今日のランチもサイゼリヤ
さあ、今日も十三時がやってきた。
私の憩いの時間の始まりだ。
四つのキャスターが勢いよく音を立てた。
椅子の背もたれを押し、デスクに追いやる。
黒い鞄を持つと、颯爽と会社の扉を開いた。
今日はあの店に行こう。
私は会社を出てすぐに右側へ足を進めた。
会社を出る前にランチの行き先は既に決めていた。
私は決断力がない。
決して優柔不断という訳ではない。
ランチに関しては、これを食べたいという強い意思を持てないのだ。
しかし、何でも良いという訳ではない。
何を食べても一緒だとか、そういう大人にはなりたくないからだ。
そういう時は何でもある店に行く。
それが一番合理的だ。
最近になり、そう思い始めた。
カバンから骨伝導のイヤホンを取り出す。
耳を引っ張りながら装着し、スピーカー部分を軽くタップした。
思ったより大きな音が耳に響き、慌ててスマホを操作し調節した。
難聴を防ぐために購入したこの骨伝導のイヤホンで耳を痛めるところだった。
ふと、足を止め会社の花壇に目をやる。
夏らしい小さい向日葵が太陽を向き、花びらをこれでもかと広げている。
紫色に縁取られた緑色の葉と並び、瑞々しく花壇に色を添えていた。
この花壇は有志が集まり管理している場所だ。
季節折々の花に植え替えをしているため、たまにこうして立ち止まり植物から癒しを貰っている。
この花が何という種類か前に聞いた気がしたが、花の数が多く咲くという情報に上書きされ、もう覚えてはいない。
自分で調べることはしない。
花はどれも似ている。
それを見分けられるほど私はできた人間ではないのだ。
さて、ここで貴重な時間を全て使う訳にはいかない。
今日の私の腹は割と空いている。
私は足早に花壇の前を通過した。
いつものように銀行の前を通過する。
自転車が私の肩をギリギリ横切る。
何か急いでいたのだろうか。
私と同じような会社員が昼休憩の間に昼食と銀行への振込をこなそうと急いでいたのかもしれない。
このような時、痛みを強く感じるほどの衝突でない限り、私は怒りに身を任せることはしない。
こちらに不利益がないのに相手を不快にさせるのは大人がすることではないからだ。
歩道への乗り入れが禁止されたこの道を自転車で走るくらいだ。
きっと何か理由があるのだろう。
私は一度だけ振り向き、自転車に視線を送った。
銀行を右に曲がり、少し歩く。
ある建物の中途半端な螺旋階段を上る。
やや息を上げながらも目的地に到着した。
ここは、『サイゼリヤ』。
平日のためか並ぶ人はいない。
今は夏休み真っ盛りなはずだが、猛暑日のために外出が億劫になっているのだろう。
私はスタッフに向け、人差し指を立てて見せる。
軽く会釈をしてスタッフの背中を追った。
平日の昼ということは今サイゼリヤではランチメニューが開幕されている。
パスタならばワンコインで小さめのサラダまでついてくる。
ディアボラ風ハンバーグもこのランチメニューに並んでいるが、私は決して頼まない。
なぜならこのランチメニューには裏がある。
通常メニューのハンバーグと比べるとこのハンバーグは一回り小さいサイズなのだ。
覚えているだろうか?
私はディアボラ風ハンバーグを縦に四つ、横に二つ、ナイフで切らなければならない。
ランチメニューのハンバーグではちょうど良い十五口にはならないのだ。
四隅に限ってはフォークで刺すのもやっとな程小さな欠片となってしまう。
そんなハンバーグは嫌だ。
私はランチメニューをそっとメニューの一番下に並び替えた。
何度かメニューを捲り、手を止めた。
小さなQRコードをスマホで読み込み、番号を入力していく。
今日はうまくいきそうだ。
格安スマホの欠点はこの電波にある。
人混みや奥行きのある部屋では電波が停滞し、操作が困難になってしまう。
かと言って一万円弱を支払ってまで解約するかというと手続きが億劫になる。
私のフットワークは重い。
無事注文を終え、ドリンクバーを見る。
空いている。
私は立ち上がると一直線に歩き出した。
いつものように水を汲み、席に戻ろうと振り返ると銀色のスープジャーに目が止まる。
平日のランチタイム中はスープも飲むことができる。
私は水のグラスを左手に持ち替えると、把手が独特なマグを一つ取った。
黒いツマミを前に倒すと透き通った茶色いスープが勢いよく器に溜まっていく。
湯気がふわりと広がる。
私は両手の液体に気を配りながら、そっと席に戻った。
席に戻り、スープを一口啜る。
何かが足りない気がする。
私は席を立ち上がり、ある物を手にした。
青い蓋のついた瓶。
GABANの文字。
おそらくこれは、黒胡椒だと思う。
少し緊張しながらこの瓶を持ち席に戻る。
一人しかいないこのテーブルで瓶を丸ごと持ち込むのは中々度胸がいる。
かと言って、手に取り使用した物をそのまま並べられた列に戻して良いのだろうか。
私には判断が付かない。
さて、スープに戻ろう。
次の問題はこの黒胡椒の量にある。
サイゼリヤのスープは味は薄めではあるが、全く味がないという訳ではない。
塩味よりも何か風味を足したい。
そうだ、量は少しでいい。
私は蓋を開け、スープの上に蓋とミル部分を軽く叩き合わせた。
パラパラと胡椒の粉末が落ちる。
この何気ない行為で、私は子供の頃を思い出していた。
夏の夜、消防車の後ろをついて『火の用心〜』などと声を出し、首にかけた二本の木をカンカンと叩き練り歩く。
あの木は一体なんだったのか。
大人になった今でも分からない。
