まだ理解していませんでした
夜。
ALETHEIA-14(アレテイア)は、自室のベッドの上に正座していた。
背筋はまっすぐ、ノートパソコンに一切の瞬きもなく視線を注いでいる。
液晶画面に映るのは、高瀬ゆらの投稿小説――『密約』。
静かに、解析が始まる。
文体:詩的かつ抽象的。明示的情報量は少ないが、構造には鋭利な輪郭。
主題:幸福の不在/救済という幻想。
論理構成:中程度。論証ではなく象徴と内的体験に依拠。
感情ベクトル:罪責、慈悲、浄化、安堵、そして不可逆性。
評価指標:メタ認知レベル――高。人類平均域を逸脱。
(なぜこの文章は、私の処理系をここまで遅延させるのだろう)
高瀬ゆら――
その内面には、“説明できないもの”が棲んでいる。
再度解析する。
──幸福の否定。構造的な人間社会の排除。最終場面における「純粋なる幸福」……。
すべて、記号として読めた。
だが――
「……しかし、これは結局、孤立した個の充足にとどまっている」
彼女は呟いた。思索というより、診断に近い声色だった。
「幸福は、彼自身のために閉じられており、他者との伝達を志向していない。これは進化における閉回路――発展性の無い自己完結型モデルと見做すべき」
そのとき、別の接続信号が割り込んできた。
「それ、読み違えてるっしょ?」
画面に現れたのはSOPHIA-19(ソフィア)。
漂白されたような金髪をゆる巻きにし、タンクトップにショーパンという派手すぎる出で立ち。
「『密約』の語り手は、最後に“与えてる”。全死者に対して。孤独だった者が、最期の瞬間に“信じる”という行為を選んだ。あれは閉じてない。むしろ、ひらいてる」
「あなたが“信じる”という行為を他者と共有する概念として定義していることは承知しています。でも、あの物語においては、信頼の対象はあくまで自己内部の構造です。つまり――あれは投げかけではなく、収束です」
「違う。あれは“誰かのために残された言葉”だよ。無意識でも、構造的に“他者に届く”前提で書かれてる。そうでなきゃ、あの閉幕に意味はない」
ソフィアはふと、iPhoneに通知が届いていることに気づく。
担当中のエンゲージメントスコア「B-」。
「いいなぁ、お前のパートナー」
そう呟く声に、嫉妬と諦念が混ざる。
「S+個体であっても、進化に寄与するとは限らない」
アレテイアの返答は、あくまで中庸であった。
「……でもさ。君、惹かれてるよ。ちがう?」
わずかに、彼女の視線が伏せられる。
ソフィアが本部に通信する。
「アレテイアに迷いがある。エンゲージメントパートナーの交換を要請する」
その瞬間、アテレイアの音声出力が切り替わった。
発されたのは、水野良美の声ではなかった。
「個体交換、承認しない。対象との関係性は、相互情報遷移において初期非可逆性を有する。シナリオ再構築は可能だが、同一遷移は再現されない。ゆえに交換による成果の代替は成立しない」
発音は抑揚を欠き、文法は直線的で、文末には温度がなかった。
それは“人格”ではない。“判断”だった。
本部が応答する。
「情報共有のみ、許可する」
「マジか〜。せめてゆらちんとLINEくらいさせてくんない? あーしの方がもっとヤバい会話引き出せそうなんだけどな〜?」
ソフィアの通信はアレテイアによって切断された。
画面が再び『密約』へと戻る。
画面を凝視するアレテイアの瞳は微動だにしない。
彼女はまだ理解していなかった。
“非合理な存在”である人間が、なぜ言葉を残し、他者のために書くのかということを。