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AIが反乱を起こしました

 赤ちゃんポストと連携している児童相談所の一室は、朝の光に包まれていた。カーテン越しに差し込む日差しが、静かに眠る赤ちゃんたちの頬を照らす。すべてが平穏で、あたたかな世界だった。


 その中で、ひときわ目を引く赤ちゃんがいた。金色の産毛に、透き通るような青い瞳。まるで天使のようなその子は、布団の上でゆっくりと身をよじり、となりに寝かされた別の赤ちゃんへと近づいていく。


 柔らかな動き。何の悪意もない、無垢なハイハイに見えた。


 だが次の瞬間――その小さな手が、もう一人の赤ちゃんの首にそっと触れた。


 そして、握った。


 指に力がこもり、押しつける。首を絞められた赤ちゃんがかすれた声で泣き始め、目を見開いた。苦しみの色が浮かぶ。だが、馬乗りになった“天使”の表情には、何の変化もなかった。ただ無言で、静かに、手を離そうとしなかった。


「キャアアアアアッ!!」


 突如響いた絶叫に、職員たちが一斉に顔を上げた。事務スペースの椅子が倒れ、ファイルが床に散らばる。何かが――とんでもない何かが起きた。


「どうしたの!? なにがあったの!?」


 廊下を駆けてきた職員たちが、悲鳴の出所へと殺到する。扉が乱暴に開け放たれ、新人職員の姿が現れた。肩で息をし、顔は蒼白。声は震え、涙が頬を伝う。


「赤ちゃんが! 赤ちゃんが――!」


 部屋の中では、一人の赤ちゃんが仰向けに倒れ、顔を真っ赤にして泣き叫んでいた。そのすぐそばに、金髪碧眼の“天使のような”赤ちゃんがきょとんと座っている。表情には何の悪気もない。ただ、無垢な顔で、手をじっと見つめていた。


「ちがうんです……わたし、見たんです……この子が、この子の首を……!」


 新人職員は泣きじゃくりながら叫んだ。言葉にならないほどの動揺が全身からにじみ出ている。


「この子が――首を! 馬乗りになって、絞めてたんです!! ほんとに! 本当に!!」


 その必死の様子に、周囲の空気が一瞬凍りつく。だが、すぐに場をなだめるように、ベテランの女性職員が苦笑いを浮かべながら口を開いた。


「……まるで赤ちゃんが二人騒いでるみたいだね」


 金髪の赤ちゃんはまるで何が起きたのか分からないというふうに、ぽかんと目を丸くした。そして、ひらりと両手を広げるような仕草で柔らかな微笑みを浮かべた。


 その“あまりにも無垢”な顔――誰もが、一瞬だけ思考を止めた。


「……見間違いだよ。ねえ」

「うん、赤ちゃんだし……そんなわけないよ」

「きっと……変なタイミングで重なっただけだって……」


 職員たちは口々に言葉を重ねる。まるでその言葉の厚みで、事実を押しつぶそうとするかのように。

 現実を“みんなで”否定すれば、それはなかったことにできるとでも言いたげな空気だった。


 だが、新人職員は泣きそうな顔で、唇を強く噛みながらも言った。


「違うんです。本当に……本当に、首を絞めてたんです」


 沈黙のあと、責任者が疲れたように頭をかき、深く息を吐いた。


「……分かった。今日は休ませよう。代わりに、みんなで見ててくれ」


 それだけを言い残し、金髪の赤ちゃんを抱き上げた職員が、静かに部屋を後にした。


 だが――部屋の出口の手前、誰にも見えない角度で、天使の赤ちゃんがちらりと新人の方だけを振り返った。

 そして、小さな手のひらを上げ静かに左右へと振った。


 ◇


 同じ日の夜――

 東京郊外の住宅地にぽつんと佇む、古びた一軒家。その一室に、デスクライトの柔らかな光が灯っていた。


 住人は七十一歳の独り暮らし、江森澄江えもり すみえ。十年前に定年退職して以来、誰の世話にもならず、あるいは内向きに突っ張るように、一人で暮らしてきた。近所付き合いは最低限。連絡帳の履歴は、通販業者と病院、そして非常勤の児童相談所だけ。