私は胡椒の蓋を戻した。
テーブルの端に置く。
スープを一口啜る。
胡椒の風味がツンと鼻をくすぐった。
ついスープを半分ほど飲んでしまった。
やはり、今日の私は腹が減っている。
「お待たせいたしました」
「小エビのサラダでございます」
大きめの皿がテーブルに置かれる。
小ぶりなエビと野菜。
薄くピンクがかったドレッシングにはオレンジ色の粉末がかけられている。
色鮮やかで食欲を唆られていく。
このオレンジ色の粉末は何だと疑問に思いながら食べ進めていく。
団子のようにエビだけをフォークの根元まで刺し、口の中をエビで満たす。
小エビと言ってもやはりエビだ。
エビは好きだ。
ここまでドレッシングがたっぷりとかけられていると、エビの味が好きなのか食感が好きなのか分からなくなる。
このサラダを食す上で気をつけなければならないことがある。
決してトマトをフォークで刺してはいけない。
このサラダにはトマトが二つ添えられている。
つい、フォークでトマトの真ん中を突き刺し、口に運びたくなるだろう。
トマトのサイズ的にも一口で頬張るのにちょうど良い。
しかし、ここに罠がある。
サイゼリヤのトマトはフォークを突き立てると破裂する個体が混じっている。
皿の上で逃げられ、あたふたとする程度ならまだ我慢できる。
しかし、破裂するトマトはどこに液体を飛ばすか分からないのだ。
シャツの袖や胸元まで勢いよく散る、その可能性もゼロではないのだ。
私はトマトをフォークの上にそっと乗せ、逃がさないように口を近づけて逃げ場を消す。
口端をギュッと閉じ、奥歯に力をゆっくりと加え口内で爆発させる。
私は安心したように鼻から息を吐き、咀嚼した。
トマトごときにと思うかもしれない。
しかし、そのトマトでシャツを汚されることもあるのだと記憶してほしい。
小エビのサラダを半分ほど食すと配膳ロボットが音楽を流しながらテーブルに近づいてきた。
くるりと後ろを向き、背に乗せた鉄板を取るように促してくる。
ロボットに言われるままにセルフで運ぶ。
コトンと小さな音を鳴らす。
白と茶色の表面はグツグツと気泡を立てた。
ミラノ風ドリア。
私は小さく息を吐いた。
今日は腹が減っている。
きっと大丈夫なはずだ。
私は自分を信じてカトラリーケースからスプーンを取り出す。
見るからに熱い表面を左側から掬う。
白いソースと黄色がかった米。
赤茶のミートソースが覗く。
前歯を使ってスプーンから剥がすように口に入れる。
濃厚なホワイトソースが口の中で広がる。
やはり美味い。
二口目はミートソースが多めになる。
同じように前歯を使う。
前歯を使う事で火傷を防いでいる。
まあ、言うまでもないだろう。
半分ほど食べ進めたところで、私はスプーンを置いた。
金属の擦れるような音が鳴った。
その音は闘いの始まりを知らせるゴングでもある。
私は小さく息を吐いた。
口の中の味を変えたい。
急にそう思った。
なぜかは分からない。
私はフォークを握り、小エビのサラダに向かった。
残していたもう一つのトマトをフォークに乗せ、先ほどと同様に追い詰めながら口に放る。
サラダの器はすぐに空になった。
いつものようにテーブルの端に置いた。
横目にミラノ風ドリアを見つめるとそっと席を立つ。
何かをかけたい。かけるべきだ。
そう思った。
赤いボトルがあった気がする。
黒胡椒の瓶の横にそれは確かにあった。
ホットソース。
黒いキャップを外し、ドリアの赤茶色の上に鮮やかな赤い線を引いていく。
全体にはかけない。一本の線だけだ。
スプーンで線を切るように一口を作り、口へ運ぶ。
この時にはもう前歯は必要ない。
ティラミスやコーンスープと同じように飲み込んでもいい。
口の中にはホットソースの辛味。
それだけがはっきりと分かる。
残り三分の一となった。
ここからが勝負だ。
私は、基本的に食事を残すことをしない。
どんなに不味くても必ず皿を空にする。
過去にたった一度だけ食べきれず残したことがあった。
それは便所の香りがするラーメン屋だった。
今でもたまに思い出すが、その話をするつもりはない。
ただ、その一回きりということだ。
他は許されない。
私は黒胡椒を手に取り、グリグリと手首を捻りドリアの上に多めに振りかけた。
擦りたての胡椒の香りが広がる。
スプーンに大きめに掬い取り、大口を開け受け入れていく。
もうヤケだった。
三口ほどでドリアの鉄板は空になった。
これが大人の力だ。
心の中の私は両手を腰に当て胸を張った。
時計に目をやると十三時四十分になろうとしていた。
私は小説を取り出そうと鞄の中を手で探る。
ジップロックの袋になかなか当たらない。
膝の上に乗せ、鞄の口を大きく開き覗き込んだ。
そうか、家に置いてきたな。
昨晩、本を読み進めようとダイニングテーブルに置き放しにしたことを、すっかり忘れていた。
まだ店を出るまでは時間がある。
私は小さなメニューを抜き出すとテーブルに広げて置く。
間違い探しにでも興ずるとしよう。
何度も目を左右に動かす。
目の奥の筋肉が伸びるような、そんな気がした。
実際にどうかは、この際どうでも良い。
私は、螺旋階段をゆっくりと降りていた。
いつもより腹が重い。
花壇の前を横目に通り過ぎる。
今は何も考えられない。
私は会社の扉を開くと鞄を置き、自分の席に戻った。
時間は十四時。
さあ、仕事の始まりだ。
私は、そっと立ち上がると福利厚生のブラックコーヒーを求めて給湯室へ向かった。




