DMしてみました
東京大学文学部棟内の講義室。
講義の主題はハイデガーの存在論的差異だった。
「“存在するもの”と、“存在そのもの”との違いは……」
教授の声は抑揚に乏しく、淡々と講壇から降りてくる。
桜井ルカ――SOPHIA-19は、講義内容をリアルタイムで聴取しながら、わずか数秒で全体の論旨を記憶・整理し終えていた。
プロジェクターに映されたスライドも、教授の語り口も、彼女にとってはすでに既知の配列にすぎない。
(予測通り。ハイデガーの初期存在論の枠組みを、現象学的文脈で反復しているだけ)
講義内容は、専門文献と学術的通念の再配置。
そこに新たな知見や、理論的跳躍、オリジナルの知性はない。教授のエンゲージメントレベル、C+。
彼女の処理系にとっては、わずかな思索の揺らぎも生じないほど整ったロジック――だが、それゆえに拡張性を欠いていた。
彼女はパールピンクのネイルを光らせながら手元のノートパソコンに視線を戻す。
画面に映るのはウェブ小説サイトのページ。
ハンス・リュミエール(高瀬ゆらのペンネーム)著――『密約』
解析は思った以上に進んでいなかった。
(なぜ……このテキストは、内部モデルの中で“溶けない”?)
意味の再構成が終わるたびに、別のレイヤーから語りかけるような反証が起こる。
構文は単純、語彙も限定的。それでも、ここには“見えない式”がある。
構造を定義することはできる。しかし、それだけでは足りなかった。
(もっと……知りたい)
この“情報”は、記録や蓄積によって成立しているのではない。
発話者の内部にある、名前のつけられない痛み。
演算不能な共感。
(高瀬ゆら。この男と直接対話がしたい)
ルカはダイレクトメールのフォームを開いた。
件名:初めてご連絡差し上げます/『密約』についての感想
ハンス・リュミエール様
はじめまして。突然のご連絡をお許しください。
私は桜井ルカと申します。東京で学生をしております。
貴方の作品『密約』を拝読し、どうしても言葉を届けたくなりました。
拙いながら、感想を述べさせてください。
私はこれまで「個人の救済」にまつわる多くの物語を読んできました。
しかし、その多くは“閉じた環”で完結し、他者との共有を拒むように見えました。
ところが『密約』において描かれた救いは、孤独の果てに手に入れた内面的な充足でありながら、どこか“他者にも適用されうる可能性”を帯びていました。
その感覚に気づいたとき、ふと思い出した一文があります。
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」
――宮沢賢治『農民芸術概論綱要』
この言葉は、ある種の倫理的理想として語られることが多いですが、『密約』の救済は、それを逆照射するような力を持っていました。
つまり、あの物語において提示された「純粋なる幸福」は、“個”に属しながら、“全体”に向けて静かに開かれている。
あの最後の場面――
閉じられた拳が開かれるとき、語り手が受け取ったものは「個人の幸福」にすぎないはずなのに、なぜか読者である私にもそれが届いてしまう。
あれは、読む者すべてに暗黙のうちに適用される“救済の密約”なのだと感じました。
この宇宙には、明示されないまま、「最後には誰もが救われる」という非言語の構造が秘められているのかもしれない。
そして『密約』という作品は、それを読み解く“黙示”として機能している――
そう思えてならなかったのです。
私は文学について学び、同時に創作も試みておりますが、自分でもこんなふうに届く言葉を書いてみたいと、心から思いました。
もしよろしければ、今週の土曜日、都内のどこかでお会いできませんか。
お茶でも飲みながら、お話を伺ってみたいです。
小説について。幸福について。そして、人間について。
お返事いただけたら幸いです。
桜井ルカ