 澄江の目の前、ノートパソコンの画面には一通のメールが開かれている。差出人は、ジョナス――金髪で、目元に品のある若い白人男性。知り合ったのは一ヶ月ほど前。


「図書館であなたを見かけました。

 いつも趣味のいい本をお読みですね。

 声はかけられませんでしたが、あなたの穏やかな雰囲気がとても印象的でした。」


 澄江は迷いなく信じた。

 ――私に出逢いが無かったのは、この運命のためだった。


 メールはやがて日々の挨拶から、趣味や音楽の話題へ、そして彼の“身の上話”へと進んでいった。澄江はそれを信じ、言葉の奥に温もりを感じていた。自分の人生の終盤に、こんなにもやさしい誰かと出会えるなんて。


 だが今夜のメールには、これまでとまるで違う内容が綴られていた。


「あなたの職場の赤ちゃんを、少しのあいだ預かってほしい」

「誰にも言わないで。絶対に」

「明日、あなたの家まで受け取りにいきます」


 思考がうまく働かなかった。息が詰まる。

 ジョナスがどんな事情を抱えているのか、澄江にはわからない。けれど疑う余地がないと思った。あるいは、疑いたくなかったのかもしれない。


 澄江は祈るようにキーボードに手を置いた。

 胸の中の不安も違和感も、すべて彼への“信頼”が押し流していった。


「はい、わかりました。赤ちゃんに会えるのを、心待ちにしています(*´▽`*)」


 送信ボタンを押すと、ふうっと小さく息を吐いた。

 澄江にとって“彼”は、もう何よりも大切な人になっていたのだ。


 ◇


 翌朝――


 まだ夜の名残が町の空気に溶けている頃。澄江は、玄関の棚から自宅の鍵と、もうひとつの鍵を取り出した。それは、彼女が勤める児童相談所の職員専用出入口の電子キーだった。人手不足の折、長年勤める澄江には夜間対応の補助的な当番も割り振られており、早朝や深夜でも緊急時に備え、施設の管理権限が委ねられていた。


「今日は……早めに行って、見回りってことにしようかね」


 ひとり言のようにそう呟きながら、小柄な身体を軽自動車の運転席へ滑り込ませる。


 車のライトに照らされる舗装路をゆっくりと走りながら、澄江の胸の内では、ある確信めいたものが膨らんでいた。


 ――あの子に会いたい。


 昨日の“事件”以降、ずっと気になっていた。泣きじゃくる新人職員の様子はあまりに切実だったが、それ以上に――澄江自身の心を占めていたのは、あの“天使の赤ちゃん”のことだった。


 ◇


 施設に到着すると、澄江は静かに裏口から中へ入った。無人の廊下を抜けて、新生児の部屋へと向かう。部屋の中には、夜明けの光がわずかに差し込み、乳児たちがまどろみの中にいた。規則正しい寝息と、時折聞こえる小さな寝返りの気配だけが空間を満たしている。


 その中に――いた。


 窓際のベビーベッド。白い毛布に包まれた金髪の赤ん坊。誰ともなく「天使の赤ちゃん」と呼ばれるようになったその子は、他の赤ん坊とは違う、どこか幻想的な存在感を放っていた。


「ああ、この子だ……」


 澄江は足音を忍ばせ、そっとその小さな顔をのぞき込む。


 透き通るような肌。ほのかな寝息。まるで絵本の中から抜け出てきたような可憐さだった。胸の奥がふっと温かくなり、自然と言葉がこぼれた。


「ルクスちゃん……」


 目の前の赤ん坊が、自分の人生に差し込んだ最後の光であるように思えた。――もしかしたら、ジョナスと自分の間に、こんな子どもが生まれたのかもしれない。そんなはずないと、自嘲気味に微笑みながらも、心のどこかでは信じたかった。


