台桜は一緒にいたい
中学三年生の夏休みは、今までの夏休みとは全然違った。
高校受験という人生の岐路に立たされている。この夏休みの過ごし方次第で、今後の人生が大きく変わってしまうと言っても過言ではない。
私も他の受験生と同じように、塾で夏期講習を受けることになった。
むーちゃんがお母さんに余計なことを言って、夏期講習の話が進んだのだけれど、今思えば、それは正しい選択だと思っている。
でも夏期講習を受けて、自分の学力に気が付き、少しショックを受けた。
今までむーちゃんに一か月ちょっと勉強を教えてもらっていたから、基礎は出来ているし、勉強そのものに抵抗も苦手意識もない。
だけれど、志望校の合格は確実とは言えない状況だった。
もともとは勉強が嫌いだったし、成績もそんなに良くはなかった。だからむーちゃんが教えてくれたからといって、劇的な学力アップは期待していなかった。とはいえ、ショックはショックだ。
私の志望校はもちろん、小平中央高校。むーちゃんのいる高校だ。
来年になったら、むーちゃんは三年生だから、一年しか一緒にいられないけれど、あこがれの人と同じ学校に通いたいという気持ちは、抑えられない。
ネックなのは小花さんという先輩もいるということだ。
むーちゃんと仲がよさそうだし、よく一緒にいるっぽい。これは困った。
ただ、これは妄想に過ぎない。結局、小平中央高校に入学できなければ意味のない妄想だ。
私がしなくちゃいけないことは、小平中央高校に入学できるように勉強して、合格を勝ち取るということ。
そう思い直し、机に広げた問題用紙に取り掛かった。
□◇■◆
夏休みになってすぐの八月二日の月曜日から二週間の夏期講習が始まった。しかしそれも先週の金曜日でいったん終了。今週は丸々塾には行かない。
だけれど、勉強はしなくちゃいけない。それが受験生というものだ。
塾は塾で勉強をする雰囲気があったので、それなりに集中して勉強していたけれど、家だとやはり集中力は落ちてしまう。
むーちゃんからメソッドを伝授されていたけれど、夏期講習が終わっても、ちゃんとできるだろうかという不安はあった。だって夏休みだし。
そんなことを考えていたのを知ってか知らずか、夏期講習が終わったその日に、お母さんがうれしいサプライズを用意していてくれた。
むーちゃんが教えに来てくれると言うのだ。
その時は「ふーん、砂川先輩来るんだね」くらいのリアクションしかしなかったけれど、本当は、待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。
むーちゃんも自分の勉強や予定があるから、一緒にいられるのは一日だけしかないけれど、うれしいことには変わりはない。
その待ち遠しい八月十六日が今日なのだ。
昨日の夜はすぐには寝付けなかったけれど、朝の目覚めは悪く無かった。
部屋の片付けも済んでいる。
あとはむーちゃんを待つだけ――。
ピンポンと下のから呼び出しベルの鳴る音がした。
「はーい」
急いで部屋を出ると、階段を駆け下りる。
私より先にお母さんが対応していた。
お母さんごしにインターホンのモニターに映ったむーちゃんの姿を確認すると、画面が切れた。
少しすると、ドアが開いた。
「おじゃまします」
むーちゃんが登場した。
「忙しいのに悪いわね」
「いえいえ、桜さんの進み具合も気になりましたから」
むーちゃんがお母さんに答える。
「来てくれてありがとぉ」
「全然問題ない」
脱いだ靴を綺麗にそろえながらむーちゃんは言う。
そして階段を上がって私の部屋に向かった。
「さて、模擬問題を作ってきた。早速解いてもらおうか」
むーちゃんは鞄からがさがさとプリントを出した。
「え、早くなぁい?」
「ゆっくり鞄から出したつもりだけれど」
「そのスピードじゃぁないよぉ。勉強を始める時間のことぉ」
鞄からの出し方なんて、よほどのことがない限り、指摘しないよ。
「そうか? だって僕は、桜のお母さんから勉強を見てほしいと頼まれてきている。だから早くはない」
「でもぉ、久しぶりに会ったんだからぁ、近況報告とかしたいじゃぁん」
少し雑談ぐらいしたい。というより、私としてはそっちをメインと考えている。
「なるほど、それもそうだな。桜は何かあったか?」
「え? 塾に行ってたくらいかなぁ」
「近況も何もないじゃないか」
むーちゃんは表情を変えずに言った。
「私はいいのぉ! むーちゃんはなにかなかったのぉ?」
「そうだな、近況報告ではないけれど、明日カメラ練習で江戸東京たてもの園に行ってくる」
むーちゃんの趣味はカメラだ。それは前に聞いた。たしか部活も写真部だったと思う。私もむーちゃんのいる写真部に入りたい。
