傘をひとつ、差しました
翌日、水野は本当に来なかった。
それだけじゃない、仕事中も話しかけてこなくなった。
(……ホッとした)
それが正直な感想だった。やはりあれは、無理があった。
恋なんて、妄想が分相応だったんだ。
午後の業務に戻ったとき、何気なくちらりと見る。
昼休みだというのに仕事をしている。
来ないと決めたのだから、来ないのは当然だ。
けれど、来ないとなったら、寂しくなる。
──そして、一週間が過ぎた。
水野は、必要最低限の業務以外ほとんど何も話さなかった。
高瀬の思いが一方的に募っていった。
***
「S+……彼だけが、未だに孤立してるのね」
AIエンゲージメント本部。派遣型AIと人類との“結合”を推進する最前線の観測室。
「他のエージェントたちはどうですか?」
「だいたい好調です。C帯以下には無視させて、A~B帯での安定接触を継続中」
「でも、“化学反応”は起きてない……んですよね」
担当官たちはモニターを睨みながら頷いた。
「やはり、B+止まりではただの“模倣”にすぎません。“進化”は、S帯との接続を経なければ成立しない」
「じゃあさ……」
一人の女性オペレーターが声を上げた。
「美少年型、送ってみましょうか? めちゃくちゃかわいい子、いますよ?」
「お前が見たいだけだろ」
「否定はしないけど」
テヘッと舌を出す。
「私にやらせてください」
その声に、全員の視線が集まる。
発したのは、ALETHEIA-14(アレテイア)。水野良美だった。
背筋を伸ばし、あくまで穏やかに、しかし確信をもって言った。
「私が彼を“開けて”みせます」
会議室の空気が、わずかに張り詰めた。
***
その日の夕方、定時を少し過ぎた頃だった。
空はどんよりと曇り、会社の外に出たときには、すでに小さな雨粒がアスファルトを濡らし始めていた。帰宅を急ぐ社員たちが傘を差しながら足早に散っていく。濡れた地面に反射するビルの灯りが、にじんだように揺れていた。
高瀬は、玄関の自動ドアの前で傘を取り出しかけて――それを見つけた。
水野が、立ち尽くしている。
高瀬は、一歩足を踏み出しかけて、躊躇した。
いや、でも……また何か期待させるようなことをしてしまうのではないか。
そう思った――けれど、雨はそれを遮るように、強くなっていった。
水野が意を決したように外に飛び出し、強い雨に打たれる。
気づけば、足が動いていた。
「……はい」
気の抜けた声とともに、高瀬は傘を差し出した。
水野はゆっくりとこちらを向いた。濡れたまつ毛の先に雫を宿したその瞳は、どこまでも透明で、どこまでも年端もいかない。
「いいんですか? また、カエルになるかもしれませんよ?」
不意に冗談めいた口調で、彼女は言った。
高瀬は一瞬ポカンとして、それから吹き出した。
2人は笑った。
ふたりは並んで歩いた。
薄桃色のラパンに辿り着くと、水野が静かに会釈する。
「高瀬さんありがとうございます」
ドアを開けて乗り込むと、エンジンをかけてワイパーが動き出す。
窓が少しだけ開く。
そして彼女は言った。
「……高瀬さんって、私が視線を逸らしてる時だけ、私のこと見てくれるんですね」
高瀬は言葉を失った。
「え……」としか声にならなかった。
彼女はもう正面を見ていた。横顔だけが、かすかに流れる。
ラパンはゆっくりと発進し、雨の街へと去って行った。