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桜、散る

「翔太、ご飯、食べられる?」

「……いい」

 既に春休みも終わり、世間では新学期が始まっていた。テレビに流れるワイドショーの生中継には満開の桜が咲き誇り、途切れる事の無い人波は笑顔で溢れている。ふと、目を反らせば、眩しい日差しがレースのカーテンを輝かせ、寝転ぶソファを優しく暖めていた。何の刺激も無い、いつもの日常が、いつも通りに。

「そう。それじゃお母さん、仕事に行ってくるけど、一人で大丈夫?」

「……うん」

「……、……行ってきます」

「……うん」


 あれから、心にぽっかりと穴が空いたように何も考えられなくなっていた。始業式にも出なかったし、二年生になってから一度も登校していない。毎日毎日、絵美葉は迎えに来てくれるけど、あの日以来、一度も顔を合わせてない。

 でも、別に、引き籠もっている訳じゃ無い。身体が動かない訳でも無い。人に会いたくない訳でも無い。

 ただ、何も考えられなかった。今、どうすれば良いかが分からない。これから、どうしたら良いのかが分からない。まるで、一時停止ボタンを押したまま何かが壊れたように、延々と同じ光景が目に映っているような世界。

「……なつみ」

 その言葉を唱える度に、彼女の笑顔が一瞬だけフラッシュバックする。

「……なつみ」

 でも、その一瞬が記憶に残る事は無く、同じ景色は何度も繰り返す。

「……なつみ」

 何度も、何度も、何度も、何度も。

「……なつみ」

 何度繰り返しても、何度呟いても、何も変わらない。重力に逆らえず落ちていく視線は、いつもの同じ場所を見続ける。そう、どうせ何も変わらない。例え、俺が、このまま死んでいったとしても。

「……お兄ちゃん」

 突然の声に背筋が凍り付く。慌ててソファから飛び起きると、リビングの扉の前には制服姿の絵美葉がぽつんと立っていた。

「……絵美……葉? 何で……?」

 まだ、昼、だよな? 学校行ったんじゃなかったのか? それより、家の鍵は?

「……お昼休みだったんだけど、ちょっと出てきちゃった。こんな良い天気なのに、家で寝てるなんて勿体ないじゃん? だから、今からでも、……学校、行かない?」

「別に、今更行ったって……」

 こんな時間に行っても、学校に着く頃には五時限目が終わる頃。そんなの――

「いいじゃん、気晴らし気晴らし。どうせ授業中も寝てるんだし、大して変わんないもん。ほら、起きた起きたっ」

 彼女はソファに沈んでいた俺の重い身体を引っ張り上げ、そのまま部屋までの階段を上がって行く。下から見上げるその顔は、まるで今までと何も変わらない、いつもと同じ笑顔のように思えた。

「着替えぐらいは自分でがんばろー。じゃ、外で待ってるからねー」

 そう言って俺を部屋の中に押し込め、彼女は静かに部屋の扉を閉めた。


 ――――。


 壁に掛けられたまま、うっすらと埃を被る制服を見ていると、何だか学校に通っていたのがとても遠い昔の事のように思える。でも、あれからもう二ヶ月も経つというのに、あの冷たい顔や白い灰の海は、残酷な程に鮮明な記憶として、俺の瞳の中に溢れかえっていた。きっと、これから何があっても、同じようにこの映像を見続けるのだろう。ずっと、何度も。何度も。

 そんな事を考えていると、部屋の扉を叩く音が響いてきた。

「早くしないと絵美が着替えさせるよー?」

「分かったよ……」

 埃だらけの制服に手を掛ける。重い、重い、制服の袖に、ゆっくりと腕を通す。傷口に張り付いた包帯を剥がすかのように、静かに、ゆっくりと。

「制服って、こんなに重かったっけ……」

 少しずつ過去を思い出す度、何故かじくじくとした痛みが全身に広がっていくような錯覚を覚える。覆われていた無数の傷口が、かさつく空気に蝕まれるように。


「俺は……、どうして……」

 俺は、何でこんな事をしているんだろう。


 ――――。


「桜、もう全部散っちゃったねー。一昨日までは、ぶわーって花びら凄かったんだよ?」

「さっき、テレビじゃ咲いてたのに……」

「それ、北の方なんじゃないかなぁ? 桜前線っていうのがあるんだって言ってたよ? 南の方から北の方へスイーって動いていって、桜を咲かせてるんだって」

「へー」

 そうか、テレビの話なんて何も聞いてなかった。あれはどこかの観光地だったのか。

「あ、そうだ、お兄ちゃんまだクラス替えの話って聞いてないよね? 実は又、絵美と一緒のクラスなんだよ? えへへー」

「へー」

 どうして、そこになつみの名前が無いんだろう? そんな事がふと頭に浮かんだ瞬間、何故か足が重くなった。散歩するように遅かった歩みはさらに重くなり、気が付けば、老人のように足を引きずりながら歩いていた。

「あ、そうそう、翔子ちゃん達、航空技研に入ったって言ってた。関谷先輩、賑やかすぎて疲れるって――」

「へー」

 どうして? どうして、そこになつみが居ない? 俺は、何でここに居る?


