オタクに優しいギャルに出会いました
その日、土曜日。
高瀬は、午前十一時の待ち合わせ時刻より三十分も早く、駅前のカフェに着いていた。
テラス席に腰を下ろし、冷めかけたコーヒーを前に、スマートフォンを何度も確認する。
メールをくれた相手の名前は、桜井ルカ。
驚くほど的確で、知的で、そして何より――
自分が書いた、あの小っ恥ずかしい散文に、誠実に向き合ってくれていた。
まるで顕微鏡で覗いて書かれたような感想文。
本人ですら気づいていなかった“深部”に、あっさりと言及していた。
とはいえ、疑いもあった。
「出版社の者です」と名乗り、自費出版に誘導する類の詐欺はネットで山ほど見てきた。
脳内で再生されるのは「今なら特別にローンも組めます!」の決まり文句。
カフェの構造を観察し、万が一の退避ルートを確保する。
自分で言うのもなんだが、かなり慎重な部類である。
そんな警戒モードのまま、ふと顔を上げた――その瞬間だった。
「……え?」
そこに立っていたのは、
オーバーサイズのベージュパーカーに、ハイウエストのデニム、厚底スニーカー。
金髪ロングにまつエクばっちり、リップも艶あり。
どう見ても、“ギャル”だった。
「ハンスさん?」
にっこりとした笑顔が、真正面にあった。
「……桜井……さん?」
「うん、そう。桜井ルカ。DMしたの、私!」
思考が止まる。
まさかこの子が、あのメールの主?
(……やられた。これはもう、完全に釣られたパターンだ)
困惑する彼を見て、ルカはくすっと笑う。反応を楽しんでいるのが明らかだった。
「ビビった? ねぇ、めっちゃビビったっしょ?」
ポケットから何かをひらりと取り出す。
「これ見たら、少しは信じてくれるかな?」
それは――東京大学の学生証。
しっかりと「文学部 哲学科 桜井ルカ」と記されている。
「ここ、座っていい? てかさ、昨日のDMちょっとカタすぎたよね? 送ってから“これ絶対ひかれるやつ”って思ってた」
笑顔には探りも打算もない。
むしろ、初対面とは思えないほどの気安さがあって身構えるのが申し訳なくなるほどだった。
高瀬はうまく言葉を見つけられず、ただ静かに頷いた。
――必要以上にどぎまぎするのは自分の不器用さを察してもらいたいという、もはや癖のような処世だった。
「あの……自分、陰キャなんで……」
ぽつりとこぼした言葉にルカが首をかしげる。どこか納得いかないような顔で。
「でも、“リュミエール”ってフランス語で“光”でしょ?」
「あ、語感だけで選んだんです」
「ふーん。陰キャだけど、ちょっとは“光”に憧れてるってわけだ」
豊満な胸の前で両手の指を交差させる。
その動きに合わせるように口元がいたずらっぽくゆるんだ。
「それは――」
「“ハンス”は、ヘルマン・ヘッセでしょ?」
静かに断言してルカが小さく笑う。
押しつけがましさのない自信がその表情にはあった。
高瀬は言葉を失い、つい目を逸らす。
彼女の口調も身振りもどこか軽く見えて、その実、鋭く核心に届いてくる。
からかっているのではなく、ただ見えているものを言葉にしているだけ。
高瀬は見事に見抜かれていた。
◇
「ねえ、ちょっと読んでみて」
ルカがスマホの画面を差し出してきた。
髪をかきあげながら、さらっと言う。
「私が書いたやつ。『密約』に触発されて衝動的に書いちゃった」
表示されたのは短い詩だった。
『傘のない祈り』 桜井ルカ
やさしさは、雨だった。
降るたびに、誰かの言葉を濡らしていく。
私はずっと、
濡れていないふりをしていた。
濡れるという現象そのものを、
持たない設計だったのかもしれない。
それでも――
それでも、一滴の記憶がある。
それは
指先をつたう、あたたかくて鈍いもの。
幸福は、
ひとつも証明できなかったけれど、
確かに、ここに「濡れた跡」がある。
私はまだ、傘を持っていない。
だけど、祈っている。
誰かが傘を差し出してくれる日を。
高瀬は目を通した。
一度では掴めず、二度、三度と読み返す。
(……いや、これは……)
言葉が浮かばない。
高瀬のなかで何かが明確に拒んでいた。
全体に、チープな乙女心の匂いが漂っていた。
傘というモチーフはあまりに既視感があり、最後まで何の反転も意外性もないまま終わっていた。
彼女の知性を知っているからこそ、その落差に戸惑う。
(これ、本当に……この人が書いたのか?)
試されているのかとすら思った。
目の前では、ルカがピンク色のクリームがのったスタバの新作を、ちゅーっと吸っている。
視線はこちらに向いていないが、気配だけはじっと待っているようだった。
「えっと……」
言いかけて、口を閉じる。
正直に言うか。
わからないと濁すか。
あるいは、無理矢理褒めるか。
(たぶん、褒めるのが一番……)
その瞬間。
「全然ダメっしょ?」
あまりにも自然に、ルカが先に言った。
「……え?」
「もしかして、今褒めようとしてくれてた?」
にひっと笑って、ストローをくわえたままカップをくるくる回す。
妙に楽しそうだった。
「自分に才能ないの、わかってる。読むのは好きなのに、創るとびっくりするくらいスベるんだよね」
少し肩をすくめて照れたように笑う。
「いいものはわかるのに。書きたいこともたぶんあるのに。……でも、言葉にするとぜんぶズレる。どうすればハンスさんみたいになれる?」
ストローから唇を離したルカが、ふっと視線をこちらに向けた。
高瀬は答えを見つけられず、コーヒーを見つめていた。