本当に欲しかったもの
「兄ちゃん、明後日は良い勝負できそう?」
ダイニングで一人、遅い夕食を口に運んでいた。でも、口に入ってくる塊は、何の彩りも、何の薫りも感じられなくて。
「……兄ちゃんってば、聞いてる?」
ソファで寝転んだまま、テレビを眺め続ける翔子。
「聞いてるよ」
今日は散々な一日だった。もう、思い出したくも無いくらい、頭の中がモヤモヤとする。
「ちゃんと練習してる?」
「してるよっ!」
まるで稲妻のように、ほんの一瞬で怒りが心を埋め尽くす。
「はぁっ? 何キレてんの? 意味分かんない」
苛々が止められない。理不尽な暴力、拒絶された関係、離れていく、……幼馴染み。
「もう知らない。手加減なんか絶っ対してやんない」
こっちを見る事も無く、ダンッ、ダンッ、ダンッと、彼女は自分の部屋へと駆け上がっていった。付けっぱなしのテレビから流れてくる、楽しそうな会話が、何故か自分を酷く惨めな気分にさせる。
「……なつみ」
どうして彼女の名前が溢れたのか、良く分からなかった。俺を見る彼女の表情は、とても冷たく、でも、俺を背にする彼女の横顔は、いつものように自然で。それは、もしかすると、俺では無い誰かを、見ていたのかもしれない。
「……何で」
何でこんな事になってしまったのだろう。あの日まで、あんなに楽しくて、あんなにも幸せだったのに。あの鮮やかな記憶は、今はもう。
「くそっ!」
持っていた箸をテーブルに叩きつける。そんな事をしても、何も変わらないのに。
――――。
「原因……不明?」
次の日、朝のホームルームが終わると、真っ先に三年の教室へと向かった。ちょうど扉の傍で作業をしていた昨日の先輩に声を掛けると、彼女はパッと明るい笑顔で応対してくれた。でも、そこで聞かされた言葉は、何の慈悲もなく、何の感慨もなく、俺の心を絶望の底へと叩き落とした。
「何だか高熱で凄く酷いみたいだって、先生言ってたよ。文化祭だっていうのに、ついてないよねぇ。それに、うちは斉藤君がいないと全然纏まらないから、ご覧の通り、もう大変」
心底残念そうに、そして、どうしようもないような困った表情で、教室の奥へ向けて掌を返す。その言葉通り、その惨状は、昨日を超える光景だった。
「あの、ゆい……西村先輩は?」
昨日のサッカー部員達を警戒しながら、部屋の中をさっと見渡す。けれど、それらしい影はどこにも見当たらない。
「確か、さっき生徒会の方に行くって言ってような気がしたけど?」
「生徒会?」
「そう言えば結衣、朝からずっと忙しそうにしてたっけ。まぁ、言い出しっぺなのに、色々と斉藤君頼りにしてた所もあったから、責任感じてるのかもねぇ」
「……そう、ですか」
足が、異様に重い。足を、どこに向ければ良いのか分からない。自分の物である筈の、この足が、まるで他人の足のように思えていた。
「……」
ふと、顔を上げると、そこには部室の扉が見えた。誰も居ない、賑やかな背中とは裏腹の、酷く寒々しい扉。でも、鍵が締められている筈のその扉は、少しだけ開いていて。
「……誰?」
少しの恐怖を胸に、そっと扉を開ける。奥の窓から差し込む光が視界を埋め尽くし、はっきりとその顔を見る事は出来なかったが、そのシルエットが俺の心を安堵させる。それは、俺の中の日常。欠けることのない、欠片。
「なつみ」
「……」
けれど、声を掛けても、彼女は微動だにしなかった。部長のパソコンの前で、冷たく、じっと佇む。
「何で、ここに?」
淡い光で縁取られたその姿は、酷く心地良いのに、その顔は、酷く、心を掻き乱す。
「部長さん、明日はダメみたいだね」
「みたい……、だな」
こちらを向くこともなく、淡々と、独り言のように。
「明日、どうするんだろうね」
どうするも何も、もう。
「どうしようもないだろ。もう、明日は中止にして貰うしか」
これから越後屋の所に行って、翔子にメッセージ入れて、それから――
「……そうなんだ」
何一つ変わらない、その表情のまま、彼女はそれ以上何も語らず、何も示さぬまま、静かに部屋を出て行った。俺の横を通り過ぎる時でさえも、ただの一度も、目を合わせずに。
「……」
ふわっと通り抜けた彼女の香りが、少しずつ散っていく。まだこんなにも陽は高いのに、心は、氷の湖を撫でるそよ風のように、何だかとても寂しくて。
――――。
「マジで御座るかぁ」
パソコン部の部室で明日のリハーサルをしていた三兄弟は、掌で顔を覆い、激しく落胆する。
「どうするで御座る? 我ら二人が加勢するで御座るか?」
「いや、やはりそれはマズいで御座ろう?」
「でも、桜タンに見下されるチャンスで御座るよ?」
「いや、我は翔子タンに見下されたいで御座るっ!」
「待つで御座る。短絡的な思考は負け戦の始まりで御座る。今は落ち着いて考える事が最善で御座る」
何だか酷く苛つくのは、彼等のせいではないと思いたいで御座る。
「だが、これは潔く諦めるしかないのかも知れぬな。何せ、航空技研のメンバーは長谷川氏しか居らぬ。これではどうしようもあるまい」
「左様。折角の舞台ではあるが、ここは趣向を変えて、飛び入り参加型のゲーム大会にでもするが良かろうて」
「桜タン達にはラスボスになって頂き、倒した人には賞品を贈呈する。これなら、それなりに盛り上がるのではなかろうか?」
あんな彼等だけど、頭の切り替えの早さには正直脱帽する。もしかしたら、これが、天才という奴なのかもしれない。そして、これが、大人の判断という奴なのかもしれない。
……でも。
「あのさ……」
昨日、あんなに悔しい思いをさせられた事、忘れたのか。誰も味方になってくれないからって、……惨めに、負けを認めるのか。
「……一回だけでいいから、俺に、チャンスをくれないか?」
「チャンス、で、御座るか?」
絶対にこのまま終わらせちゃダメなんだ。応えてくれるかどうかは分からないけれど、ここで諦めたら全てが終わる。
「なつみと関谷先輩、必ず二人を連れてくるから」
越後屋は少し困惑したように、そして、心配するように。
「長谷川氏、関谷先輩殿なら分かるで御座るが、なつみタンでは勝負にならないかもですぞ? それでも良いので御座るか?」
「そんなの分かってる。でも、違うんだ」
そんな事なんてどうでもいい。そもそも、素人の俺達が、百戦錬磨の傭兵部隊に勝てる訳がないんだ。そう、そうじゃないんだ。
「あの二人は、俺の大切な友達で、そして、大切な航空技研の仲間なんだ。だから、例え負け戦だって分かっていても、俺は、大切な仲間達と、一緒に戦いたい」
そうだ、俺は、一人じゃない。そして、あいつらも。そして、今も無念にうなされ、苦しんでいる部長の為にも。
「……ふっ、長谷川氏なら、きっとそう言うと思ったで御座るよ。良かろう、しかと承ったで御座る。後の事は、この、神に選ばれし三兄弟に――」
「俺、関谷先輩の所に行ってくる!」
「って、聞いて欲しいので御座る! ここは凄く練習――」
自分にこんな力があったのかと思い違う程、大きく振りかぶる腕は刹那に空気を切り開き、力強く弾ける膝は、目の前の空間を歪めていく。
「勝ち負けなんか知るかっ!」
俺は――