「いいなぁ知ってるよぉ。昔の建物があるところだよねぇ」
「そう。いいところだよな」
「うん。今度連れて行ってよぉ」
「受験に合格したらな」
「絶対に合格するぅ」
俄然やる気が出てくる。目標を持つのって大事だ。
「あと、これがある」
そう言ってむーちゃんはまた鞄をがさがさ探り出した。
「ほら、お土産だ」
手には見たことのない味のポテトチップスを持っていた。
「ありがとぉ。どうしたの、これ?」
「ほうとう味のポテトチップスだ。週末、生まれ故郷の山梨に行ってきた」
「へぇ。むーちゃんって山梨生まれなんだぁ」
二年前にこっちに引っ越してきたことは知っていたけれど、山梨生まれということは知らなかった。
「ああ、生まれてから中学校に上がるまでは山梨だった」
「そうなんだぁ」
私がそう答えたら部屋のドアがいて、お母さんが入ってきた。
「ノックしてよぉ」
「あーはいはい。ごめんね。武蔵君、これよかったら食べて」
私のことはお構いなしに、むーちゃんに買っておいた鈴カステラをドリンクと一緒にローテブルに並べた。
「お気遣いなく。あ、そうだお土産です」
むーちゃんがまた鞄から、今度はお菓子じゃなさそうなものを出した。
「あら、ほうとう? あ、たしか山梨で生まれだったわよね」
「はい。久しぶりに帰省してみました」
お母さんは知っていたのか。むーちゃんのお母さんと話でもして知りえたのだろうか。
そして少し談笑してからリビングへ戻っていった。
一応もう一度お母さんに「入ってくるときはノックをして」と言ったけれど、伝わったかはわからない。
「さて、そろそろ勉強を始めようか」
「はぁい」
さすがにもう始めないとお母さんに怒られる。
それに、むーちゃんが用意してくれたわけだし、やらないというのも失礼だ。
私はクルトガを握って、勉強机に向かった。
□◇■◆
キーンコーンカーンコーン
むーちゃんのスマホのチャイムのアラームが鳴った。
「よし七十五分経った。休みを入れよう」
「ふぅ。疲れたぁ」
「ああ、おつかれ。採点するから休んでなさい」
「はぁい」
むーちゃんは私の解答用紙を持ってローテーブルで採点を始めた。
さっきまで自分の勉強をしていたのだろう。参考書やらノートやらが端に追いやられていた。
むーちゃんのシャーペンは大きい。ドクターグリップというらしい。それも転がっていた。
採点は先生が使っているような赤いペンだった。
休んでいろと言われたけれど、私はむーちゃんの隣に座って採点を見ていた。
「うん。よくなっているな」
「むーちゃんのおかげ」
「いや、塾の先生のおかげだ」
「ちがぁう。むーちゃんが基礎を教えてくれたからぁ」
「そうか? それならよかった」
そう言って、むーちゃんは鈴カステラを口に運んだ。私もつられて食べる。
口の中の水分が一滴残らず吸収されたので、急いでお茶を飲む。
もちろん、むーちゃんもそうしていた。いくら頭が良くても、鈴カステラの水分吸収率は計算外だったのかもしれない。
「よし、それじゃあ苦手なところがわかった。ここはこうして――」
むーちゃんの口の中に潤いが戻ったと同時に、まるで水を得た魚のように生き生きと解説を始めた。
「まってぇ。もう休憩おわりぃ?」
「ああ、そうだった。悪い」
忘れていたようだ。やはり勉強のことになるとむーちゃんは周りが見えなくなる。どんだけ勉強が好きなんだよ。勉強できることは尊敬できるけれど、そこまでにはなりたくない。
「うん。でさぁ。今週末の日曜日なんだけどぉ、清瀬のお祭りに一緒に行かなぁい?」
今週末の土日は清瀬市のお祭りがある。その二日目の日曜日、二十二日は花火が上がる。これにむーちゃんと一緒に行きたい。
私たちは同じ清瀬市民、そのお祭りに誘うだけなのに、すごく緊張する。
「勉強はいいのか?」
「その日だけはいいってぇ、お母さんから許しはもらってるぅ」
なんだかんだ言って優しいお母さんだ。夏休みの一日くらいは楽しんできなさいと言ってくれた。
「そうか。でも申し訳ない。もう予約があるんだ」
「え?」
もちろん断られることも想定していた。でもむーちゃんってそういうの見に行くような感じはしていなかった。
もしかして小花先輩だろうか。あの二人、なんだかいい感じだったし。
「そ、そっかぁ。残念だなぁ」
「申し訳ない。せっかく誘ってくれたのに」
「いやぁ。大丈夫だよぉ。それだったらぁ、友達と行くしぃ」
「そうなのか。それはよかった」
「う、うん。ってかむーちゃんは誰と行くの?」
もう気になってしょうがない。聞くしかない。
「同級生だ。同じ学校なんだけれど、夏期講習が一緒でそういう話になった」
「そ、そぉなんだぁ」
よかったー! 小花先輩じゃなかったー!
