切欠
ただ彼に触れてみたいと、そう思った。切欠は判らない。それは多分、自分でも気がつかないぐらいに些細なことで、殆ど衝動的な欲求に近かったと思う。
ゆっくりと電車に揺られる帰り道。仕事の終わった後の、気だるいような浮き足立った雰囲気の人間たちが乗る車内でのことだった。
いつものように仕事場から歩いて駅へと向かう途中で、少しだけ早足で歩いていた私は先へ行ったはずの彼へと追いつくことが出来る。
業務が忙しくない時の週に三回か四回程、彼と一緒に帰ることが当たり前となっていた。
もちろん約束はしていない。だから、これは偶然みたいなもので、今日もまたいつもと同じような偶然だ。
傍らで楽しそうに話す彼を意識しながら、出来るだけ普段と変わらないように私は振る舞って相槌を打つ。
彼と喋る会話の大半が趣味の話で、残りが仕事絡みのこと。会話が途切れないようにしながら、次の駅へ着くまでの二人きりの時間を過ごす。それは十分程度にも満たない短い距離。けれど、それはいつの間にか仕事帰りの私の密かな楽しみになっていた。
がたん、 と、その時、電車が大きく揺れた。
バランス感覚が悪かったのか、あまりに突然過ぎたのか。手すりにも吊革にも掴らずに立っていた私の体は欠陥住宅のように傾く。
「ひゃ」思わず聴き取れないぐらいの声を上げた。
このまま反動に引っ張られ、重力に逆らわずに無機質な電車の内壁か床へとダイブする直前。
腕を絡み取られ、そのままの体制で、揺れとは別の方向に倒れ込むようにして支えられた。
「大丈夫?」
「……あ、はい」
聞き覚えのある声に殆ど反射的に応え、「ありがとうござい、ま……」すとお礼を言おうとして、固まった。
思考が完全に停止した。何が起こっているのか脳が理解するまでに、主観にして見れば長時間。実際の時間にして一秒足らずだろうか。この予想外の状況を把握するの多少の時間が必要だった。
抱き止められたに近い状態で、怪訝そうに彼に名前を呼ばれた。
「すみませんっ、ちょっとびっくりしちゃって」
「へー」
いつもよりかなり近いところで彼の声が聞こえる。心臓の音が煩い。
「珍し……くもないか。仕事中に後ろからモニター見てると、気づいた時、かなり驚いてるし」
「そ、それは、アナタが気配消して近づくからですよ」
どくん、どくん、と激しい運動をした後のような動悸がする。
「いや」
それを間近にいる彼に悟られたくなくて、私は、平静を装って彼から体を離した。
「仕事してる時は集中してるからでしょ?」
「うー」
動揺しているせいか、どんなに装っても上手く応えが出てこなくてもどかしい。
これじゃあまるで好きな人にだけ意識のし過ぎで、過剰に反応してしまう思春期の少女みたいだ。
彼に触れてみたいと言う衝動もそうだが、最近の私は、本当にどうかしていると思う。
気が付けば彼のことばかり考えていて、仕事中ですら自然と目で追ってしまっている。今だってそうだ。
「まあ、ヤツみたく集中力ないよりはいいとは思うが」
変に緊張している。
好き、なんだろうか?
私は自問する。けれど、答えはでない。
「比較する対象が酷過ぎです」
思ったことをそのまま口に出して毒づく。
彼の乾いた笑いと固定と謝罪で以って、会話が終わり、速度の落ちた電車が音を立てて止まった。
「じゃあ、また明日」
「はい。お疲れさまでした」
開いたドアからホームへと降りる彼に向かって、いつも通りの挨拶を交わす。
反対側に止まった快速に乗る後姿を眺めながら、早く明日になればいいのに、と。
再び走り出した電車に揺られながら思う。次の駅に着く頃にはすっかり消えてしまった彼の体温が、あったことを確かめるように私は彼に触れた自身の腕を指でなぞった。