『密約』
舞台に、たったひとり。
無常の幕が静かに降りてくる。
不安に耐えきれないのは、その幕が二度と上がらないことを知っているから――。
幕が閉じるその前に、ひとつだけ問いたい。
果たして、この世に“純粋なる幸福”などというものが、存在したのだろうか。
生身の身体の構造、脆く不完全な機能。
人間社会という名の機構、絶え間ない軋轢と矛盾。
そもそも、この世界には「有り得ないもの」があまりにも多すぎた。
そして、ようやく見つけた答えは――
この世に、“純粋なる幸福”は存在しないということだった。
◇
ここは、ミルクのように白く、曖昧な世界。雲海の果てに届く塔の最上階、高台にひっそりと建つ神殿――。
物思いに耽る者たちの、共通の帰郷点。場所の名はない。ただ、白いベッド。開け放たれた石壁の窓。滑らかな床。
世界を構成するものは、それだけしか存在していなかった。
私は、自分の姿を確認できなかった。
ただ、ひどく幼い身体をしているように感じた。
時間というものは存在しない。過去も未来も、この場所にはなかった。
それでも、ここが「私だけの世界」だということは、はっきりと理解できた。
まるでそれが、はじめから決まっていたかのように。
ごく自然に、安らぎだけが満ちていた。
◇
やがて私は、この世界に“天使”の存在を認めることになる。
――これほどまでに無垢で、平穏であるというのに。
それ以前の記憶は、まだ確かに残っていた。
なぜか?
理由は、すぐにわかった。会話を交わすためだ。
この世界には、余分な観念というものが存在しなかった。
だから、その対話は、ただ淡々と、ひどく静かな調子で進んでいった。
◇
「ひどい世界だった。すべては争いと欲望に満ちていた」
私の嘆きを、彼は静かなまなざしで受け止め、穏やかに答えた。
「今、ここにある世界。それこそが、唯一存在する世界」
「けれど……誰もがこの場所に至らなければ、それは真の幸福とは呼べない」
「誰もが至ることができる。それが、この唯一の世界」
「でも、私は見てしまった。あまりに惨く、目を背けたくなるような醜悪を……」
彼はそれでも静かに頷いた。
彼の手が私の手をそっと包んだ。
無意識に、私はこれまで孤独を握り締めていた拳を開いていた。
そこに満ちてきたのは、あたたかくて、どこまでも優しい感触。
すべてが無へと還ろうとしているのに、
それでも最後の最後まで残っていたもの――
それは、純粋なる幸福だった。