くりくりまるは撫でられたい
東京都清瀬市、砂川家の玄関前には、くりくりまると名付けられた一匹のメスの柴犬がいます。
お昼ご飯を食べた後のくりくりまるは、だらりと横になって暑さをしのいでいました。
夏真っ盛りの七月下旬。いくら日陰とはいえ、暑さのあまり鼻の先は乾いてしまいます。
たまに水分補給をします。人間のように手で器を持って口に運ぶことが出来ないので、舌を使って舐めるように一所懸命に水を飲みます。
「あ、くりくりまる」
そこに現れたのは、砂川家の次男、武蔵が小花さんと呼んでいる女の子でした。
インターホンを鳴らして「小花です」と言うと、門を開けてくりくりまるを撫でました。
くりくりまるは、この女の子の撫で方が好きでした。
水分補給をしたくりくりまるは、元気が戻っていたので、小花さんに飛びついて挨拶をしました。
小花さんもよしよしと、両手でほっぺを撫でます。
そんなことをしていると、玄関の扉が開きました。
「やあ、小花さん、夏休み早々、わざわざ来てくれてありがとう」
出てきたのは武蔵でした。
朝からお母さんとお父さんは仲良く買い物に出かけていたので、家にいるのは武蔵一人だったことをくりくりまるは思い出しました。
「いえ、私も観たかったし、いろいろ決めなくちゃいけないことも多かったので、電話より直接の方がいいかなって思ってましたから大丈夫です」
「それもそうだな。それじゃあどうぞ」
「はーい。おじゃまします。じゃあねくりくりまる」
小花さんはくりくりまるに手を振ります。
くりくりまるも、当然家に入れてくれると思って、ついて行きましたが、武蔵が「また後でな」と言ってドアを閉めてしまいました。
しょんぼりする、くりくりまるです。
仕方がないので、小屋に入って眠ることにしました。
四時間くらい経ったでしょうか。どんな夢を見ていたのでしょうか。
玄関の扉が開く音で、くりくりまるは目を覚ましました。
「じゃあ残りのDVD、観てくださいよ」
「わかった。時間がある時に観ておこう」
「私もCD聴きますね」
「ああ。いい曲だから聴いて損はない」
「はい、前に借りたパフィーも良かったです」
「そうだろう?」
そんな会話をしながら、武蔵と小花さんは出てきました。
「さあ、くりくりまる、散歩に行こう」
武蔵が“散歩”と言いました。
これは外に出てたくさん歩けることを意味すると、くりくりまるは知っています。
なので散歩が大好きでした。
くりくりまるは立ち上がると、首を武蔵の方に向けます。
散歩は首輪にリードと武蔵が呼ぶものを付けるのがお決まりなので、つけやすいように用意してあげます。
装着すると「カチッ」という音がします。その音が聞こえると、くりくりまるは、準備が終了したと判断し、門に向かって足早に走り出します。
でもいつも武蔵に「急ぐな、くりくりまる」と言われ、リードを引っ張られてしまいます。こればかりは学習できないくりくりまるです。
武蔵の散歩は、お父さんとお母さんのように決まったコースではなく、いつも新しい道を選んでいたのでわくわくしていましたが、ここ最近は小花さんのお家に行くコースが増えています。途中で大きな怪物みたいなものが通る公園に、寄ることもあるので刺激的です。
気が付いたらリードを小花さんが持っていました。
最初の内はぎこちなかったですが、今はもう慣れたようで、歩きやすさを感じています。
「楽しみです、新作のワイルドスピード」
「ああ、映画館は久しぶりだ」
「遅れないでくださいよ?」
「もちろん。夏期講習が終わった後すぐに行く。九日の月曜日だったよな」
「ええ、そうです。忘れないでくださいね」
「うん。わかった」
「お願いします」
小花さんが武蔵と楽しそうに話をしています。
何のことかくりくりまるにはわかりませんが、楽しそうなので安心して歩いていられます。
途中でくりくりまるは、うんちをしました。
うんちをすると、武蔵が回収をしながら「よしよし」と撫でてくれるので、良いことをしたのだなと誇らしくなります。
それに今日は小花さんもいて、武蔵と同じように「よくできたね」と言って撫でてくれました。
やはりうんちは良いことなんだなと、くりくりまるは改めて思いました。
