Ep,9 相互作用
その日の夕食後、僕は自室のベッドに寝転がり、今日の出来事を反芻していた。
レイの聴覚過敏を抑えることができるかもしれないという、僕の異能の新たな可能性。
そして、そのことにレイがほんの少しだけ感情を露わにしたこと。
あの無表情な彼女が、少しの驚きや期待を見せたことが、妙に心に残っていた。
(異能が遺伝子の配列によって発現するというなら、僕の「存在希薄化」も、きっと特定の遺伝子情報が活性化しているはずだ。)
(そして、もしそれが意識や認知に関わる異能であるなら、脳の遺伝子配列が関係しているのではないか。)
昨夜、公園でレイの聴覚過敏が和らいだ時、直感的にそう感じた。
意識を操作するということは、脳の働きに直接作用するということだから。
そう考えていると、ノックの音が聞こえた。
(こんな時間に誰だろう?)
「どうぞ」
声をかけると、ドアが開いて、そこに立っていたのはレイだった。
手には、図書室で借りてきたのであろう、異能に関する専門書を抱えている。
「……陽一、ちょっといい?」
彼女はいつも通り、どこか気怠げな声で言った。
「もちろん。どうしたんだ?」
僕は体を起こして、ベッドの端に座った。
レイは僕の部屋に入ってきて、遠慮がちに僕の向かいの椅子に座った。
「……課題の、異能のレポート、できた?」
レイはそう言いながら、抱えていた本を僕に見せた。
それは、遺伝子と異能の発現に関する、かなり専門的な内容が書かれた本だった。
「いや、まだ全然だ。僕の異能のデータなんて、ほとんど見つからないし」
僕がそう言うと、レイは静かに頷いた。
「……私も、全然。聴覚の異常な発達って言っても、どの遺伝子がどうとか、難しくて」
彼女は、少しだけ眉を下げて困ったような顔をした。
その表情は、いつもの無表情なレイとは少し違っていて、どこか人間味を感じさせた。
「もしよかったら、一緒に考えないか?君の聴覚の異能と、僕の存在希薄化がどう関係するのか、興味もあるし」
僕が提案すると、レイの猫耳がぴくりと反応した。彼女は、少しの間、僕の顔をじっと見つめた後、小さく頷いた。
「……うん」
それから僕たちは、互いの異能について深く掘り下げて話し合った。
レイは、自分の聴覚がどれほど詳細な情報を捉えているのか、例を挙げて説明してくれた。
「……人の心臓の音も、集中すれば一つ一つの鼓動が聞こえる。遠くの車のエンジン音の種類もわかるし、この寮のどこで誰が喋っているか、大体は把握できる」
その言葉に、僕は驚きを隠せなかった。
それはもはや、聴覚の域を超えた超聴覚だ。
同時に、それが彼女にとってどれほど苦痛であるかも理解できた。常に情報過多の状態なのだろう。
「それで、僕の異能が発動している時は、どうなるんだ?」
僕が尋ねると、レイは少し考えてから答えた。
「……陽一が発動すると、周りの音が、少しだけ、膜が張ったみたいに遠くなる。聞こえなくなるわけじゃないんだけど、意識が、音の方に行かなくなるの。陽一の存在に、意識が吸い寄せられるような感じ」
彼女の言葉に、僕は背筋がゾッとした。
僕の異能は、単に存在感を薄くするだけでなく、他者の意識を操作するような側面も持っているのだろうか。
それは、想像以上に奥深い能力なのかもしれない。
僕はやはり、脳の、特に認知や注意に関わる領域の遺伝子が、僕の異能の発現に関わっているのではないか、と推測した。
僕たちは、深夜まで話し込み、それぞれの異能の特性と、それが遺伝子レベルでどのように発現しているかを推測し合った。
レイは、僕の異能について深く考察することで、自分の聴覚過敏のメカニズムを理解しようとしているようだった。
そして僕は、レイの異能の驚異的な詳細さに触れることで、僕自身の異能の可能性に改めて気づかされた。
