尊い犠牲
「で、でも、動くって何をすれば?」
激しく揺らめく彼女のオーラに戸惑いながら、やっとの事で言葉を繋ぐ。俺が動いた所で、何も変えられる気はしないけれど、彼女は、固く、揺るぎない瞳を開く。
「先程も申し上げた通り、長谷川さんには謝罪して頂きます。その上で、貴方が一人で彼等をぶちのめした事にして貰います」
「は? そんなの有り得る訳無いだろ? この腕で五人相手出来ると思うか? そんな嘘、誰が信じるって言うんだよ」
酷く不機嫌な先輩。彼の心も又、理解することが出来ない。彼は何に苛立っているのか。
「えぇ、そうでしょうね。でも、そこにあるスタンガンが、もし彼の手の中にあったとしたら?」
そう言って、スッと指差すその先には、あの時に用意していた不穏な道具達が山を成していた。
「相手が気絶していれば、片腕でも色々出来るのでは?」
「そ、それは……」
そんな物騒な物を持ち込んだ事に後ろめたさがあるのか、彼は言葉を詰まらせる。
「で、でも、だからって、何で長谷川君があいつらに謝る必要があるんだよ! こっちは被害者なんだぞ!?」
拳を振るい、俺を庇う先輩。その姿は凄く嬉しい。でも。
「被害者、そうですね。彼には何の落ち度もない。加害者は100パーセント、彼等でしょう」
どうでも良い、そんな態度で、どこかの誰かへと掌を向ける。そして、返す掌で、ゆっくりと拳を握る。
「でも、良く考えてください。彼等は彼をイジメていた。そんな彼等に、『貴方達は彼にやられた事にして欲しい』なんて言って、素直に聞き入れると思いますか? それも、手負いの一年生にやられただなんて、彼等のくだらないプライドが許す筈がありません」
彼女は何かを確認するように、固く握った拳を見つめ続ける。何かを反芻するように。それが間違っていないことを、納得するように。
「……だから、俺が頭を下げてお願いする、っていう事?」
「えぇ、そういう事です。媚びへつらい、彼等の自尊心を刺激し、靴を舐めるように頭を下げる。彼等が望むのは、自分達が相手の上に立っているという優越感。でも、私達が望むのは、航空技研部長の名誉の奪還」
彼女は拳を俺の前に掲げる。
「それを、俺が?」
「えぇ。世の中はそんなに都合良く出来ていません。寧ろ、不都合に満ちていると言ってもいいでしょう。だから、今、その理不尽を貴方に背負って貰います。真実を取り戻す為に、……貴方の犠牲が、必要なのです」
見えない顔が、何かを覚悟するように。闇の奥に光るその瞳が、彼女の、想い。
「――いいよ、言う通りにする」
「ちょっ!? 長谷川君っ!」
拳を握りしめ、彼女の前に掲げる。お互いの胸の前で、お互いの拳を。
「それで、部長が救えるんだよね?」
「……えぇ、それは私が保証します」
「……分かった」
「……長谷川君……」
取り戻したい、あの日々を――
――――。
作戦決行は明日、日曜日。場所は、サッカー部の部長が入院している総合病院。
「何でこんな事になっちゃったんだよ」
ベッドに横たわり、見慣れた天井のシミを見つめ続ける。夕食後に飲んだ薬がやっと効いてきたのか、ズキズキとした腕の痛みが少しずつ和らぐ。
「はぁ……」
正直、あいつらの事は今すぐぶち殺したいと思っている。この腕に痛みが走る度、憎しみは幾重にも積み重なってきた。耐えられない怒りに、何度壁を蹴りつけたか分からない。一体俺が何をした? あのゲスい顔が、頭から離れない。どうして俺は、こんなにも苦しめられなければならいのか?
『だから、今、その理不尽を貴方に背負って貰います』
彼女の言葉にだって、本当は納得した訳じゃない。どうして俺が?って、今でも思ってる。部長の為だって言い聞かせてはいるけれど、どうしても頭をよぎる。
「ふざけんなよ……」
そうして、そうやって思考がループする度に、みぞおちに溜まった何かが弾け、腕や足が条件反射のように何かを叩きつける。まるで、極限まで圧縮されたスプリングが、勢いよく弾け飛ぶかのように。
「っくそっ! がぁっ!」
もう、何度繰り返しただろう? 一人になる度に、黒い感情が濃くなっていくような気がしていた。
「……はぁ」
あいつらの事を考えている事が嫌だ。ほんの一瞬でも思い出したくない。でも、どうしても浮かんできてしまう。でも、それ以上に嫌なのは。
「何でこんなにイライラしてるんだよ、俺」
暴れる感情に振り回されている自分が、酷く嫌だった。
コツン――
「?」
窓に何かが当たる音。久しぶりに聞く、懐かしい音色。
「こんな時間に?」
そっとカーテンを寄せ、窓の先の暗闇を凝視すると、塀の向こうにちょこんと頭が飛び出ていた。後ろを向いていて顔は見えないが、あの見慣れた髪色は。
「……」
憤激に満ち溢れていた心に、今度は気まずさが膨れ上がっていく。無視され、冷たくあしらわれ、ずっと避けられてきた、この数週間。拒否される事がこんなにも辛いだなんて、思いもしなかった。いつも楽しくて、何の気兼ねもしなかった小学校。ゲラゲラと笑い合いながら過ごした中学校。なつみや絵美葉とは、このままずっと、この時が続いていくって、疑いもしなかった。彼女達は、俺の事を分かってくれていて、俺も、彼女達の事を分かっている。ずっと、そう信じていたのに――
「あら? どこか行くの?」
「ちょっとコンビニ」
「ホント? 丁度良かった~、ついでに牛乳とパンも買ってきてくれる?」
「んー」
「んー、じゃないでしょ? ちゃんと返事しなさい」
「あーはいはい」
「ハイは一回」
「はーい」
「伸ばさないっ!」
「分かったってば」
夜に出掛ける時は大抵この言葉で纏まってくれる。『コンビニ行ってくる』。中学生の頃から使うようになった、魔法の言葉。でも、それが嘘だなんて、きっと親も気付いてる。だって、ここから一番近いコンビニまで約五キロ。そんな遠い所まで歩くなんて、面倒臭がりな俺がする訳が無い。
「行ってきまーす」
でも、お使いを頼まれてしまった以上、今日は行かない訳にはいかない、か。
――、なつみ……。




