転生したら自分が誰だか分からない件
肉体と精神って完全に分けて考えることができるのだろうか。
例えば、ある時、自分が別の存在に生まれ変わったとする。いわゆる異世界転生的な話。別に異世界に行かなくても現実で姿が変わるっていうのでも良いんだけれども。その時、果たして自分が自分であると認識できるのだろうか。Aという少年が外観の違うBという少年に生まれ変わったとしたら、自分がAであると確信を持って言えるのだろうか。これが、人間ではない存在だったり、果ては無機物だったりしたらどうなるか。見た目も声も違う、人間ですらない、生き物ですらない。体の作りも、手足の動かし方も何もかもが元の自分とは違う。そんな状況で確固たる自己認識を持てる人がいるとしたらよほど強固な自己を持っていると言えるだろう。少なくとも私にはそんな自信はないが。
異世界転生的な話にちょっと引いてしまうのは上記のような疑問がどうしても拭えないからなのである。自分の体ごと異世界に行く、異世界転移系ならあまり抵抗はないのだが、転生はどうしてもしっくりこない。価値観も風土も異なる異世界で無双するというも、変な話ではあるが、自我の問題に比べれば瑣末な問題だと思う。大人が子供になったり、人間が別の生物になったりして、それをすぐに異世界転生したんだと納得するメンタルというのが理解の外なのだ。
なぜそのような態度を取ることが出来るのか。思うに、そういった人物というのは、肉体と精神を完全に別のものとして捉えているのではないか。SFなんかでよく聞くセリフ、「肉体は精神の器に過ぎない」っていう理屈を受け入れて、信じている人なのだろうと捉えると、少し合点がいく。
肉体と精神の二元論に立てば、どんなものに生まれ変わろうと、精神が同じであれば、自分は自分だと考えても不自然ではないというわけ。ただ、そういう二元論的な考え方ってどうも嫌な感じがするのだ。この問題は昔から多くの人が議論していることだし、結論は出ていない問題だと思うので、あくまで自分の考え方、感じ方でしかないのだけれど、例えば、肉体は自分のパーツでしかないのだから、肉体の一部をもっと優れた性能のパーツに入れ替えたとしたら、それは以前の自分とは違うものになっているのではないか。
精神っていうのは肉体に引っ張られるんじゃないか。人間の精神というのは、肉体の活動を通じて形成されていく側面があるのではないか。精神を形成する肉体が入れ替わるということは、精神の基盤が揺らぐということであり、自己認識の土台が崩れるということを意味すると感じる。
飛躍した話かもしれないけれど、肉体と精神は別という考え方が社会に徹底されたとしたら、人身売買がより一層横行するのではないかという危機感がある。人々が自分の手足を高額な報酬と引き換えに、自ら望んで売りに出すということが一般化するのではないか。肉体をパーツと捉えることで、肉体を切り売りすることの精神的抵抗が弱まる事になる。社会にそういった機運が醸成しているのではないかという恐怖があるのだ。
異世界転生をテーマにした、というより異世界転生を前提とした物語が狂ったように供給される昨今の情勢がある。これは人間の尊厳が崩壊する時代の兆しではないかと考えてしまうのだ。取り越し苦労であれば良いのだけれど、物語、フィクションというのはその時代の現在、もしくは少し先の未来を写しているものだと考える。時代、社会と全く切り離された物語というものは、ほとんど存在しないのだから。
終わり