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前哨戦

 ――プルルルルルルル――


「なつみっ!?」

 彼女が言った通り、電車は発車寸前で、彼女はいつもの三両目に、いつものように座っていた。その光景に背筋が寒くなりながらも、慌てて扉へと駆け込む。

「はっ……、はっ……」

 彼女の前に立つ。息は荒く、額には、今にも零れ落ちそうな汗が無数に浮かんでくる。

「あのさ」

 彼女の気持ちが分からない。見た事も無い姿。足元へと落ち行く、冷たい瞳。

「話が、ある」

「……何?」

 聞いた事も無い、身体へと響く、深く、黒い声。……どうして。

「……」

 少し息切れしながら、でも、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「明日の勝負、俺と一緒に、戦って欲しい」

 でも、まるで俺が見えていないかのように、彼女は反対側の座席を見つめ続けていた。

「……何で?」

 そう返事が返ってきても、その表情が変わる事はなく。

「何でって、俺達、航空技研の部員だろ。だから……、その、」

「……」

 言葉に詰まる。拒絶されるなんて、想像もしていなかった。きっと、心のどこかで、彼女は絶対に否定しないと高を括っていた。いつものように、はにかみながら、『仕方ないな』と。きっと、そう言うだろうって。……でも。

「私、関係ないよ。だって、こんな事になったのって、桜ちゃんと喧嘩したからなんでしょ?」

「そっ、それはそうかも知れないけど、でも、部長だって凄くやる気になってたのに――」

「そうなんだ、私は、部長さんの代わりなんだ」

「ちっ!? 違っ! 何でそんな事言うんだよっ! お前、最近変だぞっ!? 俺が何したって言うんだよっ!? おかしいだろ!? おま――」

「おかしいって何っ!? 私が悪いのっ!? ふざけないでっ! 全部あんたのせいでこうなったんでしょっ! あたしのせいにしないでよっ!」

「俺のせいって、そ、そりゃ少しは――」

「少しっ!? はぁっ!? 分かってないっ! あんた何にも分かってないっ!? バカにしないでよっ!」

「な、何がっ!? 俺は別に――」

「別にっ!? へーっ!? 何もしてないっていうんだ!? 自分は何もしてなくて、全部周りが悪いって言うんだ!? へーっ!」

「――間もなく到着致します。お出口は左側、足元にお気を付け――」

 車内アナウンスにハッとする。周りの乗客の視線が俺達に注がれる。

「こ、ここじゃ話しづらいからさ、後でちゃんと話そうぜ。ファミレス奢るから――」

「悪いけど、用事があるの」

 そう言って背を向ける彼女。タイミング良くプシューっと開く扉。知らない駅のホームの筈なのに、彼女は当然のように足を踏み出す。

「さようなら」

 『バイバイ』でもなく、『また明日』でもない、初めて聞く言葉。銀色の列車のドアが、俺と彼女の何かを無機質に断ち切る。それは、何かの別れを連想させるように。

「……」

 遠くへと続く何かの不安が、胸の奥を掻き回す。扉の向こうの彼女が、まるで二度と帰って来ないかと錯覚する程、その姿が切なく写る。でも、そんな気持ちを表わす事は出来なかった。いつの間にか彼女へと向けて差し出されていた右手は、酷く重く、虚しくて。

「何で……」

 あの日常は、今、どこへ――


 ――――。


 キンっと鋭く響く、コンクリートのエントランス。失われた夕日に変わって壁を照らす、冷たい人工光。足先に伝わる寒さにふと我に返り、目線を上げると、そこには『関谷』という表札が掲げられていた。

「……」

 そっと、くすんだインターホンのボタンを押し込む。このボタンに触れるのは、二度目。でも、二度目の返事は、いつまで経っても、返ってくる事は無かった。

「先輩……」

 瞼から雫が零れ落ちそうだった。酷く切なかった。拒絶されるって、こんなにも辛いのか。まるで、何かの燃えかすを、靴底で磨り潰すかのように。

「俺は……」

 開かない扉の前で、冷たい床をじっと見つめ続ける。ぽたり、ぽたり、と、何かが落ちる音を聞きながら。

『あの二人は、俺の大切な友達で、そして、大切な航空技研の仲間なんだ』

 こんなにも虚しく響くのか。

「仲間じゃ、……無いんだ」


 ――――。


 人の居ない田舎道。道路脇の水路を撫でていた風が、さぁっと耳の横を通り抜ける。遠く、次第に輝きを増す我が家の光、でも、その暖かさは、氷の壁に遮られているような気がして。