いつもの公園にやってきました。そしていつものベンチに二人が座ります。
「それにしても本当についてくるのか?」
「ええ、そのつもりですけれど? 嫌ですか?」
「別に嫌ではない。いてくれたら楽しいとは思う」
「じゃあいいじゃないですか。楽しみだなぁ、山梨日帰り旅行」
「それならいいが……。ところで、小花さん、一つお願いがあるんだけれど」
「どうしました?」
「写真部の三年生の先輩が、僕の写真を見て、風景はよく撮れているといってくれたんだ」
「よかったじゃないですか」
「ああ、でも、次は人物を撮る練習をした方がいいというアドバイスもくれた」
「なるほど。それで」
「それで、小花さん、お願いがある。ぜひ小花さ――」
武蔵が話してい最中、公園の後ろを怪物みたいなものが通り始めました。
ごおごおと大きな音を立てて威嚇してくるので、武蔵と小花さんを守らなければと、くりくりまるは吠えて対抗します。
しばらくすると、怪物みたいなものが消えました。
それを確認すると、くりくりまるは安心して、ぺたりと地面に座り込みます。
「嫌です」
武蔵が会話を再開する前に小花さんが言いました。
「まだ何も言っていない」
「でもわかります。私を撮るって言うんじゃないですか?」
「よくわかったな。そうだ、やってくれないか?」
「嫌です。恥ずかしいですよ」
「うん。それもそうだろう。だからもちろん顔は映さない。誰かわからないようにするし、小花さんにチェックしてもらって、許可してくれたものだけ部活で使う。そして、それ以外は消去する。お願いできないかな?」
「えーでも……」
「ワイルドスピードを観に行くし、山梨にも来るんだろう?」
「ずるいですよ。もう、わかりました。引き受けますよ」
小花さんが膝に肘をついて、頬を両手で包みました。
二人が少し動いたので、散歩の再開かとくりくりまるは思い立ち上がりました、そうではなさそうだったので、もう一度座りなおします。
「ありがとう」
「で、どうすればいいですか?」
「僕は、江戸東京たてもの園で、レトロな街並みと小花さんを写真に収めたい、と考えている」
「あ、小さい頃行ったことがあります」
「うん。あそこで写真を撮りたい。日程はまた調整しよう」
「わかりました」
ここで会話が終了したようです。
武蔵と小花さんが立ち上がりました。今度こそ散歩の再開です。
夕方だというのに夏のコンクリートは熱いです。
公園を出てしばらくしたら、くりくりまるは異変に気が付きました。
これはただ事ではなさそうです。
くりくりまるは、吠えて二人に異変を知らせます。
「こら、どうした? 落ち着きなさい」
武蔵はくりくりまるの身体を撫でて落ち着かせようとしています。
気持ちがいいので撫でられていたなと思いましたが、それよりもこの異変を伝えなければいけないと、気が付きました。
吠えるだけではうまく伝わらないと思ったくりくりまるは、強引にリードを引っ張りました。
リードを持っていたのは武蔵ではなく小花さんだったので、なんとか引っ張っていくことができました。
日陰になっていて目立たない植え込みにたどり着くと、またくりくりまるは吠えます。
植え込みに向かって吠えて、二人を見る。そしてまた植え込みに向かって吠える。それを繰り返しました。
「ん? 何かあるのか?」
「なんでしょうね? ここほれわんわん的な?」
そう言いながら二人はやっと植え込みを覗きました。
「大変だ、小花さん! 衰弱しきった猫がいるようだ!」
「え? あ、ほんとだ!」
武蔵が震えている猫を抱きかかえました。
「もしかしてこの猫、山佐さんのとこの猫じゃないか?」
「山佐さん?」
「ああ、近所の人だ。母が桜のお母さんから、山佐さんの愛猫が行方不明になったらしいと聞いたと言っていた」
「そうなんですね」
「それにそのとき聞いた特徴も一致する。間違いないだろう」
「どうします?」
「動物病院に行こうと思う。小花さんは遅くなるから帰っても構わない」
「いえ、私も行きます」
これから動物病院に行くことになりました。
“動物病院”は痛いことをされる場所だということをくりくりまるは知っています。
