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小さいあき

作者: たかっぽ

 夏の暑さが残る季節。

 冬の訪れを知る季節。

 季節の変わり目は、それはいつでも何かが終わり、何かが始まるのだろう。


 じめじめとした長雨を今年も台風が吹き飛ばし、徐々に冷たい風が吹き始めていた。


 身体の強い方ではない俺は、こういう季節の変わり目には敏感だった。

 しっかりと防寒対策をして、体調管理に余念が無い。

 十月に入った時点で、掛け布団を出して寝ている程だ。

 とはいえ、さすがに寝苦しくて無意識のうちに蹴り飛ばし、朝にはタオルケット一枚になっているのだけれど、突然寒くなる事もあるので、転ばぬ先の杖と思って用意していた。

 備えあれば憂いなしが、俺の信条だ。

 だから、しっかりと戸締り、確認をして、ゆっくり寝床に入ったのを記憶している。


「――っペクチン!」


「――ペクチン! ――っっペックチン!」


 食品添加物に用いられる複合多糖類の名前を連呼する声が、まどろむ意識の中、遠くに聞こえた。

 その直後、パラパラと何か冷たいものが顔にかかり、俺は反射的に何が起こったのか理解する。

 聞き覚えのある声。

 そして、何度か聞いたことのある調子だった。

 これは、多分くしゃみだ。

 寝耳に水とはよく聞くけれど、寝耳に霧状に飛散した唾液は初耳だった。


「ぅぉぉおお……っ!」


 全身がぞわっとした。

 俺は突然襲ってきた嫌悪感に抗う様に、手探りでタオルケットを掴んで引き上げる。

 ふわふわしたタオルケットで横顔を拭うと、そのままタオルケットに顔をうずめて丸くなった。勢い良く引き上げすぎて足がちょっとはみ出してしまったから、丸くなると丁度良い。

 タオルケットにすっぽり包まれると、視界が暗くなる。そして徐々に、じんわりとした温もりが広がった。これはベストコンディションである。

 さあ、もう一眠りだ。

 突然雨に打たれて起きかけてしまったが、止まない雨はない。嵐が過ぎれば、静寂が訪れるもんだ。

 先ほどの嫌悪感は、これから来たる幸福感のスパイスなんだ。


「おにいさん、なんでまた寝るのっ! 今、起きてたでしょ!」

「――んがっ!」


 俺の包まれ方が悪かったのか、引っ()がし方が悪かったのか。

 タオルケットが引き剥がされる際に、俺の首が変に絡まったみたいで、グキィッととんでもない音をあげて首が回った。もしも実行犯が熟練の兵士であれば、百八十度回っていたかもしれない。相手が素人で助かった。

