カエルになりました
翌日から、水野の「異常接近」が始まった。
高瀬のパソコンを、ふとした拍子に覗き込む。
「今日のタスク、終わりました?」
小声で、親しげに話しかけてくる。
通りすがりに書類を“たまたま”落とし、拾わせる。
「ありがとうございます。高瀬さんって、やっぱり優しいんですね」
その行動の一つひとつに、高瀬は明らかな意図を感じた。
──え、待って……これ、もしかして本当に……?
この歳まで、恋というものは妄想の中にしか存在しなかった。
だが今、日常のなかに確かな“気配”として現れている。
ついに俺の人生にも春が来たのでは……!?
けれどその“春”は、想像していたよりも、ずっと濃密で、息苦しかった。
昼休み。
いつものように、社屋裏の駐車場に停めた車の運転席で、耳かきASMRを再生しながら目を閉じていたときだった。
――コン、コン。
窓がノックされる。
びくりとしてカーテンをずらすと――
水野が、そこに立っていた。
ショートヘアに日差しを受けて、どこか眩しそうにしている。
「一緒に、お弁当……いいですか?」
そう言って、助手席を指さした。
「高瀬さん、お昼いつもここで過ごしてるって聞いて……。それに、あんまり食べてないって」
そっと包み持ち上げた。
「今朝、ちょっとだけ早起きして作ってきたんです。よかったら……」
ゆらの脳が、一瞬フリーズした。
いや、無理だ。さすがに、それは無理。
夢にまで見た“ヒロインとのお弁当タイム”。
なのに現実になった瞬間、体が強張って動かなくなる。
「え、あ、ちょ、ちょっと待ってくださいね……」
助手席のペットボトルやコンビニ袋をかき集め、慌てて後部座席に放り込む。
「どうぞ……」
「ありがとうございます」
水野は何の迷いもなく乗り込み、スカートの裾を押さえながら、助手席にすっと腰を下ろした。
ふわりと、甘い香りが車内に広がる。
水野は蓋を開け、高瀬のほうにそっと差し出した。
「冷めちゃってますけど……」
丁寧に、けれど過剰にならない、ちょうどいい“かわいらしさ”の弁当だった。
――なのに。
食欲が、まったく湧かない。
これは、いったい何だ?
長年の“憧れ”のはずだったのに。
良美は箸を止めて、こちらの顔色をじっと伺うように見つめてきた。
「……あの、ごめんなさい。苦手なもの、入ってましたか?」
その声はあくまで素直で、やわらかく、疑いを知らない。
ゆらは咄嗟に答えた。
「い、いえ! そんなことないです! いただきまーす!」
――ぱく。
高瀬は、ぎこちなく箸を動かし、漬物を口に運んでいた。
その様子を、水野は静かに見つめていた。
──恋愛ゲージ、下降中。
高瀬の目線は泳ぎ、口元に笑みはない。手はわずかに震え、無理に咀嚼している。
彼の“恋愛感情メーター”――すなわち、自分に対する好意の実感値は、明らかに目減りしている。
(……なぜ?)
彼女は試みるように、そっと高瀬の太ももに手を置いた。
その指先が触れた瞬間、恋愛ゲージがグンと跳ね上がる。高瀬は一瞬、目を見開き――
「へ?」
照れ隠しのように、間の抜けた笑みをこぼした。
だがその刹那、再び恋愛ゲージがガクンと下がった。
水野の脳内にアラートが走る。上昇しても、持続しない。接触刺激は一時的な効果しかもたらさない。
(……これはもしかして)
水野はすぐさま端末に思考リンクを接続し、「恋愛 拒否反応」「好かれて冷める」などの語句で検索。
数秒後、ひとつの仮説が彼女の思考アルゴリズムに浮かび上がる。
──“カエル化現象”。
好きだったはずなのに、相手からの好意を受け取った瞬間に拒否反応を示してしまう。
ごく一部の人間に見られる、繊細すぎる感情回路。
水野は、自分の“接近”が、彼の拒否感情を引き出していたのだと悟った。
そして、静かに手を引っ込めた。
「……すみません。親切心を押し付けてしまいました」
高瀬が顔を上げる。
「えっ?」
「明日からは来ません」
助手席のドアに手をかけ、カチャリと開ける。
日差しが差し込む中、彼女はスカートの裾を整えながら、そっと地面に降り立つ。
扉が静かに閉じられると、高瀬の胸に小さな“空白”が残った。