表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
89/101

祈りが届く場所は

「なつみ!? おいっ! おいってば!」

 無我夢中で身体を揺り動かす。しかし、彼女に変化が起る事はなかった。

「おいっ! おいってばっ!?」

 焦点も合わずに空を見つめ続ける虚ろな目、力なく開かれたままの口、だらんと垂れる腕や足。気が付けば、呼吸すらしていないように思える胸元に絶句する。

「……な? ……何?」

 いくら問いかけても、何も変わらない。冷たい地面に横たわる、いつも見慣れた幼馴染みの姿。それは、現実では無く、夢のようにしか思えなかった。

「……な、なつみ?」

 少しずつ白んでいく肌、何かが彼女の身体から抜けていくような、不思議な感覚。今まで経験した事のない何かが、目の前で起こっていた。

「き……、救急……車……?」

 そんな夢のようにぼやけた視界の中、俺は、残る全ての冷静さを掻き集め、何かをしようともがき続けていた。

「け、携帯……。な、何だっけ?」

 何をしているのかも良く分からないが、何かをしようと無意識に指が動く。


『――はい、消防です。火事ですか? 救急ですか?』

「か、火事? え?……」

『救急ですね、場所はどこですか?』

「え? ば、場所? あ、その、えと、な、何? こ、公園……、ほ、星見の丘?」

『星見の丘公園ですね。どうしましたか?』

「ど、どうって、た、倒れて……、い、息してないみたいで――」

 矢継ぎ早に投げかけられる質問に、意味も良く分からないまま返事をし続けた。正直、一つ前の質問に何を言ったかすら覚えていない。でも、この言葉だけは耳から離れなかった。

『今、救急車が向かっていますので、その間、今言った通りに心臓マッサージを続けていてください。もし可能なら、三十回に二回、鼻を摘まんで口から息を吹き込んで――』


 ……心臓マッサージ? 何? なつみが、……死んだ?

「な……、なつみ? なぁ、起きろって。こんな所で寝たら風邪引くからさ」

 俺は、彼女の頬をぺちぺちと叩き続ける。小さい頃、遊び疲れて廊下で寝ていた彼女を思い出しながら。

「そう言えば、ちょっと遊ぶとすぐに寝てたよなー。いっつも昼寝ばっかして……」

 そんな思い出に浸っていると、不意に知らない誰かの声が耳に響く。

『――もしもしっ!? もしもしっ!? しっかりしてくださいっ!』

 気が付けば、いつの間にか地面に落ちていた携帯から、叫び声がしていた。それは、今の俺を現実へ引き戻す、唯一の糸。

『お友達を助けられるのは、あなただけなんですよっ!』

 その一言がきっかけになったのか、ぼやけていた視界が少しだけクリアになった。そして、目に飛び込んできたのは、懐かしい幼顔ではなく、時間が止まったように固まったままの、冷たい、瞳。

「……心臓……マッサージ、……しなきゃ」


 電話で言われた通り、胸の中心を手の付け根で圧迫する。テンポ良く、体重をかけて。

「ふっ、ふっ、ふっ、ふっ……」

 ブラジャーの飾りか何かだろうか? 圧迫する手に何かが食い込む。

「三十っ! 鼻を摘まんで――」

 彼女の小さな顎を手にすると、ふと目に入る、半開きになった薄紫色の唇。いつも楽しそうに笑っていたその唇を前にすると、何故か突然、涙が込み上げてきた。

 ……こんなのが初めてだなんて、いくら何でも、……あんまりだろう?