 首に深刻なダメージを受けた俺は、布団の上に大の字に放り出された。

 冷たい風が部屋に入り込んで、身体を撫でる。

 痛みと寒さで意識は覚醒したけれど、まだまぶたは重い。ギュッと眉間に力を込め、手で顔を揉む。

 欠伸をしながら薄目を開けると、そこには見慣れた少女が立っていた。


「……あき?」

「やっと起きた、おにいさん」


 あきは、肩甲骨くらいまで伸びたツインテールを左右に揺らし、クマさん柄のエプロンを着けていた。

 あきは昔から無類のクマ好きで、今日のパンツにもクマさん柄がプリントされている。

 なんで今日のパンツが分かるかっていうと、まあ、見えているからだ。

 一応言っておくが、故意に覗いたわけではない。見えてしまっただけだ。

 スカートの時は寝ている人間の側には寄らない様にと、後で注意しないとな。


「……おはよう」

「おはようじゃないよ、もう夕方だよ! 何度もインターホンを押したのに、信じられないよ!」

「……マジか」

「マジだよ。この時間に寄るって言ったじゃん、なんで起きてないの!」

「……そうだったっけ。悪いな」

「もう、早く起きて。布団も干すから」

「……別に、もう夕方なんだろ? どうせすぐ寝るんだから、このままで良いよ」

「だめ! どーうーせ、ずーっと敷いたまんまなんでしょ? 少しは風を通さないと!」

「……あきは、だんだん義姉(ねえ)さんに似てきたな」


 あきは俺の兄貴の子供、つまり姪っ子だ。

 あきが産まれてからしばらくの間、俺は実家で兄貴夫婦と一緒に暮らしていた。

 今でこそ実家を出た俺だけれど、あきが産まれた頃、俺はまだ中学生だった。

 だから、俺は年の離れた妹が出来た様に思えて、あきをとことん可愛がった。

 あきも俺に懐いてくれたから、一人暮らしを始めた俺の家まで、時々やってきては家事をしてくれる様になったのだ。

 しかし、子供の成長は早い。

 俺なんかまだまだ若造で、何を年寄り臭いことを言っているんだと思うかもしれないが、あきは年々、義姉(ねえ)さんに似てきていた。

 義姉(ねえ)さん――あきの母親は、面倒見が良くて、頼りになって、明るい。その人柄の温かさは、まるで太陽のような女性(ひと)だった。

 だが、めちゃくちゃキレやすいという短所もある。そして、一度キレるととことん恐いのが、義姉さんだ。

 俺と兄貴の丁度半分、歳が離れていて、昔は俺と兄貴の橋渡し役を担ってくれた事もある。

 要は、義姉さんは俺にとってみても幼馴染みであり、兄貴と結婚する前から、俺は義姉さんを慕っていた。


「なに? それじゃあお母さんに来てもらった方が良いのかな? おにいさん?」

「……いや、あきで良いよ」

「わたし、で? 良い?」

「……あきガ良いな」

「うんうん、そうだよね、良い返事だね。せっかくわたしが来てあげてるのにお母さんの話を持ち出すなんて、おにいさんってばデリカットのカケラもないよね」

「……たしかに俺は凸レンズのメガネで目を大きく見せる芸なんかやらない――というか、そもそもメガネ掛けてないし、身長も平均的で、歴とした日本人だからな。デリカットのカケラもないと言える」

「おにいさん……何を言っているのか分からないよ……」

「……あきがケント(見当)違いの言い間違いをするからだろ」

「ええっ、どういうこと!?」

「……だからデリカットじゃなくて、デリカシーの間違いだろ?」

「……?」


 口を半開きにして、あきが首を傾げる。

 ちくしょう、わざわざボケに乗って、俺がメガネキャラでは無いことをセリフに盛り込んだ結果がこれだよ。

 間違いを指摘した俺が恥ずかしくなった。

 ケント・デリカットを知らないのに言い間違えるなよ……。いや、言い間違える事に知識は伴わないんだよな、悔しいが。


「――ペクチン!」


 それは、話を流す様なくしゃみだった。


「……もう陽が沈むし、風も冷たいからやめよう。そういうのはさ、晴れた日中に干さなきゃな」

「そういうおにいさんが普段からちゃんとしてくれれば、わたしも今やろうなんて言わないんだけどね?」

「……とにかく、さっきからくしゃみしちゃってるじゃないか。あきが風邪を引いたら大変だろ、また今度にしようぜ」


 半ば強引に、布団は干さない様に話をまとめる。あきは「むぅ……」と唸って納得がいかない様子だったが、今から干しても仕方ないし、大体、まだ小さいあきに、布団は重くて干せない。

 家事をしてくれると言ったけれど、その殆どは俺の補助なしでは成立しないおままごとだ。


「寒くてくしゃみしてるんじゃないもん、さっき掃除してたから埃でくしゃみしてたんだもん!」

「……埃でもダメ。くしゃみすると意外に体力消耗するからな、いくら若いって言っても、そこで体が冷えたら危ないだろ」

「でも、お兄さんだらしないし、わたしが面倒見てあげたいの!」

「……俺、そんなにだらしないかな」


 さっきの寝起きはたしかにだらしなかったかもしれないけれど、それは徹夜で仕事をしていたからだ。

 自分で言うのもなんだが、用意周到、準備万端、転ばぬ先の杖完備の上に、石橋を叩いて渡る慎重さを兼ね備えた俺は、どちらかといえばだらしなくはない――と自負しているのだが。

 ……姪っ子にだらしないと言われるのって、結構ショックだ。


「――もういい、じゃあご飯作ってあげるから、手伝って!」


 ぷっくり頬を膨らませて、あきは窓を閉めながら言った。

 あきが作ってあげると言っているけれど、当然おままごとだから、実際はほとんど俺が作る事になる。

 仕方なく俺は、布団を適当に畳んで台所へと向かった。


「……はいはい。今日は寒くなってきたから、鍋にしようかと思ってるよ、シェフ」

「ふぅむ。ナベ……。何からしたら良いの?」


 冷蔵庫から鍋の材料を取り出す。

 昨日は徹夜で作業すると分かっていたから、今日の分の材料は既に買ってきておいた。


「……水炊きだからな、適当に材料切ってぶち込むだけだ。じゃあ、白菜でも切ってみるか?」

「うん。やるー!」


 ちょっと前までは危なっかしくて包丁なんか持たせられなかったが、あきは義姉さんの許可を取って、家でも練習しているらしい。

 だから、俺の監視付きであれば、包丁を使っても良いことになっていた。

 

