Valentine's Day
『放課後、一緒に丘の上の公園まで行かない? 絵美には内緒で』
二月十四日、バレンタインの朝が明けると、携帯にはそんなメッセージが届いていた。送信時刻を見れば午前一時半。いつも寝付きの良いなつみにしては珍しく、そんな時間まで夜更かししていたらしい。
「なつみ……」
ディスプレイに映し出された彼女の名前を見る度に、頬や耳が熱を帯びていく。彼女の微笑みを思い出す度に、胸の奥が切ない痛みでいっぱいになる。ずっと傍にあった古い記憶の筈なのに、何故か今は、全てが新鮮な想いに溢れているような気がした。
――――。
「お兄ちゃん、寒いんだから早く出てきてよっ!」
朝ご飯を食べ、制服に着替え、ちょっと気まずい気持ちを抱えながら家を出ると、二人が寒そうに待っていた。絵美葉はいつも通りに、なつみはちょっと恥ずかしそうに。
「おはよ、今日も寒いな」
手を擦りながら、あくまでさり気なく、いつも通りの平静を装って声を掛ける。
「ホント寒いね、早く春になればいいのに」
なつみは微妙に視線を逸らしながら、でも、いつも通りに相槌を打つ。頬を真っ赤に染めながら。
「……寒いなら、これ、使う? あったかいよ?」
少し下を向きながら、手の中で暖めていた使い捨てカイロを、そっと差し出す彼女。
「ん、ありがと。……ほんと、あったかいな」
カイロの温もりではなく、彼女の体温を感じながら、学校へ向かって三人で歩く。
絵美葉の賑やかな世間話、それに反応して楽しそうに笑うなつみ。いつも通りの光景の筈なのに、今日は何かが違って見えた。まるで、雲一つ無い青空に包まれたゲレンデのように、目も開けられない程の何かが、そこにはあるような気がして。
……彼女はずっと、この何かを見続けていたのだろうか? 毎日毎日、こんな眩しい思いをしながら、一緒に歩いていたのだろうか?
そんな彼女の気持ちを考える度、切ない痛みは雪だるまのように大きくなっていった。
「あ、もうこんな時間じゃないっ!? 翔太、早く早く、遅刻しちゃうよっ」
「よーし、みんなでダッシュだーっ!」
「分かった分かった、分かったから走るなって! お前らすぐ転ぶんだからっ!」
ふと見ると、彼女達の前には、つまずいてくれと言わんばかりの低い段差が。あぁ、もう、こんな光景も何度見た事だろう。
「んぎゃっ!?」
「はごふっ!?」
そして、想像通りに二人仲良くつま先を引っかけ、前のめりで倒れ込む。それはもう、見事な程に同じ体勢で。
「あいたたた……」
そして、そんな前のめりに転べば、それは当然目に入る訳で。
「ピンクのふりふりに、緑のしましま」
そういえば小さかった頃も、こうやってパンツ丸出しで転んでたっけ。あの頃は子供っぽいキャラクター入りだったけれど、今は二人共、こんなにも成長していたのか。
「大人の階段上る……か」
二人のパンツを前に、遠い記憶をしみじみと懐かしむ。
「き……、きゃーっ!(×2)」
そんな思い出に浸っていると、彼女達は顔を真っ赤にしながら、俺に向かってカバンを投げつけてくる。気が付けば、いつのまにか視界は何かに遮られ、さっきとは似ても似つかぬ鈍い痛みが、冷たく凍えた俺の顔面を貫いていた。
――――。
「あー、やっと終わった。六時限目の古典って、相変わらず地獄だよなぁ」
「呪文聞いてるみたいで、意識飛ぶよね~」
「え? そう? 絵美、古典は結構好きだよ」
「は?」
「え?」
「さーて、絵美は部活行くけど、今日の帰りはどうする?」
「あ、えと、あたしはちょっと用事があるから、今日は先帰るね」
今朝のメッセージを裏打ちするように、なつみは何かを隠して言い訳をする。
「お兄ちゃんは?」
フラッシュバックする『絵美には内緒で』という文章に、酷い罪悪感を抱く。
「俺も買い物があるから、先に帰るよ。悪いな」
後ろめたい気持ちに呼応するように、思わず謝りながら嘘をつく。でも、絵美葉はそんな事を気にする素振りも無く。
「ううん、丁度良かった。今日はね、部活の子達と帰りにお茶しようかって話してたんだ。やっぱり、みんな誰に渡したか気になるじゃん?」
いつものようにカバンを抱え、いつものように楽しそうに笑った。
「じゃ、また明日ねっ!」
そう言って教室を出て行く絵美葉を見送ると、俺となつみは自然と目が合った。
「……じゃ、私達も行こっか」
用事でもなく、買い物でもない、二人だけの約束の為に。
――――。
なつみが指定した丘の上の公園。それは、小さい頃に四人で何度も遊びに来た、思い出の場所。