定期的に何かを刺されるので、嫌だと思っていたのです。
でも行くしかなさそうなので、仕方なく歩き出します。気が重いくりくりまるです。
動物病院に着くと、武蔵が猫を抱いたまま入っていきました。
くりくりまるは小花さんと二人で外で待ちます。
中に入らなくてよかったので、くりくりまるは安心しました。
しかし小花さんの表情は不安そうです。
勇気づけようと思ったくりくりまるは、小花さんの足にすり寄りました。
小花さんはしゃがんで、撫でてくれます。
「大丈夫かなぁ……」
小花さんが小さく不安そうな声で言いました。
くりくりまるは小花さんの手を舐めて、慰めていました。
しばらくすると、武蔵が出てきました。猫は抱えていません。
「どうでした?」
「大丈夫だ。命は問題ない」
「よかったです」
「山佐さんにも連絡を入れた。すぐに家を出ると言っていたから、しばらくしたら来るだろう」
そう言うと、武蔵はしゃがんで、くりくりまるを抱えました。
「でかしたな、くりくりまる」
「うん、えらいえらい」
小花さんも何度も撫でてくれました。
少しすると、あわただしく一台の車が動物病院の駐車場に入ってきました。
「武蔵君!」
急いで駐車した車の中から出てきた人が大きい声で言いました。
くりくりまるはこの人が山佐さんだということを思い出しました。
お母さんが散歩のときにたまに立ち話をして、この人を山佐さんと呼んでいたからです。
それにこの香りは、山佐さん特有のものです。
「うちのしょうゆちゃんは!?」
「大丈夫です。中で安静にしていますよ」
「ありがとう!」
そう言うと、山佐さんはばたばたと動物病院の中に入っていきました。
「あの子、しょうゆって名前だったんですね」
「ああ、山佐さんはもう一匹、ぽんずという名前の猫も飼っている」
「そうなんですね」
「ああ」
しばらく沈黙がありました。
「武蔵君、本当にありがとう」
山佐さんが動物病院から出てきて、武蔵に言いました。
「いえ、見つけたのはくりくりまるです」
「ありがとうね、くりくりまるちゃん」
山佐さんがそう言って撫でてくれました。
「あとは大丈夫。今度、武蔵君とくりくりまるちゃん、そして彼女さんにちゃんとお礼するわね」
何度も頭を下げて山佐さんはまた動物病院に入っていきました。
「いや、私は……」
小花さんが頭をぽりぽり掻いていました。
くりくりまるはどうしていいかわからなかったので、山佐さん特有のだしの香りを楽しんでいました。
「さて、帰ろうか」
「そ、そうですね」
「遅くなって申し訳ない」
「いえ、緊急事態でしたから」
再び歩き出します。
いつもより、遅い時間になったので、もう空が暗いです。
小花さんの住むマンションの前にたどり着きました。
「今日はありがとう」
「いえ、映画と旅行、楽しみにしています」
「あと、写真だな」
「それは。そうですね。じゃあ一応楽しみにしておきます」
そして小花さんはしゃがむと、「今日は偉かったね。見直したよ」と言って、もう一度くりくりまるをぐしゃぐしゃに撫でました。
「それじゃあ、気を付けて帰ってくださいね」
「ああ、それじゃあまた連絡する」
「はーい」
そう言って小花さんは手を振りました。
小花さんがオートロックの自動ドアを抜けて角を曲がるとき、もう一度こっちに向かって手を振ってくれたので、くりくりまるは鼻を掻くように前足を上げました。
「さて、帰るか。くりくりまる」
小花さんの姿が見えなくなったのを確認すると、武蔵は言いました。
くりくりまるは答えるように武蔵を見ました。
武蔵の家族はそれぞれ散歩コースが違うけれど、くりくりまるの好きなコースは武蔵と小花さんがそろっていればどこを通っても楽しいと感じていました。
それとは反対に、小花さんと別れたあとのお家に帰るコースが一番さみしく感じるます。だからまた会ったときはうれしくて飛びついてしまいます。
くりくりまるは、二人のことをよく知っています。何を話しているのかはさっぱりわかりませんが、二人は仲良しだということだけは確信していました。
きっとこの先も二人と歩ける日が続くのだろうと、いつも一緒に歩きながら思っているのでした。