「……ちゃんと教わった通りにやれよ」

「任せるにゃん! ねこの手! キャット☆ザ・ハンド!」

「……バカ言ってんな。両手を猫の手にしたら、包丁持てねえじゃん」

「しまったっ!」


 ――慎重に、あきが怪我をしないことに細心の注意を払っていたら、材料を切るだけで結構な時間が経ってしまった。

 しかし、元々調理を始める時間が少し早かったから、ちょうど一般的な夕飯時かもしれない。

 どこからか揚げ物の匂いが、風に乗って漂っていた。

 陽が完全に沈んで、辺りは真っ暗になる。街灯の光が、冷えた空気によってはっきりと明暗を分けていた。


「……遅くなっちまったけど、義姉さんに連絡しておくか」

「大丈夫だよ、おにいさんのところでご飯食べて帰るって言ってあるから」

「……そうか。いや、でも最近は子供を狙った怖いニュースばかり目につくからな。連絡しておくに越したことはないだろ」


 あきが生まれてからというもの、どうしてもそういったニュースに目がいってしまう。

 それに、『ほうれんそう』は仕事の基本だ。

 便りが無いのは無事な証拠――というのは、あまりにも楽観的過ぎるからな。

 無事でも連絡するのが、マナーだ。


「ふーん。でも、歩いてすぐじゃん」

「……あきはまだ分かんないかもしれないけどな、こういうこまめな連絡が大切なんだよ。……あ、義姉さん? 俺だけど――」

「ぷう」


 俺が義姉さんと電話でやり取りをしている間、あきはわざとらしい擬音を口にして、頬を膨らませていた。

 膨らませては空気が抜けて、また膨らませているうちに、口の中が渇いたのだろう、今度は窄めてムンクの叫びみたいな顔をしている。

 尻目にコロコロと変わるあきの顔を見て、つい俺の口元も緩んだ。


「――バカ言ってんな。じゃあ、飯食ったら送っていくから。ああ、切るよ。…………よし、連絡もしたし、鍋があったかいうちに食うか」

「そうだね、食べちゃおうねー」

「……なんだか、機嫌悪くないか?」

「べっつにぃ! 他人のお母さんと喋ってニヤニヤしちゃってさー! 気持ち悪いなーって思ってさぁ!」

「……お前、その言い方やめろ」


 なんだかそれは犯罪くさかった。

 しかも勘違い。

 俺は義姉さんと話していたからニヤついていた訳じゃなくて、あきの表情がコロコロ変わるのと、義姉さんが余計な事を言うから――っと、これは言わないでおこう。


「……ほれ、肉食え、肉。いっぱい食って大きく育て」

「わーい、グラッチェグラッチェ!」

「……なんて単純な奴だ」

 怒っていたんじゃないのか。

「はっ! まさかおにいさん、わたしを自分好みの女の子に育てるつもりで……!?」

「……ニュースで見るような、危険な発言は控えてくれないか」

「ラズレシーチェ!」

「……グラッチェはイタリア語だし、ラズレシーチェはロシア語だろ、最後にチェ付ければ良い訳じゃないぞ。外国語がマイブームなのかもしれないけど、せめて統一しろよ」

 ちなみに、意味はグラッチェがありがとうで、ラズレシーチェがごめんなさい。

「ふふん、甘いね。これからはマングローバル化の時代だよ、おにいさん」

「……それを言うならグローバル化だ!」

 マングローブ化だと捉えれば環境問題っぽいけど、地域限定過ぎるだろ。

「……お前、ちゃんと意味をわかって言ってるのか?」

「えっと、でっかいよね」

「……なにが!?」

「世界」

「……そりゃでかいな」

「でっかいって事は、強いよね」

「……まあ、強いんじゃないか?」

「そんなに強くてでっかい、世界規模で考えようという言葉なのに、グローバル化だなんて、なんか弱そうじゃない? マングローバル化の方が強そうだよ! あ、もういっそ、グランカーニバル化とかにしちゃおう? そうだよ、そうしよう!」