「懐かしいねー。街の景色は随分変わっちゃったけど、あたし達の家の周りだけは、昔のまんまだよね」
「言われてみれば、確かにあんまり変わらないな」
街から少し離れ、田畑に囲まれた一角に、俺達の四つの家は仲良く寄り添っている。
親父に聞いた話では、あの土地は元々畑で、地主さんが土地を分譲して、建て売り住宅の形で販売していたらしい。だから、同じような時期に、似たような年齢層の家族が集まったんだとか。
「不思議だよな。たまたま隣に引っ越してきて、たまたま歳が近くって、たまたま仲良くなって、今もこうして一緒に居るなんて。ある意味、凄い偶然の積み重ねだもんな」
「あはは、運命感じちゃう?」
「運命……かな?」
「……かもね?」
なつみは足下の小石をつま先で突きながら、恥ずかしそうに同意する。
「……」
「……」
何か話そうと思っても、どうしても意識が別の何かに向かってしまう。あのカバンの中に入っているのかな? とか、何て言って受け取ればいいんだろう? とか、期待や不安で何を考えているのかも良く分からない。気が付けば、激しすぎる自分の鼓動で周りの音がかき消され、頭や身体がふわふわと浮いているような感覚に包まれていた。
「し、翔太っ!?」
突然、彼女は声を裏返す。
「あぁぁ、あのさっ、そ、そのっ!? き、今日ってバレンタインじゃん? だ、だから、チョコ欲しいかなって思って、今年も作ってきたんだけど、……た、食べる?」
今まで見た事の無い程に頬を赤く染めながら、彼女は自分のカバンを胸に抱く。それは、去年までのように隠し味が込められたチョコレートでは無く、彼女の想いが形となった、本当の贈り物。
「今年は……頑張って作ったんだから」
恥ずかしそうにカバンから取り出した赤い箱は、ピンクの綺麗なリボンに彩られていて、去年までの控えめで地味な見た目とは、明らかに何かが違っていた。
「ね、可愛い? 入れる箱とかも色々お店回って探したんだ」
「あ、うん。何か、去年とは、……全然違うな」
「あ~、その、えと、……こ、今年は……特別だから」
なつみは、あちらこちらへと目線を泳がせる。それは、恥ずかしいからなのか、それとも、気まずいからなのか。
「と……、特別?」
「う、うん……」
それきり、彼女は下を向いて固まってしまった。
真っ赤に染まる耳、冷たい風に漂う彼女の香り、そして、胸に抱かれる、何かに満ち溢れたプレゼント。そのどれもが、俺の身体や心を揺さぶり続ける。それはもう、目眩で立っていられないほどに。
「……き……なの」
「え?」
消え入りそうな声に耳を澄ます。自分の幻聴じゃない事を確認するように。
「す……、好き……なの。翔太の……事」
「う、うん……」
「だから、……これ。……本当に、本当だから」
そっと差し出される可愛らしい箱。視線を上げれば、いつも見慣れている筈の顔が、俺を恥ずかしそうに見上げていた。その顔はまるで、そのまま一目惚れするかのように可愛らしくて。
「……お、俺も……」
その箱を受け取る為に、そっと手を伸ばす。
「……なつみの……事……」
その、ほんの一瞬、俺と彼女の指が触れあった瞬間。指先に電気が流れるような衝撃と共に、暖かい温もりが伝わってくる。
でも、次の瞬間、彼女の顔は驚いたような表情に変わった。今、この時には不釣り合いな、不自然な表情へと。
「え……ぃあ……っ!?」
刻一刻と苦悶に満ちていく彼女。
「え? お、おい、なつみ?」
それは、想像を絶する激痛に抗うような表情。ほんの一瞬で
「――ぁかっ!? なんで、こんな時――っ!? この前……っ!? 大丈夫っ!? だったのにっ!? ……っ!? ぃぐっ!?」
苦しそうに息をする彼女。持っていた箱はいつの間にか地面に落ち、その手は懸命に胸を掻きむしる。それはもう、死に物狂いという表現しか思いつかない程の姿で。
「おいっ!? なつみっ! どうしたっ!? おいっ!?」
何かに抗うように呻いていた彼女は、ほんの数秒後、糸が切れたように崩れ落ちた。
「え!? おぁっ!?」
そのまま地面に倒れ込む彼女を、俺は間一髪で受け止める。しかし、その想像以上の重さに腕が耐えられず、不甲斐ない格好で彼女を地面に横たえさせてしまった。
「な、なつみ!? おいっ!?」
動かない身体、動かない瞳、動かない表情。でも、それでも彼女は懸命に、冬の青空に向かって囁く。誰かに、何かを伝えようとして。
「し……翔……太……、大…………す……」
――その言葉を最後に、彼女は微動だにしなくなった。




