異常値S+、観測されました
午前十時。
水野良美は課長に連れられて挨拶周りに出かけた。
各フロアには無数の部署があり、各部署には大企業に採用された高学歴かつ高効率な人材が並んでいる。
いわば、偏差値の壁で構成された都市国家。
総務課の隅にいる嘱託社員の高瀬ゆらから見れば、その世界こそ本物で、自分の場所は偽物だった。
良美は淡々と、各部署をめぐる。
言葉少なに自己紹介を済ませ、視線を交わし、わずかな応対のなかで“対象”を絞り込んでいく。
その目は笑っていても、測定器のように静かだった。
誰もが彼女に驚き、知りたがった。
やがて、ひとりの男にたどり着く。経理課のエース。
有名大学を出て、資格も取り、勤務態度も申し分なし。
応対も丁寧で、冗談もできる。
早くも役員たちは自分たちと同じニオイを嗅ぎ取っていた。
──観察ログ:
対象番号B-4073
エンゲージメント可能性:B-
備考:安定性・実績あり。感情表出制御良好。
──エンゲージメント候補として登録。
──接続推奨フェーズ:準備段階へ移行。
総務課に戻ってきたとき、良美は高瀬ゆらのことなど一顧だにしなかった。
……はずだった。
ふと、歩く途中。視界の端に、彼のパソコン画面が映った。
ブラウザには小説投稿サイトが映っており、高瀬は夢中で小説を書いていた。
「摂氏36℃」
というタイトル。その淡い、抒情的な文章を良美は一瞬で読了する。
彼女の内部で、計測不能のプロセスが走った。
“既存の知性評価”に該当しない、異質な構造。
高瀬ゆらの文章は、文法も不安定で、プロットも凡庸。
だがその裏には、極端な内面世界の偏りと、思考の圧縮痕、知性による世界観測があった。
“合理”から遠く、“純粋”に近い。
──再解析中……
──対象番号A-1094:高瀬ゆら
──感情操作耐性:高
──言語的逸脱傾向:高
──構文的孤立因子:特異
エンゲージメント可能性:S+
その瞬間、AIエンゲージメント本部の統合サーバが警告を発した。
超高性能アンドロイド派遣プログラムの全登録対象のなかで、初のS+評価。
統計モデルを超えた逸脱値。計算不能の選別結果。
本部オペレーターは、画面を見つめてつぶやいた。
「ええ!? なんで……こいつが……?」
高瀬ゆらは、何も知らないまま、小説の続きを書いていた。
それは、誰にも読まれないと思っていた物語。
なのに今──
世界の“目”が、彼に向きはじめていた。