「……バカ言ってんな、どこから出てきたそんな単語。強い弱いじゃねえよ、勝手にそう呼んでも、恥かくだけだぞ」

「ええー、世界なのにー。納得いかないよう」

「……ねぶり箸は行儀が悪いからやめろ。――仕方ない、良いことを教えてやろう」

「え? えっちなことは嫌だよ?」

「……いちいち俺を性犯罪者に仕立てようとするな!」

「ごめん……」

「……そうやって謝られると深刻な気がする――まあいい。あき、こんな有名なセリフがある。『あまり強い言葉を遣うなよ 弱く見えるぞ』ってな」

「はあ、その心は?」

「……なぞかけをした訳じゃないんだが」

「長かったから意味わかんなかった」

「……お前、バカ言ってんなよ。だからな、強い言葉で粋がっていると、逆に弱く見えるんだよ。だからグランカーニバルなんて強そうな言葉より、グローバルってスッキリしていた方がかえって良い。要はそういうことだ」

「あっ、ネギがとろっとろ! 美味しい!」

「……聞けよ!」



 読書の秋。スポーツの秋。芸術の秋。

 色々な秋がある中で、今、俺の目の前にいる小さな「あき」は、絶賛食欲の秋を満喫中だった。

 俺は膨れた腹をさすりと撫でて、箸を置く。

 俺が食事を終えても、あきはもちゃもちゃと口を動かしている。

 いつものことだ。

 別に俺が少食な訳ではなく、あきの食べる速度が遅かった。

 あきはよく噛んで食べる。

 あきの小さな口には少しずつしか入らないので、どうしても時間がかかるのだった。

 俺は湯のみにほうじ茶を入れ、ずずっと音を立ててすする。

 あきの分はまだ淹れない。このタイミングで入れてしまうと、食後に冷えたお茶になってしまうからだ。

 猫舌の俺にとっては別に構わないのだが、やはりお茶は熱い方が良いだろう。せっかく鍋で温まったのに、お茶で身体を冷やす事もない。


「元々遅いのに、おしゃべりだから余計に遅いんだよな」

「むぐ、すいませんでしたねえ。仕方ないでしょ」

「……ああ、責めてる訳じゃない。これはなんだろ、分析? つい口を衝いて出たんだ」

「それ、なんか嫌なカンジだよ」

「……悪い、あきだって、好きで遅い訳じゃないんだもんな」

「――そうだよ」


 俺の迂闊な発言で機嫌が悪くなってしまい、あきはご飯をガツガツとかっこんだ。

 かっこんだものの、やはりちゃんと噛んで食べるので、まるでハムスターのように両頬が膨れてもちゃもちゃしている。

 思わず吹き出して笑ってしまいそうになったが、こう見えて、あきは今シリアスモードなのだ。

 ここで笑ったらもっと怒られる。

 俺は気を紛らわせる為、ほうじ茶をもう一度すすった。


「ごちそうさま」


 あきが食べ終わったのは、怒らせてしまってから五分ほど経ってからだった。


「……あれ、今日は少し早いな、大丈夫か?」

「…………」


 俺の言葉を無視して、あきは食器を台所まで持って行き、そのままカチャカチャと食器が擦れる音と、水の流れる音が台所に響いた。

 その音に反応して、俺は少し慌てて台所に駆け寄る。


「……皿洗いは俺がするから、放っといてもいいぞ?」

「…………」

「……あき?」

「うるさいなあ」

「……え」

「おにいさん、うるさいよ!」

「……な、なんだよ、いきなり」

「うるさいの! あきのコトをおしゃべりだとか好き勝手言っといて、おにいさんの方がうるさいじゃん!」

「……お前」

「――なに」

「……いや、なんでもない。……俺が悪かった、ごめん」


 あきの剣幕が、遠い日の記憶に重なった。

 軽はずみな一言。

 俺はまた、やってしまった。

 用意周到、準備万端、転ばぬ先の杖完備の上に、石橋を叩いて渡る慎重さ。

 俺を飾る言葉の根底には、ただただ小さく震える臆病者の姿がある。

 俺が慎重になるのは、恐いからだ。

 失敗を恐れていた。

 慎重なんて綺麗な言葉を使っても、俺は怯えているだけだった。

 失敗しないように、傷つかないように、転んで怪我をしないように。

 調子に乗って走れば、転んだ時に大怪我をするだろう。

 だから、俺は走るのをやめた。

 調子に乗るのをやめた。

 常に冷静でいることを覚えた。

 慎んで歩いていれば、あるいは止まってしまえば、少なくとも怪我をすることはないのだから。


 それは、異様な光景だった。

 俺の目の前で、いびつな虹色を表面に映したシャボン玉が舞っている。