「ああ、流れでそうなった。って桜、もう再開の時間だ」
「あ、はぁい」
再びむーちゃんメソッドが始まった。
□◇■◆
「武蔵君、夕飯食べてって」
ノックをせずにお母さんが入ってきた。
集中していたので、身体はビクッと跳ね上がってしまった。
もう何回目だよ。
むーちゃんもとっさに警戒するようにドアの方向を見ていた。
「だからぁ、ノックしてって言ってんじゃぁん」
「あーはいはい。ごめんね。それで夕飯食べていくでしょ?」
「いえ、悪いですよ」
むーちゃんが断る。
「いいのいいの。砂川さんには私から連絡しておくから」
お母さんとむーちゃんのお母さんは、ご近所づきあいで仲がいい。
あの跡地が駐車場になるらしいわよとか、前に行方不明だって話してたどこどどさんの猫ちゃんが見つかったとか、ラインでたまにやり取りしているらしい。基本的にはうちのお母さんが教えてるっぽいけれど。どうやってその情報を仕入れているのだろうか。
ってそんなことはどうでもいい。
「そぉそぉ。食べていきなよぉ」
少しでもむーちゃんには長くいてほしい。ここは一旦ノックのことは棚に置いておいて、お母さんに加勢する。
「そうですか。はい。それじゃあいただきます」
「よし。それじゃあ、張り切って作るわね」
そう言ってお母さんは出て行った。
むーちゃんと一緒にもう少し過ごせると思ったら、お母さんにノックのことを伝えるのを忘れてしまった。
でもまあいい。お母さんのナイスな提案によってもたらされたことだ。感謝しよう。
「さて、続きを始めよう」
「はぁい」
今日は楽しく勉強ができている、と実感している。
□◇■◆
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
むーちゃんは箸をきれいに並べて、手を合わせて言った。
「それはよかった」
お母さんが食器を片付けていく。
そして食後のお茶をもってきた。
「武蔵君、最近女の子と帰ってるけど、彼女?」
ニヤニヤしながらお母さんはお茶を置いた。
なんでそんなこと聞くのだろうか。
「小花さんのことでしょうか? 僕の大切な人です」
「いやあ、いいわね」
「はあ」
むーちゃんは困ったような返事をした。
でも私の方がそんな表情をしていたかもしれない。
そんなこと今言わなくてもいいじゃないか。これはお母さんに対しても、むーちゃんに対しても。
大切な人がどんな意味を指すのかはわからない。
もしかしたら私も同じかもしれない。
でもなんとなくそうじゃない気がする。
そうじゃなくて、もっといろいろな含みのある、大切、という意味。
「それじゃあ、僕はこの辺で」
お茶を飲み干したむーちゃんが立ち上がって言った。
「武蔵君、今日もありがとう。これ、受け取ってくれ。授業料だ」
お父さんが、封筒を差し出す。
「え? あ、いや、今日は夕飯までごちそうになりましたので……」
「それとこれとは別だ。ただ働きさせるわけにはいかない」
「そうですか。それなら遠慮なく」
「ああ、デートに使ってくれ」
お父さんはそう言って「がはは」と笑って、ソファに座った。
「それじゃあ、近所とは言え気を付けて帰ってね」
「はい。美味しいご飯をごちそうさまでした」
「いえいえ、それじゃあまたね、ってほら桜も挨拶しなさい」
「あ、ありがとぉ。またねぇ」
「ああ。勉強頑張るんだぞ」
そう言ってむーちゃんはお家に帰っていった。
私はリビングには戻らずに、そのまま自分の部屋に向かった。そしてベッドにダイブした。
楽しい夕食だったのにお母さんたちのせいで、なんだか悲しい気持ちになった。
しょうがない。小花さんはむーちゃんと同じ学校なんだから、一緒に帰ることだってあるだろう。
だったら私も同じ学校に入ればいい。そう。そうすれば一緒に下校できるチャンスは巡ってくる。
そう思ったらのんびりなんてしていられない。今すぐ勉強だ。
ベッドから起き上がると、机に向かった。
まだ午後七時。お風呂に入ったりいろいろしても数時間は勉強できる。
この悔しさ、悲しさは全部勉強にぶつけてやる。
さっき苦手な部分は把握できた。そこから潰していこう。
私の今後の目標がこの夏、固まった。