魔法士長と神子
執務室から退室した宰相は、その足で魔法士長の執務室へと向かう。
彼には一つの役割を任せていた。神子の監視。
王宮魔法士長の部屋には水晶玉がある。神子の部屋に張った結界と神子が身につけている腕輪。それらを繋いでいる水晶玉が。
その水晶玉は神子が部屋を出た時に反応を示す。水晶玉が光り、神子の居場所を告げるのだ。
同じものが事情を知る魔法士の部屋にある。それらは神子についていった使用人達に対してのものだ。
神子の使用人である彼らの場合は神子とは少しばかり違い、使用人達全てに同じものを身につけさせているため、それを身につけていないものと接触した時、水晶玉が反応するようになっている。
今のところ神子に関しても使用人達に関しても何の報告もない。だが、今回はあるはずだ。神子と国王の恋人が接触したのだから。なのに何の報告も上がってきていない。不審に思うのは当然のことだ。
一体、何があったのか。
そう思う。
魔法士長は何を見たのだろう。水晶玉には一体何が映っていた?
そして水晶玉と繋がっている白紙の本。それには何が記されたのだろう。神子が生活する棟を出て、誰かと接触した時、その会話が記されるという本には。
魔法士長が報告を躊躇うような会話がなされていたのだろうか。
魔法士長の執務室の前、立ち止まった宰相は一度大きく息を吸う。そしてゆっくりと吐くと扉を叩いた。
部屋の主からの応えがくるまでの短い間、何を聞かされても宰相として判断できるように、一個人としての自分を固く封じた。
訪れた宰相の姿を目に、魔法士長は報告が遅れたことを謝罪する。次いで、年甲斐もなく動揺してしまったのだ、と付け足せば、宰相が眉を寄せた。
神子と接触したのは国王の最愛の寵姫。その二人の間に交わされた会話。それを思ったのだろう。
その宰相に水晶玉の前に開いた状態で置いてある本を手に取り、神子と寵姫の会話のページを差し出す。
黙ったまま受け取った宰相がそのページに目を落としている間、魔法士長は目を伏せた。
そのページには寵姫が神子に語る言葉が書いてある。神子は一切口を開かない。神子が口を開くのは最後だけ。最後のページだけだ。
そのページを読んだ宰相は何を思うだろうか。魔法士長が衝撃を受けたあの言葉に何を思うだろうか。
――私、は!私はここしかいられる場所がないの、に!全部吐き出せるわけ、ないのに!勝手なこと言わないで!!!
目が釘づけになった言葉。
今まで語られることのなかった神子の本音を始めて聞いた。恐らくは誰も聞いたことのない。
それきり本は沈黙したが、その後、魔法士長は本から目が離せなかった。何度も何度も神子の言葉を目でなぞった。
いつも微笑んでいる神子。
何もなかったように臣下の前に姿を現わし、何事も起こっていないように国民の前で手を振る。その神子が頑なに見せなかった本音。
言いたいことはあるだろう。なのに全てを受け入れる神子に、これが神の子かと。流石神より遣わされし子だと。自分の孫と変わらぬ年の神子に感嘆の息を吐いていた。
愚かなことに。
宰相が息を詰めた。
伏せていた目を上げると、宰相の目が何度も同じ場所をなぞるのが見えた。魔法士長がしたように何度も、何度も。そして宰相は顔を上げて、これが全てか、と言った。
それが全てだ。神子と寵姫の間にあった出来事は、それが全てだ。だから頷いた。
「この後、神子様は部屋にお戻りになられたのか?」
「いいえ」
水晶は映した。腕輪が見る映像を。雨が降る庭。つまり、神子は寵姫と別れた後、庭に出た。激しい雨が打ち付ける庭の中を。
「ですが神子様はすぐにお戻りになられました」
映像は走っていたようだったが、徐々にその速さを緩め最後には止まった。そしてしばらく、方向を転換したかと思えばゆっくりときた道を戻っていった。
そう報告すれば宰相がほっとしたように息をついた。けれどすぐに顔を厳しいものに変え、薬師が必要か、と呟いた。
ただ、監視のことは神子に知らせてはいないため、こちらで手配するわけにはいかない。だからだろう。宰相が魔法士長に要請があればすぐに対応できるように、と命じた。