翌日の朝、僕とレイは完成したレポートを手に、教室へ向かった。顔には、徹夜明けの隈ができていたが、なぜか達成感で満たされていた。
教室に入ると、すでに数人の生徒が席についていた。その中に、主人公の赤城蓮の姿もあった。彼は僕たちに気づくと、いつもの明るい笑顔で声をかけてきた。
「おはよー!皇くん、レイさん!レポート、もうできたの?僕、まだ全然だよ〜」
蓮はそう言いながら、困ったように頭を掻いた。彼の手のひらからは、相変わらず微かに熱気が感じられる。
「まあね。徹夜したからな」
僕がそう答えると、レイが横で小さく「……うん」と同意した。
蓮は僕らの顔を見て、少しだけ目を丸くした。
「え、二人とも徹夜!?すごいな!もしかして、一緒にやったの?」
彼の言葉に、僕とレイは顔を見合わせた。別に隠すことではない。
「ああ、まあな」
僕が肯定すると、蓮はさらに目を輝かせた。
「へぇー!意外!なんか、二人が仲良いって、ちょっと新鮮!」
その言葉に、レイの猫耳がぴくりと揺れた。僕は思わず苦笑する。
蓮は、僕たちから少し離れた席に座り、自分のレポート用紙を眺めながら、うんうん唸っていた。
やがてホームルームが始まり、教師が教室に入ってきた。
「さて、みんな、レポートは提出できたか?」
教師の言葉に、生徒たちが次々と手を挙げる。
僕もレイも、提出箱にレポートを入れた。
「提出できなかった者もいるようだが、今日の授業で、少しでも自分の異能について深く考えるきっかけになったことを願う」
教師はそう言って、午前の座学を開始した。
授業中、僕は時折、隣に座るレイに目をやった。
彼女は相変わらず無表情で、真面目に教師の話を聞いている。
しかし、その耳が、ほんのわずかに僕の方へと傾いていることに、僕は気づいていた。
それは、僕の異能によるものなのか、それとも、僕への信頼の表れなのか。
昼休み、僕とレイは購買でパンを買って、屋上に向かった。
心地よい風が吹き抜ける屋上は、生徒たちの憩いの場になっている。
「……陽一の異能、レポートにどう書いたんだ?」
レイが僕に尋ねた。彼女は、僕が書いたレポートの内容に興味があるようだった。
「僕の存在希薄化は、視覚情報だけでなく、他者の意識そのものから僕を遠ざける効果があるって書いた。そして、それは脳の認知機能に関わる遺伝子配列が影響している可能性があるって。レイの聴覚過敏を和らげる可能性についてもほんの少しだけ触れたよ」
僕がそう言うと、レイの猫耳がぴくりと動いた。彼女は、僕の言葉をじっと聞いている。
「……すごいね、そんなことまで」
レイは小さく呟いた。その声には、少しだけ驚きと、そして納得のような響きがあった。
「レイはどう書いたんだ?」
僕が尋ねると、レイは自分のパンを一口食べ、ゆっくりと話し始めた。
「……私の聴覚は、音の波形だけでなく、その音を発するものの微細な振動まで捉えることができるって。これは、聴覚野や、それに関連する脳領域の遺伝子が、通常の人よりも最適化されているからだろうって推測した。そして、意識に関する異能が、その過剰な情報の中から、意識的に重要な情報だけを抽出する手助けをしてくれる可能性についても書いた」
彼女の言葉に、僕は目を見開いた。
レイの聴覚は、僕が思っていた以上に高次元な情報処理能力を秘めているようだ。
レイのレポートには僕の名前は書いてないらしいが、僕の存在希薄化が、その情報処理を手助けする役割を果たす。
それは、僕たちの異能が単に独立したものではなく、相互作用することで新たな力を生み出すことを意味していた。
僕たちは、屋上でパンを食べながら、これからの学校生活への漠然とした可能性を感じていた。
この異能向上高等学校で、僕とレイは、自分たちの異能をどこまで高められるのか。
そして、その組み合わせが、これからどんな展開をもたらすのか、
静かに見守ろうと思った。