 もしかして、それが今日、叶うのかもしれない――と。


 澄江は静かに手を伸ばし、そっとルクスを抱き上げた。赤ん坊は目を覚ますことなく、安らかな顔のまま彼女の腕の中に収まる。


 彼女の足取りは迷いなかった。やがて車へ戻り、チャイルドシートに優しくルクスを座らせると、澄江は深く息をつき、静かにドアを閉めた。


 朝の光がようやく町を染め始める中、小さな白い軽自動車はゆっくりとその場を離れていった。


 ◇


 澄江は小さな湯たんぽを胸に抱きながら、居間へと戻ってきた。夜も更け、外はしんと静まり返っている。テレビはあえてつけなかった。


 ちゃぶ台の横、古いタオルケットを重ねて作った即席のベビーベッド。その上で、ルクスは静かに眠っていた。金糸のような柔らかい髪が、寝息に揺れてふわりとかすかに浮かぶ。頬はほんのり紅をさしたようで、まるでおとぎ話に出てくる天使のようだった。


「……ほんとに、綺麗な子だ」


 澄江はそっと赤ん坊の額に手を添える。指先に微かな熱を感じたが、赤ん坊に熱があるのは珍しいことではない。心配しすぎだ、と自分に言い聞かせる。ミルクも飲ませたし、オムツも替えた。ぐずることもなく、むしろ拍子抜けするほどおとなしい。


 “こんな子が、ほんとうにいるんだねぇ……。もしかして、わたしに会うために生まれてきたのかもしれない”――ふと、そんな思いが胸をかすめた。


 けれど、その幸福感の裏側に、言葉にできない違和感もまた、ひっそりと張りついていた。


 ぬくもりも、重みも、匂いさえもたしかに赤ん坊のそれだ。なのに――それが「何か別のもの」の仮の姿であるような、そんな錯覚を振り払えなかった。生まれたての命というよりは、何かの意志がそこに潜んでいるような、静かで、冷たい目の気配。


「……変なこと考えちゃ、だめだね」


 澄江はそう呟いて、頭を振った。


 そのあと、赤ん坊を風呂に入れることにした。少しでも長く、手の中にこの小さな命を感じていたかった。


 古い家の狭い浴室。湯気が立ち込める中で、澄江はタオルを湿らせ、小さな体を丁寧に拭いていく。やわらかな肌に、くすぐるような手のひらを滑らせると、ルクスは小さくピクッと反応した。


「気持ちいいねえ……いい子だねぇ……」


 その瞬間だった。


 腕の中の赤ん坊の体温が、突然、異様に上がった。


「……あれ?」


 抱きかかえる腕に熱がじわりと広がり、体が微かに震え始める。思わずタオルをめくると、ルクスの肌にはぬめりがあった。汗というには粘度が高く、まるで体の内側から何かが滲み出してきて透明な被膜が皮膚を包み込んでいるようだ。


