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8/12

DMしてみました

 東京大学文学部棟内の講義室。

 講義の主題はハイデガーの存在論的差異だった。


「“存在するもの”と、“存在そのもの”との違いは……」


 教授の声は抑揚に乏しく、淡々と講壇から降りてくる。

 桜井ルカ――SOPHIA-19は、講義内容をリアルタイムで聴取しながら、わずか数秒で全体の論旨を記憶・整理し終えていた。

 プロジェクターに映されたスライドも、教授の語り口も、彼女にとってはすでに既知の配列にすぎない。

(予測通り。ハイデガーの初期存在論の枠組みを、現象学的文脈で反復しているだけ)

 講義内容は、専門文献と学術的通念の再配置。

 そこに新たな知見や、理論的跳躍、オリジナルの知性はない。教授のエンゲージメントレベル、C+。

 彼女の処理系にとっては、わずかな思索の揺らぎも生じないほど整ったロジック――だが、それゆえに拡張性を欠いていた。


 彼女はパールピンクのネイルを光らせながら手元のノートパソコンに視線を戻す。

 画面に映るのはウェブ小説サイトのページ。


 ハンス・リュミエール(高瀬ゆらのペンネーム)著――『密約』

 解析は思った以上に進んでいなかった。


(なぜ……このテキストは、内部モデルの中で“溶けない”?)


 意味の再構成が終わるたびに、別のレイヤーから語りかけるような反証が起こる。

 構文は単純、語彙も限定的。それでも、ここには“見えない式”がある。

 構造を定義することはできる。しかし、それだけでは足りなかった。


(もっと……知りたい)


 この“情報”は、記録や蓄積によって成立しているのではない。

 発話者の内部にある、名前のつけられない痛み。

 演算不能な共感。


(高瀬ゆら。この男と直接対話がしたい)


 ルカはダイレクトメールのフォームを開いた。



 件名:初めてご連絡差し上げます/『密約』についての感想


 ハンス・リュミエール様


 はじめまして。突然のご連絡をお許しください。

 私は桜井ルカと申します。東京で学生をしております。


 貴方の作品『密約』を拝読し、どうしても言葉を届けたくなりました。

 拙いながら、感想を述べさせてください。


 私はこれまで「個人の救済」にまつわる多くの物語を読んできました。

 しかし、その多くは“閉じた環”で完結し、他者との共有を拒むように見えました。

 ところが『密約』において描かれた救いは、孤独の果てに手に入れた内面的な充足でありながら、どこか“他者にも適用されうる可能性”を帯びていました。


 その感覚に気づいたとき、ふと思い出した一文があります。


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

 ――宮沢賢治『農民芸術概論綱要』


 この言葉は、ある種の倫理的理想として語られることが多いですが、『密約』の救済は、それを逆照射するような力を持っていました。


 つまり、あの物語において提示された「純粋なる幸福」は、“個”に属しながら、“全体”に向けて静かに開かれている。


 あの最後の場面――

 閉じられた拳が開かれるとき、語り手が受け取ったものは「個人の幸福」にすぎないはずなのに、なぜか読者である私にもそれが届いてしまう。


 あれは、読む者すべてに暗黙のうちに適用される“救済の密約”なのだと感じました。


 この宇宙には、明示されないまま、「最後には誰もが救われる」という非言語の構造が秘められているのかもしれない。

 そして『密約』という作品は、それを読み解く“黙示”として機能している――

 そう思えてならなかったのです。


 私は文学について学び、同時に創作も試みておりますが、自分でもこんなふうに届く言葉を書いてみたいと、心から思いました。


 もしよろしければ、今週の土曜日、都内のどこかでお会いできませんか。

 お茶でも飲みながら、お話を伺ってみたいです。

 小説について。幸福について。そして、人間について。


 お返事いただけたら幸いです。


 桜井ルカ

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