柘榴石
光の射さないスラム街で、偶然通りかかっただけの露天。
そこで俺は足を止めた。
目に付いたのは、紅い石。
「これ、いくらだ」
紅の赤が、彼女の黒髪によく似合うと思った。
それだけの理由。
***
いつの間にか寝てしまったのか、時計を見ると日付が変わってから幾分と経っていた。
私は寝ていたソファーから身を起こすと、キッチンへ行き、冷蔵庫から適当に飲み物を取り出して口に含んだ。
午前零時をまわったと言うのに、この部屋の主はまだ帰宅しない。
それが無性に腹立たしくなる。
仕事なら許容できる範囲だが、どうせ彼のことだ。どっかで女とよろしくやっているのだろう。そう思うと、余計に腹立たしかった。
八つ当たりと言わんばかりに、私は冷蔵庫を乱暴に蹴った。
がちゃ、
と、その時、ドアが開く音がした。
その後に続いたのは、
「ただいま」
愛おしい彼の声。
「……随分とお早いお帰りで」
「起きてたのか?」
「悪い?」
思わずもれる私の嫌味を受け流し、彼はいつもの調子で返事をする。
刺のある口調。
彼は、それでやっと私の機嫌が悪いことに気づく。
「…別にそんなこと言ってない」
「もういい、寝る」
「おい!」
「何?」
「何でそんなに怒ってるんだよ」
物言いたげに開く口。
私は彼に聞こえない声で呟いて――――でも、次の瞬間には、
ばふっ、
と、ソファーに置いてあったはずのクッションが、彼へとに向かって飛ぶ。
予測だにしていないこだったのか、反射神経のよい彼の反応が遅れ、やわらかいクッションが思いっきり顔にあたった。
「おい、なにす…」
「悪いんでしょ…」
「は?」
「あなたが悪いんでしょ!」
突然のことに訳が分からない彼に向って、私は怒鳴るように叫ぶ。
目から溢れ出た水分が、頬を伝うが構わない。
後から後から止まることなく流れ出てくる涙を拭うおうともせずに、私は彼を睨みつける。
「ちょ…、落ち着け…」
「どうせ女と遊んでたんでしょ! そのまま朝まで帰って来なければよかったのに!」
そう言い捨てて、逃げるように寝室へ閉じこもる。
彼の帰りを待っていた自分がバカのように思える。
私のところへ戻ってこない人の帰りを待つのは辛い。それでもいつか帰ってくるんじゃないかと期待してしまう自分がいて、それが嫌で嫌でしょうがない。
ベッドに倒れ込むようにして蹲りながら、浸るのは自己嫌悪。
かちゃ、と。背後で閉めたはずのドアが開く。
私を呼ぶ、彼の声。
聞こえてはいるのだが、いま開口すると出てくるのは罵倒の言葉だけのような気がして、返事をするのも嫌だった。
「おい」
彼はベッドの端に腰掛け、私の頭をくしゃりと撫でる。
「俺がいない間に何かあったのか?」
「……………」
その問いに、私は首を左右に振る。彼の口からもれるのはため息。
重苦しい沈黙が降りる。
「……不安、だった…」
しばらくして、思い出したように私は口を開いた。
「ん?」
「……あなたがいない間、すっごく不安だった」
続けようとした唇からもれるのは嗚咽。苦しい。
「悪い」
言って、彼はもう一度、私の頭を優しく撫でる。
彼は自分もベッドへ横になると、私の身体を引き寄せて抱きしめて。
私に触れる。
「……何、これ」
触れた手には硬い感触。それは余計な装飾がない、シンプルな、宝石だけの紅いピアスだった。
「ピアスだけど」
「いや、そうじゃなくて。私はピアスホールなんて開けてないよ…」
私の声に、彼は一瞬言葉に詰まる。
「じゃあ、俺が開ける」
「……ん…」
「消えない傷だから、俺がつける」
それはまるで私を縛るための言葉。
彼を忘れないように、彼から逃げられないように、私の存在が消えないようにするための見えない鎖。
いつの間にか安心したのか、私は彼にもたれかかるようにして眠りに着いた。
きっと怖い夢はもう見ない。