いやしの夢
大きなのっぽの古時計が、チクタクと振り子の音を鳴らしていた。
黄色い陽光が照らす窓辺には、老いたアイスラーがロッキングチェアに座りゆらゆらと揺れていた。満足に動かせない体は、重心を操って前や後ろやと行き来するその椅子だけが、自分の意志で動かせる唯一のものになっていた。
老いたアイスラーは夢を見ていた。それは若かりしアイスラーの歩んでいる道だった。足が地べたを蹴り歩き、草木を別けて道を開いた。いつしか連れ添う者が出来て、子供が出来て、アイスラーの後ろにはたくさんの人達がついて来た。ある者は一人で、ある者は二人で、ある者は三人で、ある者はたくさん。それらが皆、若かりしアイスラーの背中を追っていた。
アイスラーは前だけを見た。懸命に道を開いた。草木を倒し、土を慣らし、その先に光を照らした。敵をなぎ払い、屍を端に捨て、若かりしアイスラーは進んだ。
次第にアイスラーの足は衰えた。草木を分ける力も無くなった。次第に、アイスラーの背を追い越して歩くものが現れた。皆は彼の背に付いていった。一人、また一人と追い越されて、最初に追い越した者の背も見れなくなった。
アイスラーの傍らには妻が居てくれた。もう一つの足として、その背を押してくれた。
アイスラーの背を追うものは妻だけとなった。しかし、妻も居なくなった。その時初めて、老いたアイスラーは後ろを振り返った。そこには、古びた木の棒を二つ、縄で縛られただけの簡易な十字架が、幾つも建てられていた。どこまでも続く十字架の連なりを、アイスラーは老いた目で追ったが、道の先にある十字架を最後に、ついに捉えきれなくなった。
気が付くと、アイスラーの足元には十字架が立っていた。それは妻だった。
アイスラーは膝を折り、その十字に抱きついた。それはただの古びた棒木だ。冷たく、土臭く、人のぬくもりはなかった。それでも涙を流し、悲しみを抱いた。
恐怖に変わったのは一瞬だった。
赤い光を遮る黒い十字の影が、道に連なる光景を、涙の溜まった瞳で見つめていた。すると、赤い日が落ちてゆくと共に影はじわじわと忍び寄るように近づいてきた。振り返ると、人々は居なかった。
アイスラーは必死に追いかけた。草木はわけられ、踏み慣らされた道を、老いた足で追いかけた。しかし、追いつかない。
影はアイスラーを覆い、疲れた体は動くことも出来ず、息を切らして倒れ込んだ。闇の中だった。
声が聞こえた。言葉と言えぬ人の声が幾つも聞こえた。
遠く遠く、遥か遠くから聞こえるものから、近く近く、大きなものもあって、老齢のものから、若いもの、果ては赤子のものまで様々だった。低く枯れたその声は、アイスラーに纏わりついているようだった。
悲しげな声は、だんだんと集まってきて、締め付けるようにアイスラーを蝕んだ。アイスラーは目を瞑って、「居なくなれ、居なくなれ」と念じた。
瞳を開けると、そこはいつもの部屋だった。時の音がチクタクと響くだけの、アイスラーの部屋だ。
嫌な汗は体を冷やした。窓から差す光は、もう赤くなっていた。
心持ちがホッとすると、アイスラーはまた眠りにこけた。
暗く何もない場所、見慣れている夢の終わりの場所であった。声は聞こえず、アイスラーは寝転がっても居ない。老いたアイスラーがそこに居た。
アイスラーは歩いた。宛もなく、ただ足を動かした。暗い、道も無い闇の中、一人、篝火を持った女性が居た。それはアイスラーの細君であった。細君は傍らに寄り添い、篝火を渡し、共に歩いた。
続いて、息子が後方から現れた。アイスラーより大きくなった背丈で、父の背を追っていた。
道の脇には様々な人が立っていた。皆、笑顔で、まるでアイスラーを待っていたかのようだった。
アイスラーが通り過ぎてゆくと、一様にそのあとを追った。一人、二人、三人、そしてたくさん。人は絶えることはなかった。
人が増えるにつれ、アイスラーの足取りは軽くなっていった。足だけではない。腰も、肩も、あらゆる場所が軽くなっていった。また、不思議なことに、傍らの細君は往年の若さを取り戻していて、息子は幼くなっていた。
アイスラーは嬉しくなって、自身も往年のようにと、篝火を掲げた。足先は誰よりも前に出て、その堂々たる振舞いは、若かりしアイスラーだった。
闇の終わりの光が見えるとアイスラーは一層早く足を動かした。皆もまた、アイスラーについて行った。
光が間近に迫ると、アイスラーの足はピタリと止まった。アイスラーは、ほんの一瞬だけ、老いた自分を思い出した。振り返ると、アイスラーの背を追ってきた人々が立ち止まっていた。妻も、息子も、友も、一様に笑っていた。
自分の手を見ると、しおれた老人の腕ではなく、若くたくましい腕だった。
アイスラーは足を踏み出せずにいた。細君はアイスラーの手を握って、優しく微笑んだ。アイスラーもまた、細君に微笑んだ。
裾を引っ張り、光に指を差す息子の手を優しく退けた。そして群衆をかき分け、辿ってきた道を戻って行った。次第に足は重くなった。腰も、肩も、全てが重くなっていった。そして、また一人となった。
暗く、何もない闇の中をアイスラーは進んだ。重い足を高らかに上げて、老いて醜くやせ細った腕を掲げて、地面を蹴り歩くのだった。