宰相と恋人
神子が熱を出して寝込んでいると報告がきた。けれど薬師を派遣することはなかった。神子に一番近い侍女が薬草だけを取りにきたからだ。
神子のために以前、薬師について学んだのだと言ったらしい。
それが真実かどうか、神子が今まで薬師を必要とする状態になったことがないため分からない。けれど神子を大切に思うあの侍女が偽りを言う理由もない。それにあの侍女ならば有り得ないことでもないと思った。
「薬師ではなく彼の侍女が煎じるというのならば、そうそう酷い状態でもない、か」
ひとまず安堵した。そして国王へ報告に向かう。今の時間ならば執務室にいるはずだ。
暇を見つけては部屋に閉じこもった寵姫の様子を見に行っているから、執務室にいなくとも居場所は分かる。
…寵姫。
魔法士長から見せられた寵姫と神子の会話を思い出す。
甘えている。それは分かっていた。
神子の優しさに甘え、神子の弱味に漬け込んでいる。それも分かっていた。
分かっていたけれど、国のために神子が必要だからと神子の心を傷つけてでも縛りつけた。
――私、は!私はここしかいられる場所がないの、に!全部吐き出せるわけ、ないのに!勝手なこと言わないで!!!
そうだ。それとて分かっていた。
神子は何も言わない。微笑んでいるだけ。その理由とて分かっていた。
ただ、実際に本人の言葉として聞いてしまえば、分かっていた、という己の言葉が酷く軽いものに感じられた。
本当に分かっていたのだろうか。
分かっている、という言葉で己を守っていたのではないだろうか。
神子を傷つけ続ける己を正当化させようとしていたのではないだろうか。
「気づいたところで、何も変わらない」
何も変えない。
国のために神子を傷つけ続ける。その選択を外すことはない。
ただ。
神子に気を遣わせる。そんな今までの自分でいてはいけない。
恨まれたくはない。そんな己のための守りを外さねばならない。
あまりに遅すぎる決意だけれど。
朝がきた。
ただ自己嫌悪に陥って泣いてばかりいた夜が明けた。
窓から差し込む光が、あの激しい雨が去ったのだと教える。
ふらふら、と立ち上がる。
テラスの窓を開けて外に出る。優しい風が少し冷たい。
まるで昨日の雨が嘘のように静かな庭を見下ろして、ふっと思う。
今まで自分は何をしていたのだろうか、と。
選んだのは自分だ。過程はどうあれ、差し出された手を取ったのは自分だ。妻ある人に寄り添う道を選んだのは自分なのだ。
なのに自分は何をしただろうか。何もしなかった。ただ寄り添っていただけだ。周りの目に怯えていただけだ。挙句に神子に救いを求めるなんて愚かな真似をしただけだ。
「それで、誰が認めてくれるというの。誰が赦してくれるというの」
傷つく人がいることを知っていた。それでも選んだのならやるべきことはあったはずだ。
カーシェの存在を知った神子は責めなかった。微笑んで祝福をくれた。その微笑みの下に渦巻く感情を隠して。
ならばそれに見合うだけのものを返さなければいけなかった。
夫を奪った女が何もせずにただ夫に寄り添う姿に、神子は何を思っただろうか。夫に裏切られても王妃としての勤めを果たしていた神子に、そんなカーシェの姿はどう見えただろうか。
「私、は」
手摺りに落ちる涙。
情けない。
神子は笑っていたのに。
辛くても笑って。辛くても王妃として働いて。王のために、国のために働いて。
何もしなかったカーシェとは違って、毎日、毎日。
…何が、できるだろう。
自分には何ができるだろう。
「…違、う。できる、じゃない。しなければ」
そうでないと、自分は最低なままだ。神子をあんなにまで追い詰めた自分のままだ。
「赦しを、求めるなんて真似はもうしてはいけない。そんな資格なんてないの。私が選んだの。ずっと背負っていくべきものなの」
ぐっと手摺りの上に置いた両手で拳を作る。
間に落ちる涙。
苦しい。
胸が、苦しい。
けれどそれすらも、自分が選んだ道なのだ。
甘えてばかりの自分から脱しなければ。
レガートに、神子に、もう甘えてはいけない。