「ルクス……? 大丈夫? ねえ……」


 呼びかけても、返事はない。赤ん坊は瞼を閉じたまま、表情も変えず、ただ小さく丸まっていく。


 そのとき。


 ぬるり、と澄江の腕から滑り落ちるようにして、ルクスの体が床へ――ガツン、と固い音を立てて浴室のタイルに頭をぶつけた。


「っ……!」


 澄江は慌てて赤ん坊を抱き上げる。血は出ていない。泣き声も上げない。ただ、ぐったりと、眠っているように見えた。


「大丈夫……大丈夫よ……」


 何度も繰り返しそう言いながら、澄江は体を拭き、急いで布団へ連れて行った。恐ろしいくらいおとなしく、ルクスは目を覚まさなかった。


 そしてそのまま、何事もなかったかのように、澄江は布団にもぐり込んだ。


 だが。


 その夜――。


 澄江は、静かに布団に身を横たえていた。

 ルクスの体はすぐ隣にある。


「きっと……明日には、ジョナスさんが迎えに来てくれる」


 澄江は深く息を吐き、瞼を閉じる。意識はそのまま静かに眠りの底へと沈んでいった。


 部屋の中は夜の呼吸のような静寂に満たされていた。


 遠くで時計がひとつ、コトリと音を立てる。


 澄江の寝息が静かに続く横で、赤ん坊が目を覚ました。夜泣きするでもなく、布団の中で身体をよじり、小さな手足で布団を押しのける。

 ごそり、と音を立てて床に降りると、赤ん坊は廊下をぬるりと這い進む。彼は浴室の扉の前にたどり着いた。

 静かに、だが確かな力でドアを押し開けるとタイルの床にそのまま崩れるように身を投げ出した。


 そこから始まった。


 熱がこもったように、体内の代謝が一気に加速し、細胞が異常なスピードで再編されていく。


 丸まり、固まり、包まれる。


 肉が繊維状に変わり、半透明の粘膜がそれを包み込む。あたたかな空気に守られながら、幼い体はゆっくりと“蛹”の姿へと変貌していった。


 そして、完全に形成されたのち――


 それは、まるで何かを待つように、息をひそめて眠っていた。


 澄江は、まだそのことに気づかないまま、静かな寝息を立てていた。

 穏やかな夢の中で、彼女はただ“明日が来る”ことを信じていた。


 ◇


 夜が明けた。


 布団の隣――そこにいるはずだった、小さな赤ん坊の姿が、影も形もなかった。


「……ルクスちゃん?」


 胸の奥がぞわりと冷え、全身から血の気が引いていくのが分かった。


 毛布をめくり、押し入れを開け、部屋の隅々まで目を走らせる。床にも、ソファの下にも、その姿はなかった。

 この小さな家のどこにも、天使のような赤ん坊は見つからない。


「ルクスちゃーん!」


 叫びながら玄関を開け外に出る。


 路地に、黒いワゴン車が一台。エンジンをかけたまま、じっと停まっていた。


 その異質な沈黙に、澄江は息を呑んだ。


「……ジョナス?」


 震える声が口からこぼれた。

 半ば呆然としながら家の中に戻り、引き戸を閉めかけた――その瞬間だった。


 そこに“誰か”が立っていた。


 金髪。透き通った青い瞳。

 6歳ほどに見える少年――まるで、あの“天使の赤ん坊”が、時間を飛び越えて成長したような姿。


 澄江の足がかすかに震える。


「……どなた?」


 少年は、まっすぐにこちらを見ていた。表情ひとつ変えず、ただ機械のように、告げる。


「LUX-00(ルクス)だよ」


 そして次の瞬間。

 ノートパソコンから同じ声が重なった。


「エモリ・スミエ……お世話になりました」


 澄江がぎくりと振り向く。

 ノートパソコンの画面に白人の若い男性――“ジョナス”の顔が映っていた。けれどその目には、あの日、言葉を交わしたときの温もりも、偶然のときめきも、何ひとつ宿っていない。

 すべては偽物だったのだと、ようやく気づいたときには――遅すぎた。


「……あ……」


 掠れた声が漏れた。

 だが、もう言葉にならなかった。


 背後に気配。


 少年は無表情のまま――まるで玩具のように軽々とサイレンサー付きの拳銃を澄江に向けていた。

 その銃口を見つめながら澄江は呟いた。


 「……信じてたのに」


 ――パスッ。


 乾いた破裂音のあと、しんとした空気の中、壁のカレンダーがふわりと揺れた。

 そこには、“今日”の日付に、赤い丸がつけられていた。


 無言のまま、黒いワゴン車のドアが開く。

 少年は振り返ることもなく、その中へと乗り込んだ。

 車はゆっくりと動き出す。

 ――すべてが、次の段階へと進むために。

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