玩具
他者から与えられるアイデンティティを受け容れて当然のようにそれに沿って生きるのは、本当に苦痛なのだろうか。
もしかしたら、それは最高の幸せなのかも知れないと、そう思うのは間違いなのだろうか。
どうしてことになってしまったのかは、誰にも判らない。
ただ言えるのは、気づいた時には既に手遅れだったと言うことだけだ。
「そう、手遅れだったのよ…」
呟いた声は誰の耳に届くことなく、空気に溶けて消えた。
「最初からだったのかも知れないし、そうでなかったのかも知れないけど、今となってはどうでもいいことよ」
そう言ったのは、きっと本心だったと思う。
どんなに足掻いても、過ぎ去った時はもう戻ってはこないのだから。
「…ねぇ」
問いかける声。
返事はない。
「アンタと私は『同類』だったのかも知れないね」
彼は無言で、その言葉を受け止める。当然のように、彼女もそれを受け容れる。
もう二度とあの生意気で、不機嫌そうな声を聞くことはないのだろうと思う。
「境遇は違ったとしても、親から『道具』としての価値しか与えられなかった子供だもの」
それでも続けて、彼女は言った。
残酷な言葉は真実で、その事実を与えたのは血と肉を分け与えてくれた親と言う自己陶酔者。
「誰からも必要とされない子供。
でも、同時に誰からも必要とされる子供。
愛されないけど、愛される。私たちはそんな残酷な『運命』を与えられた、幸福な人間だったんだよ」
『バカだな』
「だから生きていられるんでしょ」
『どうしようもない悲観主義だな。だから生きていられるだと? 笑わせるな。お前は救いようがないバカだ』
「かも知れないね」
そう言って、もれた微笑みは自嘲だったのか、嘲笑だったのかは判らない。
判る必要もないだろう。
「でもね、それでも、私は誰もいなくなった世界で」
こ れ は 呪 い だ か ら 。
「一人で生きていかなきゃならないんだよ?」
解 放 さ れ る こ と の な い 、 私 に 与 え ら れ た 罰 。
「どうしてだろうね?」
運 命 は 残 酷 だ 。
「どうして、私が好きになった人は」
そ れ は 全 て を 飲 み 込 む 濁 流 で し か な い の に 。
「私を残して死んでしまうんだろう」
いつの間にか、涙が頬を伝った。
ねぇ、と誰にともなく呼びかける。
「どうしてだろうね?」
それは純粋な疑問。
足元に縋るように転がったままのモノ見て、ゆっくりと彼女は口を開く。
「私は君たちを、殺してしまうほど好きなのにね」
言って、彼女は壊れた玩具から目を逸らした。