 ふわりと俺の目の前にやってきては、その球体に纏わり付いたしずくの重みで、床へ落ちては消えていく。

 台所は、泡で溢れかえっていた。

「洗剤は少量で良いんだぞ」といつも言っているのだが、あきは十分すぎるほどに泡立っていないと気が済まないらしく、いつも大量に洗剤を使う。

 そのせいで、あきが皿洗いを始めると、こうやって台所や床が泡だらけで、ビショビショになってしまうのだ。

 あきに皿洗いをしなくていいと言ったのは、ビショビショにされた後片付けが面倒なのと、洗剤を節約する為でもあった。

 更に言うと、洗剤の詰め替えタイプをストックしておかないと不安になる上に、地味に家計が圧迫されているので、あきの皿洗いには迷惑している。

 だけど、今の俺は、あきになんと声をかければ良いのかわからなくなっていて、泡だらけになりながら皿洗いをするあきの姿を横から眺めている事しか出来なかった。


「――そこで見ていられると、気が散るんだけど」

 バシャンと水飛沫をあげて、シャボン玉がまた一つ旅立つ。水気の多いそれは放物線を描いて、俺の肩に当たり、はじけた。

「……ああ、悪い」

 普段ならば憎まれ口のひとつも叩いて、逆に叱ってやるところなのだが、俺はその場を離れて部屋へ戻った。

 俺になにが言えるのかわからない。

 どうしたら、あきの機嫌がなおるのだろう。

 さっき肩にかかった泡が、服に染み出して冷たい。そのシミは、じんわりと体温に馴染んでいった。

「…………」

 俺はタンスから綺麗にたたまれたタオルを取り出して、台所の様子を伺う様に耳をすます。

 しばらく待つと、キュッと蛇口を締める音が聞こえた。洗い物が終わった様だ。

 俺は深く一息吐くと、意を決して再び台所へ足を運んだ。


「……あき」

「きゃっ、ちょっ、にょあっ!」

 有無を言わせず、俺はあきの頭にタオルを乗せて、ワシワシと髪を拭いた。

 泡だらけでビショビショになったのは、台所や床だけじゃない。

 あき自身も、頭からずぶ濡れだった。

 入浴と浴室の掃除を兼ねるというのは分かるけれど、皿洗いで身体まで洗ってしまうのは、あきだけなのではないだろうか。

 不器用という言葉で片付けていいものか、悩むところだ。


「……いつも、ありがとな」

「…………」


 俺が実家を出たのは、兄貴夫婦と一緒に居る事が辛かったからだ。

 俺はあの家から――あの二人から逃げ出した。

 一人になりたくて、一人になった。

 一人になったら、不安になった。

 そして、寂しくなった。


「……感謝してる。一人暮らしが寂しくないのは、あきのおかげだ。……あきが来てくれるからだよ」

「…………」

「……だから、泣くなよ」

「泣いて……ない……」


 一通り全身を拭いてやってから、あきの目尻もついでに拭いてやる。頭を撫でると、指の間をするっと髪の毛が通り抜けていった。ちゃんと乾いたみたいだ。


「――わたしも、ごめんなさい」


 スカートの裾を握って、あきが絞り出すように言った。


「……俺も、ごめんな」

「わたし、迷惑なのかもしれないって……思ったから」

「……そんな訳ないだろ。助かってるよ」

「でも、わたしが何かやろうとすると、止めるじゃん」

「……まあ、な。でも、それは別に迷惑って事じゃないんだよ」

「今も、台所ビショビショだし」

「……ああ、まあ、床掃除だと思えば、な? 迷惑とは言えないだろ」


 子供だから分からないだろうと思っていたけれど、実は俺が少し迷惑していた事をあきは察していたようだ。

 あきの口から「迷惑」なんていう単語が出てきた時は、正直に言うと図星を突かれた気がした。

 だけど、迷惑は迷惑でも、本当に嫌で仕方ない訳じゃない。

 あきがもたらす迷惑は、俺にとって大事な、大切な迷惑だった。

 とはいえ、こんな事、なんと言って伝えればいいのか。

 俺はこの気持ちを何と呼べばいいのか、判断がつかなった。


「……まあ、今日はもう遅いから、送っていくよ」

「うん……」

 まだ納得していない様子だけれど、あきは頷く。


 気が付けば、すっかり遅い時間になっていた。

 俺は上着を羽織り、冷えた夜の空気に備える。まだ手袋やマフラーまでは、必要なさそうだ。

 遠くで鈴虫の音が聞こえてくる。

 あきの家――つまり俺の実家は、さほど離れていない。というか、近い。