 キーン、コーン、カーン、コーン――


 いつの間にここまで歩いてきていたのだろうか? 校門に足を踏み入れた瞬間、懐かしいチャイムが辺りに響き渡った。

「あー、六時限目も終わっちゃったね。でもま、いっか。どうせ授業つまんないし」

 授業をサボったはずなのに、少しも悪びれる様子は無く、彼女は俺の一歩先を歩いて行く。

「教室行こ。お兄ちゃんの机の場所、教えてあげるね」

「……」

 ふと目に入る、小さく丸まった背中。そう言えば、彼女の背中って、こんなに小さかったっけ? ……いや、そんな事は無い。いつもいつも、弾けるように歩く眩しい姿しか、俺は、知らない。そうだ、こんなの……、絵美葉じゃ、……ない。


「ここだよ、二年二組。で、あそこの一番後ろの席がお兄ちゃんで、その隣が絵美の机。良いでしょ? 絵美、くじ引き頑張って取ったんだ」

 初めて見る教室に一歩足を踏み入れると、部屋に残っていた生徒がざわつき始める。その顔ぶれには、初めて見る顔と懐かしい顔が入り交じっていて。

「あ、お、おぉ、長谷川じゃん、久しぶり」

 愛想笑いのようにも見える口角が引きつった笑顔で、彼ら、彼女らは俺を迎え入れてくれた。でも、その視線は、腫れ物にでも触るかのように宙を漂っている。きっと、……きっと、面倒な奴が来たとでも思っているのだろう。そんな彼ら彼女らは、口々に俺を慰め始めた。

「何か、その、大変だったな。身体の方は大丈夫か?」

「長谷川君、もう大丈夫なの? あ、その、色々と」

「えと、辛いと思うけど、私達も頑張るからさ、一緒に頑張っていこうよっ」

「……」

 ……大丈夫? 辛い? 何が? 何が大丈夫なのさ? 何が辛いんだよ? 何を頑張るんだよ? 何も知らないくせに、……何も、何も知らないくせに。何も、何も、何もっ!

「何だよそれ? 何なんだよっ! 俺の事なんか何も知らないくせにっ! お前らに……お前らなんかに……一体俺達の何が分かるってんだよっ!」

 何故か、酷く腹立たしかった。俺の中のなつみを、好き勝手に弄ばれているような気がして。そして、なつみの存在を、……無かった事にしようとしているような気がして。

「俺とっ、なつみはっ、くっ、こんなの、っぐ!?」

 ほんのついさっきまで、毎日毎日、何も考えられずに過ごしてきたというのに、何故か突然、訳の分からない感情の塊が恐ろしい勢いで胸の奥から噴き出してきた。哀しみ? 怒り? 後悔? 何が何だか分からない。

「なつみはぁっ!」

 何を言いたいのかも分からない。何を伝えたいのかも分からない。ただただ、涙だけが頬を流れ落ちていく。言葉では何も伝えられないのに、その雫だけが、俺の中の感情を表わしていた。

「お、俺がぁっ!」

「ゴメンゴメンっ」

 そんな俺を見かねたのか、絵美葉は俺と皆の間に割って入ってくる。

「みんな、ゴメンね、お兄ちゃん、まだちょっと本調子じゃなくってさ」

 顔を見せないように俯いたまま、彼女は皆から遠ざけるように、俺を教室の奥へと追いやろうとする。下を向いたまま、両手で俺を包み込むように。

「皆は心配してるんだよって、ちゃんと言っておくから。だから……、だから、今日の所は、ごめんね」

「お、俺はっ――」

 発しようとする言葉の意味すら分からぬまま、溢れる感情のまま、ただ闇雲に汚い罵声を浴びせようとしたその瞬間、彼女は突然、背筋が凍るような金切り声を張り上げた。

「だからっ! ごめんっ! みんな先帰って――っ!」

「……絵美……葉……?」

「お願い、だから……」


 ――――。


 しんと静まりかえる教室から、一人、又一人と、無言で人が消えていく。カチャカチャ、ガサガサという音だけが広がる世界。遠く響く掛け声や、ボールが弾ける音は、何かのベールに遮られ、この教室だけが静かに隔離されてゆく。俺と、絵美葉の、二人だけの為に。


「……分かる、分かるよ。絵美は皆と違って、お兄ちゃんと、なっちゃんと、ずっと一緒に居たから」

 俯いたままの彼女から放たれる、その懐かしい名前が耳に届いた瞬間、涙は勢いを増して落ちてゆく。みぞおちの奥から込み上げる嗚咽は、何の抵抗もなく口から溢れ始める。

「ひっ……、はぐっ……」

「辛いんだよね。苦しいんだよね。……哀しいん……だよね。……でも、……でもね」

 そう言うと、彼女は身体を強ばらせ、小刻みに震え始めた。時折大きくひくつきながら、静かに何かを堪え、何かに抗う。それは、とても辛そうで、苦しそうで、……哀しそうで。

「……絵美……葉?」

「くっ、んっ、っ! うわああああああぁぁぁ――」


 彼女は突然叫び出す。何かを吐き出すように。何かを……引き剥がすかのように。


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