魔法士は後方支援が主な仕事だ。そのためだろうか。薬師の知識を持つものも大勢いる。そのため魔法を仕えない薬師も魔法士団の管轄となっている。
その魔法士団の長である魔法士長が了承の意を示せば、宰相が頼むと言ってまた本に視線を落とした。そうして魔法士長に本を返す。
その胸の内は何を思っているのだろうか。読み取れないほどに宰相は無表情だ。
「閣下」
「辛い役目をさせる」
「…いえ」
その言葉は魔法士長に対する謝罪と、これからも頼むという二つの意味がある。
宰相は国のために存在する。国を正常に動かすための補佐役。そのために一個人としての感情を呑み込む。それは神子が遣わされるより前からずっと変わらないことだ。
その胸の内にどんな感情が渦巻いていても。
部屋を出て行く宰相の背が扉に阻まれて見えなくなる。宰相の胸の内と同様に。
それを見送った魔法士長は、手の中の本のページをめくる。宰相が読んでいたページを、めくる。
そこにあるのは何も書かれていないページ。けれど魔法士長が手をかざすと、ゆっくりと文字が浮き出てくる。
偽りを、言った。
神子は部屋に戻りはしなかった。雨の中、神子はうずくまっていた。そこで水晶玉に映った映像が乱れたのだ。そして何も見なくなった。
何故、と目を細める中、何も見えない画面の中、本だけが動き出した。白紙のページに文章が書き出されたのだ。
それがまた、可笑しかった。誰かと会話しているようであるのに、神子の言葉しか書き出されなかったのだ。
神子の言葉から、誰かがそこにいることは確かだった。誰かが神子と言葉を交わしていることも確かだった。なのにその相手の言葉が書き出されない。
何故だ、という疑問は、再び書き出された神子の本音に吹き飛んだ。
――神子なんて知らない!私はなずなだもの!沢野なずなだわ!
勝手に召喚して!勝手に神子にして!私が神子らしくしないと勝手に失望して!ふざけないでよ!ふざけないで!!
心臓に衝撃。重い重い衝撃。
神子が叫ぶ。
何故だ。どうしてだ。ふざけるなと叫ぶ。
その言葉の数々に、ようやく知った。神子は神子であるのではなく、神子を演じていただけなのだと。誰もが求めていた神子を演じていただけ。
…見捨てられないように。
思い出して思わず手で口を覆う。その言葉を目にした時と同じように、目はひたすら書き出される神子の叫びを追う。
神子は叫んだ。文字だけでは分からないけれど、それでも聞こえる泣き叫ぶ悲鳴。誰も聞いたことがない。誰も考えたこともない神子の悲鳴。
そうして神子が呟くように零した言葉にぞっとした。
――どうして私がここまで国のために我慢しなきゃいけないの。
ああ。
神子は。
神子は、ずっと。
ずっと、ずっと一人で。
ああ。ああ。ああ。
神子だから。そんな思い込みがどれほどのものを見過ごしてきたのか。
神子だから。そんな思い込みがどれほど神子を追い詰めてきたのか。
いつも笑っていたから忘れていた。
召喚されたばかりの頃の神子はどうだった?その神子をどんな目で見ていた?
それが、ああ、それが、神子を少女でなくしたのだ。少女を神子にしたのだ。弱音も吐かない。負の感情を押し込め、誰もが求める神子を演じさせたのだ。
おじいちゃん、と孫が呼ぶ顔が浮かぶ。笑って、怒って、泣く孫の顔が。
同じくらいの年の神子の姿を並べてみて、愕然とする。違うのだ。表情が違う。同じような感情を浮かべていても、それでも違う。神子はどこか…儚い。どこか諦めたような、そんな色が見えた。
本は語る。
神子が泣く声を。
叫び、泣く声を。
そこにいたのは誰だろう。
神子が本音を吐き出し、大声で泣くことを許せた誰かは一体誰だろう。
どうあっても知らねばならない。それが与えられた役目だ。なのに…。
口を覆っていた手を目に。
目が熱かった。涙は零れなかったけれど、震える体を止めることはできなかった。
手が無意識に、神子の本音を写した本をぱたん、と閉じた。