夜蝶
私の前に彼が現れたのは、彼女が死んで直ぐのことだった。
「実に君はおもしろいね」
唐突に、彼は言った。
くつくつと、嘲笑うかのように喉の奥で嗤いながら、そう言った。
「…何処が?」
「君自身が、だよ」
怪訝そうに訊く私に、彼は応えた。
「人と同じ世界を見ながら、その一方で全く別の異質な世界を見ているのに、精神が壊れていない。一部の感情が欠落してしまった彼女と同質なのにも関わらず、その方向性が真逆だ。
実に興味深い」
言って、彼は酷く楽しそうな笑みを浮かべた。
常人なら背筋が凍るような彼の態度に、臆することなく軽く息を吐き出した。
「…あのねぇ、見ている世界なんて他人と違って当然でしょ」
「どうしてだい?」
「知っているのに態々言う必要がある?」
「ないな」
「そ、だから言わないし、応えないよ」
そう言って、私は微笑う。
「大体、精神が壊れていない人なんて本当にいると思う? 正常とか異常とかって言う観念があるから、そう言う考えや定義が出来るわけだよ」
「そのことに気づいてしまった君は不幸だと思うかね?」
「さぁ」
と、肩を竦めて見せた。
「そのことに気づかなかったら、意味がないんじゃないかな」
「それが君と世界を齟齬させ、乖離させている原因だとしてもかい?」
「だとしても、あたしは同じことを言うよ。同じ質問をされたら、同じ答えを返すし、考えを変える気は更々ないね」
「ほう…」
「人間は定義することによって、神を造り出した。
それだって、充分に狂気の範疇だよ。だって、妄想を固定して現実に挿げ替えただけでしょ」
「誰もその事実には気づいてはいないがね」
くつくつと、彼は嗤う。
「うん、だから自分たちが狂ってることに誰も気がつかないの。
壊れた世界を否定して、必死で繋ぎ止めてるんだよ」
バカみたいだよね、と自嘲する。
それは世界に向けてか、それとも自分に向けてだろうか。
精神破綻を来たしかねないような会話を繰り広げ、二人は嗤う。それは異常なことだと言えるし、同時に又、正常なこととも言える。
「世界は酷く醜くて、それ故にあやふやで綺麗なのに、どうして誰も気がつかないのかな?」
呟いて、空を仰いだ。
どんよりとした闇の向こうに、カケタ月が見える。
「だからこそ、生きて行けるんだろうと思うがね」
同じようにカケタ月を見ながら、彼が応えた。
さて、と一呼吸置いて訊く。
「君の願いを訊こうか」
「ん?」
「私を呼び込むほどの『願い』とは何だね?」
取り巻く闇が濃くなった気がした。
「君は君の意思で、私をここまで呼び込んだのだ。さあ、聴こう。君の願いは何だ?」
「……さあ、私はただ…」
続く言葉は闇に飲まれ、消えて行った。
けど、私の言葉はしっかりと彼に届いていた。
くつくつ、と彼は嗤う。
嗤いながら、彼は言った。
「全く、君は本当に興味深い…」