント説もあったが、それにしてもあまりに額が大きい。そこまでの金持ちならば、時計以外にも高価なものがあるはずだった。しかし、どうもそれらしきものは見当たらない。そこで、雅則はそれが口封じのために課長が渡したものでないかと疑ったのだが、三日前という日付が総てをつなげた。三日前は、まだ麗子が生きている日なのだ。

 あとは、ニュースで報道されたこと、愛佳から聞いたことを記していく。殆どは、麗子の推察通りだった。

 課長は、四年前から会計係と共謀して十万円ずつ会社の金を横領していた。ところが、その共犯が風邪で会社に来られなくなってしまった。しかし、決算表は早急に作らねばならないものだ。そこで、横領の事実に気がつかないであろう雅則に、会計の仕事を押し付けたのだった。手が空いている、という建前のもとで。

 ところが、彼はあまりに仕事ができなさすぎたために仕事を麗子に委託してしまう。課長自身が、最も彼女の能力を信頼していただけに、どうなるかの予想は容易についた。

 横領の事実がばれるのは時間の問題だ。しかし、ここでいまさら会計に引き渡そうとしても、麗子の疑惑を深めるだけだ。そこで、課長は上役に逆らいにくい新入社員の鮎川を金で釣り、麗子を殺すように命じたのだ。あの時計は、仕事を行わせるための手付金の役割を果たしていたのだった。

 課長の思惑通り、鮎川は麗子を殺害し、その場を去った。そしてそのときに、決算表のUSBを破壊した。彼女は、USBに中身に関する付箋を貼る癖があったが、それが裏目に出てしまったのである。

 こうして、課長は横領の事実を隠し通し、共犯である鮎川に総決算表の作成を申し出たのだ。魂の抜けたような鮎川の姿が思い返される。彼は、加害者でありながら被害者でもあったのだろうと今なら思える。

 結局、殺人事件があったことで会社にも捜査の手が入り、横領の事実は明るみになってしまったのだが……。

 犯人が逮捕され、安心して泣き崩れる愛佳を電話越しに慰めてから、昼過ぎにカフェで会う約束をした。課長の逮捕で今日は仕事どころではないだろうから、自主的に休暇を取ることにした。このくらいの我儘は許されるだろう。

 ――有能な彼女だって、きっと怒りはしないだろう。


「ねえ、麗子さん」


 ああ、昼間は長くとどまれないんだっけ。そんな風に思いながらも、声が届くと信じて話を続ける。


「俺は、いろんなことを麗子さんから教わりました。でも、まだまだ、麗子さんといっぱいお話したいんです。――俺は、ずっと麗子さんのことが好きでした。でも、きっと嫌われてると思ってたから、言えなかったんすけどね。俺なんかが、麗子さんの心の支えになれるなんて思えないけど、でも、ちょっとでも助けになれればって、思ってたんです。でも……助けられてたのは、ほんとうは、俺のほうだったんすけどね」


 反応はなかった。いまはいないのかもしれないな、と残念に思いながらも、この想いは伝えないほうがいいのかもしれないとも感じた。今の状況を、せっかく手にした奇跡の関係を、壊したくはなかったから。

 目いっぱい開かれたカーテンの奥では、明るく輝く真っ白な冬の空が雅則を祝福していた。

 自分の中で区切りをつけるために。吐き出したい想いを、すべて乗せて、雅則は誰もいない左隣に囁く。


「だから、もう少しだけ、俺の傍にいてくれませんか?」


 左肩で誰かが頷いたのを、雅則は、確かに感じた。

 頬を緩ませて、彼は静かに涙を零す。

 暖かで、しあわせな涙だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