 だいたい十分も歩けば着いてしまう距離だ。

 まあ、そうでなければ、まだ小さいあきが一人で来れる道理もなかった。

 歩き慣れた道をあきと手を繋いで歩く。

 普段は騒がしいあきなのに、さっき珍しくケンカしてしまったからか、黙って歩いていた。なんだか気まずい。


「……ふ、ふぁっ……ブァダハァックショヴン!」


 暗く静まり返った住宅街に、奇声が響いた。建物に反射して、語尾のショヴンが木霊する。


「い……今の……なに……?」

 ビクッと身体を強張らせ、目を丸くしたあきが恐る恐る聞いてくる。

 隣を歩いていたら、突然大声で奇声をあげられたのだ。あきの反応は至極真っ当だった。泣き出さないのが奇跡とも言える。

 これが知り合いじゃなかったら、ちょっとした事案として新聞やネットに載ったかもしれない。


「……くしゃみだけど」

「くしゃみ!?」

「……悪いかよ」

「ぷっ」

 一拍置いて、あきは笑う。

「あははははは、なに今のー! ぶだは……? わかんなーい!」

「……おま、俺だってもう二度と言えねえだろうよ!」

「あははは、おにいさん、オジサンみたーい!」

「……ぐっ、まあ、叔父だからな。間違っちゃいねえ」

「はあ、おっかしい」


 しばらくの間くすくすとあきは笑い続けて、すぐそこまでの距離に、家が近付いてきたところだ。

 ギュッと、手に力が込められた。


「ねえ、おにいさん」

「……なんだよ、あき」

「今度は、いつ行って良い?」

「……次の休みは、日曜かな」

「日曜日ね。……休日に姪と遊ぶなんて、おにいさんは彼女とか作らないの?」

「……作れてたら、今頃は一人暮らしじゃなかっただろうよ」

「そうなんだ」

「……そうなんだ」

「じゃあ次は絶対、お布団干すからね!」

「……おい、さては、朝から来るつもりか」

「当たり前でしょ。早起きは三文の得だよ、おにいさん!」

「……へいへい」


 家の玄関まで見通せる丁字路で、俺は立ち止まる。あきを送る時は、いつもここまでしか来ないのが決まりだった。

 実家には、極力戻らない。

 俺が自分で決めたルールだった。

 だから、あきが家にちゃんと入るのを見届けてから、俺は帰る事にしている。


「……じゃあな」

「うん、また日曜日にね!」

「……おう」


 手を振って、あきを見送った。

 元より小さい背中が、更に小さくなっていく。不意に、その背中が立ち止まり、振り返った。


「おにいさん」

「……うん?」

「ずっと彼女が出来なかったら、あきが彼女になってあげるからね!」

「…………ば」

 あきは言うと、べっと舌を出して、返事も聞かずに走り去って行った。


 懐かしい家の明かりが玄関から漏れ出し、懐かしい人影が見える。

 逆光で表情までは見えないけれど、俺にはどんな顔をしているのか、なんとなく分かってしまう。

 今日も俺は、逃げるように踵を返した。


 帰り道。

 往路十分、復路は五分。

 あきの歩幅に合わせなくて良いから、その分帰りは早い。

 見上げれば澄んだ空気が、夜空に散りばめられた星の光を際立たせていた。

 その中の一際輝いている少し欠けた月をぼんやりと眺めながら、次の日曜を思う。

 朝飯と、昼飯と、夕飯と……色々と準備をしておかなくてはならない。


 ――あきが彼女になってあげるからね!

「……バカ言ってんな」

 俺の独り言は、夜空に吸い込まれる様に消えていく。

「……親子揃って、バカ言いやがって」

 あきは、義姉さんに似てきた。

 ――まるで通い妻みたいだね、あきの事、貰ってくれる?

「……人の気も知らねえで」



「……月が綺麗……か」

 まだ満たされない月。

 いずれ満たされた時、俺は何を思うのだろう。

 綺麗になったと、喜べるのだろうか。

 少なくとも確かな事は、俺は見ている事しか出来ない。

 慎重になる必要も、臆病になる必要もない。

 流れに身を任せて、見届けるだけだ。

 もう俺の恋は、随分前に終わっているのだから。

 だから、この気持ちは竹取の翁と同じなのだと思う。

「なんて……バカ言ってんな」


 そういえば、たしか日曜は十五夜だった様な気がする。

 折角だから、月見団子でも食わせてやるか。

 そんな事を思った。

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