「なつみぃっ! 早く起きろよぉっ!」


 でも、自分の涙で濡れていく彼女の顔は、いつになっても変わる事は無かった。

 それから救急車が到着するまで、俺は言われた通りに繰り返した。三十回の心臓マッサージに、二回の人工呼吸。何度も何度も、何度も何度も。

 心配そうな救急隊員に制止されるまで、機械のように何度も何度も、何度も同じ事を繰り返し続けていた。


 ――――。


「翔君っ!」

 救急車で運ばれた病院の受付でボーッとしていると、聞き慣れた声が耳に入ってくる。

「なつみママ……」

「なつみは!? どうなってるの? 大丈夫なの?」

 汗で額に髪が張り付く程に、全力でここまで走ってきたのだろう。いつもの明るい顔からは想像も出来ない、不安と心配で泣き出しそうな、そんな表情だった。

「今は落ち着いてるみたいです。意識は戻ってないみたいなんですけど、何か、これから色々検査するって言ってました」

「そう、良かったぁ」

 なつみのお母さんは気が抜けたように、俺が座るベンチシートの隣へ崩れ落ちてきた。

「ありがとね、電話で聞いたよ。ずっと心臓マッサージしててくれたんだって?」

「ちゃんと出来たかどうかは分からないけど……」

 あの時の柔らかい肌、初めて感じる胸が凹む感覚、手の平に食い込んだ痛み、そのどれもが、今もこの手に残り続けている。そして、冷たくなった、あの唇の感触も。

「そんな事ない。こうやって無事だったんだから、ちゃんと出来てたんだよ。本当にありがとね」

 そう言って、俺の背中を何度も何度もさすってくれた。それは多分、ずっと青ざめたまま、うなだれ続ける俺の事を気遣っての事なのだろう。


「あの……、なつみは病気だったんですか?」

「え? そんな、事……無いと、思うけど? 今まで具合悪そうな事なんて無かったし……。風邪ぐらいは普通に引いたりしてたけど、それ以外は別に……」

「ですよね……」

 今まで一緒に過ごしてきて、そんな素振りは一度も無かった。でも、なつみは何かを自覚していた。

『この前まで……大丈夫、だったのに』

 そう、今までに何かがあった。そうでなければ、あんな言葉は出てこない。

「でも、なつみは何か分かってたみたいです。もしかすると、前にも似たような事があったのかも」

「そう……。あの子ってば、色々自分の中に溜め込んじゃうような所があるから。……もう少し、絵美ちゃんみたいに色々口に出してくれればいいのにね」

 そう言って視線を落すその表情は、切ないような、寂しいような、悲しいような、一言では表せない何かに満ちあふれていた。


 それから暫く二人でうなだれていると、通路の奥から白衣の男性が現れた。

「えーと、広瀬なつみさんのお母さんですか?」

「あ、はい。あ、あの、なつみは?」

 男性は、矢継ぎ早に質問しようとする彼女を優しく制止し、通路の奥へと案内する。

「これから、なつみさんの現状と、検査結果の方をご説明しますので、こちらの方へどうぞ」

「は、はい。あ、翔君はここで待ってて、帰りはちゃんと送っていくから」

 そう言い残すと、二人は奥へと消えていった。それはまるで、なつみが居なくなる事を暗示するかのように思えた。こうやって、一人、取り残されてしまうのかと。

「……そんなの、絶対に嫌だ」

 でも、何故か、嫌な予感しか浮かばない。医者は大丈夫と言っているのに。


 ――――。


 それから暫くすると、なつみママは足早に戻ってきた。少し慌ただしそうな顔で。

「なつみ、何だか心臓を悪くしてたみたい。詳しい話はちょっとアレだけど、何か、肥大型心筋症って言ってたかな。とにかく、とりあえず暫く入院する事になったから、今から家に戻って入院の準備しなきゃなの」

 そう言いながら、慌ただしくバッグの中身を確認すると、手に持っていたコートを羽織る。

「さ、行こ」

 そして、左腕にバッグを提げ、右手で俺の背中を押しながら、病院の玄関口へと歩き出す。

 でも俺は、その手に従う事が出来なかった。本能のような何かが、ここから離れるなと警告し続けている。

「……お、俺、ここに居ます。なつみが起きるまで、ここで待ってます」

 俺が居たって何の役にも立たない。それどころか、ただ邪魔になるだけだって分かってる。でも、それでも、どうしても傍に居たかった。

「なつみは大丈夫だから、先生や看護婦さんもいるし、ね? それに、もうこんな時間だし、お母さんも心配してると思うから」

 彼女は、駄々を捏ねる子供をあやすように、やさしく諭そうとする。でも、そんな説得が耳に入る訳も無く。


「俺、絶対に帰りませんから」


 自分自身、どうしてこんなにも焦っているのか良く分からなかったけれど、今だけは譲れない。

 なつみの為にも――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