「お兄ちゃん、何で泣いてるの?」

 冷たいアスファルト、一人で立っていた筈の隣に、誰かが佇む。

「もしかして、先輩にフラれちゃった?」

「んな訳……ないだろ。っぐっ。……これは――」

「まぁまぁ、そんな事よりさ、これ見て見てっ!」

 そう言って取り出した携帯の画面には、占いの館を囲むようにクラスメイト全員がポーズを決めている写真が映し出されていた。今まで見た事の無い活き活きとした表情、今にも弾けそうな躍動感。本番は明日だというのに、既にやりきった感に満ち溢れる彼等達。でも、そこには、俺と、なつみの姿だけが欠けていた。

「……準備、終わったんだ」

「もうバッチリっ! 今世紀最大の完成度で仕上がったって感じだね。ふふーんっ」

 こんなに清々しい笑顔を見ていると、仲間って、きっとこんな感じなんだろうなって思う。皆で一つの事を想い、同じ方向に向かって駆け抜けていく。お互いを気遣い、お互いを信じて、何一つ、すれ違う事無く。

「……そっか、良かったな」

 多分、俺達とは違うんだろうな。こんな……、何一つ噛み合わない関係なんて、きっと、始めから何かが間違っていたんだ。そう、俺が勝手に――

「だから、お兄ちゃんは安心して」

「――?」

 思考が止まる。彼女の言葉が理解できない。

「明日の為に、いっぱい頑張ってるんでしょ?」

 柔らかい笑顔、いつもの弾けるような明るさとは違う、暖かな瞳。

「お兄ちゃんが大変なの、みんな分かってるよ。だから、こっちは大丈夫。みんなで頑張って終わらせたから、明日は思いっきり戦ってきて」

 にへっと笑い、右手の親指を立てる彼女。その姿が、ふと、脳裏をよぎる。そう言えば、絵美葉、ずっとクラスの手伝いばっかりで、この所あまり喋っていなかったような気がする。……もしかして、俺の分まで?

「だから、負けたら承知しないからね?」

 拳を握り、俺の前に肘を立てる。その姿、その笑顔、どうしてだろう? 瞼に熱い何かが込み上げてくる。

「ぉ、おう、任せとけ」

 同じように拳を握り、肘と肘を重ね合わせる。服を通して伝わる温もり、言葉では表わせない想い。それらが重なり合い、優しく、そして力強く、身体が包み込まれていく。

「……ありがとな」

 さっきまでの切なさが、嘘のように溶けていく。何の迷いも無い言葉が、俺の身体を優しく支えてくれているような。その笑顔が、俺の全てを包み込むように。

「どういたまして。明日はダンス部と一緒に応援に行くから、絵美の事見て頑張ってね。今度のユニフォーム、超ミニだから」

 そう言って、彼女は唇に人差し指を立てる。いつもの悪戯っぽいその仕草は、酷く子供っぽく見えるのに、何故か、信じられない程に妖艶で。

「ミ――って、なに言ってんだお前は!? アホか!」

 無意識に彼女の足へと目が泳いでしまう。その瞬間、今まで気にも留めていなかったその姿が、酷く見てはいけない物のように感じて。

「俺は別に、そういうのとか別に、全然、別に、気にしないし」

「え? 男子って、パンツ好きだよね?」

「そんなの俺に聞くな!?」

「あ、お兄ちゃんってば、そんなに照れちゃって~。やっぱりパンツ好きなんでしょ?」

「恥ずかしいからパンツパンツ言うな!」

「あ、もしかして、今日のパンツが気になってきた? 見せてあげよっか? うりうり」

「ばっ!? 誰か見てたらどうすんだ! アホ!」

「見てないよー。こんな田んぼ道に人なんて居る訳ないじゃん。うりうり」

 頭の上へと血液が逆流する。スカートの裾を摘まみ、嬉しそうににじり寄ってくる彼女に、どうやって反応したら良いのか分からない。恥ずかしさと罪悪感が頭の中をぐるぐると回り続け、背徳感という感情が背中を駆け抜ける。

「ちょ、待て待て待てっ!?」

「うりうりうりっ」

 道の端まで追い詰められる。小悪魔のように楽しそうな彼女の口元を見ていると、このまま甘い誘惑に飲み込まれ、本能のまま、甘美な香り漂うその温かな場所へと跪きたくなってくる。でも――

「……でも、もうそろそろ、お終いかな」

 少し寂しそうに、視線を逸らす彼女。

「お終いって、……何が?」

 ふわりとスカートが元の位置へと戻っていく。裾を摘まんでいた細い指先は力なく漂い、あんなに楽しそうだった面影は、どこにも無く。

「さぁ? 何だろね?」

 彼女は突然くるりと回転したかと思うと、スタスタと家に向かって歩き出す。

「明日、頑張ってね。お兄ちゃん」

「え? あ、あぁ」


 ……その背中が何を語っているのか、その寂しそうな瞳が何を訴えているのか、俺には、何一つ分からなかった。


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