ドライ・アイズ
「ま、こんなもんか。大体は想定通りだ」
「これだけあれば、きっと十分編集できますよね」
結局、桜がコテージから出てくる事は無かった。
「前半の超好戦的な飛び方とは大分違うが、まぁ、これもある意味、リアリティがあるとも言えるしな」
本来の主人を失ったトマホークは、仮初めのパイロットで空を舞う。機体は夕焼けに照らされ、深い陰影を刻みながら、優しく浮遊するように舞っていく。
「父ちゃん、ああ見えて『石橋ガンガン叩いて渡ろうぜ』なタイプだからなぁ」
彼女が脳裏に描いていた飛び方ではなかったかもしれないが、きっと、彼女はそんな事どうでも良いのだろう。彼女はきっと、もっと別の何かが欲しかった。
「その割に、神崎さんには当たって砕けまくってるな」
それが何なのか、知る事は出来ないけれど。
「ほんと、女子校生相手に何してるんだか……」
それは多分、彼女にとって、とても大切な事。
「楓ちゃ~ん、見て見て、猫太君ピカピカに磨いたよ~」
「猫太に触んないでっ! それと、『ちゃん』とかキモいから止めてくださいっ!」
「そんな照れなくても大丈夫だよ~、楓ちゃんとパパの仲じゃ~ん」
何故か、背中がぞわぞわする。
「に、兄ちゃん、うちのパパは普通で良かったね」
「そ、そだな」
翔子と一緒に深い溜息をついていると、ふと、何かの違和感が走った。いつもとは違う、いつもでは無い何か。
「あれ? そう言えばなつみは?」
さっきまで隣に居たような気がしたけど、どこへ行ったんだろう?
「トイレじゃない?」
いや、でも、それはさっき行っていたような? でも何か、こういう時にあいつが居ないと、何か落ち着かない。
「……なぁ、妹」
「何だい? 兄ちゃん」
「桜は、その、大丈夫なのか?」
「気になる? そしたら、自分で確かめてみるといいよ」
「自分でって、あそこは男子禁止だろ? 行けるわけないじゃん」
「いいよ、私が見張っててあげる」
「でも……」
見つかったらアレだし、女の子と二人きりとか、ちょっとアレだし、やっぱりなつみに――
「なつみさんに頼ってばっかりじゃ、いつまで経っても成長しないよ?」
翔子は俺の心を見透かすように、瞳の奥を覗き込む。中学生とは思えないその言葉に、身体が自然と強ばってゆく。
「べ、別に、頼ったりなんかしてない」
「そう? なら、自分で言った事は、自分でしないとだよね」
「自分でって……」
すぅっと、心が細くなっていく。儚く、脆く、さっきまでの自分が、どこかへと消えていくような、そんな気分だった。
「楓ちゃん、ちょっと来てっ」
「?」
――――。
日も落ちてすっかり暗くなった頃、俺と楓はコテージが見渡せる草むらに身を潜めていた。辺りの空気は少しずつ涼しくなってきているのに、俺達二人のこの空間だけは、少しずつ湿度が上がり、じわりと汗ばむよう温かさが、腕の周りを包んでいく。甘い、石鹸の香りと共に。
「何であたしまでこんな事しなきゃいけないの?」
「いや、俺に言われても」
上せてしまうような熱気にクラクラしていると、コテージの方からパタパタと人影が走ってきた。
「オッケー、中は桜ちゃんだけ。ダンス部も暫く帰ってこないし、今がチャンスだよ」
コテージの中を確認してきた翔子は、何故か嬉しそうにガッツポーズを決めた。
「チャンスって、やっぱマズいって」
「だから、何であたしまで」
「そんな事言って、桜ちゃんだけあのまま放っとくの? それ酷くない?」
「それはそうだけど……(×2)」
「じゃ、良いよね? それじゃ、行くよ? オペレーション・ヤンデレスキュー、発動!」
「や、やんでれ?(×2)」
なつみ、本当にどこ行ったんだ?
――――。
「さ、桜、……ちょ、ちょっといいかな?」
今まで嗅いだ事の無い、柔らかい香りが漂う部屋。そこに、ぽつんと一人、彼女は携帯を弄りながら膝を抱えて座っていた。玄関から入って来る異質な存在に目をくれる事も無く。
「何ですか?」
発せられる台詞はいつもと同じなのに、いつもの明るい抑揚ではなく、冷たく、感情の見えない言葉が流れてゆく。
「あ、その、えーと……」
ここに来て、重大な事に気が付いた。彼女と何を話すか、何も考えていない事に愕然とする。
「そ、その、あの……、な、何で、機嫌悪いの?」
「別に、機嫌悪くなんてないです。聞きたい事ってそんな事ですか?」
「い、いや、あの――」
「ここ、男子禁止ですよね? 何入ってきてるんですか? 今すぐ出て行って貰えます?」
「あ――」
「出て行って貰えます?」
だ、大事な事なので、二回言われたような気がする。
「で、でも――」
「もしかして、『俺なら桜の心の痛みが分かるんだ~』、なんて思ってここに来たんですか?」
「え?」
「めっちゃキモいですね。 ちょっとモテてると勘違いした童貞少年の考えそうな事を、良くもまぁ、恥ずかし気も無く」
薄ら笑みを浮かべて、彼女は瞼の隙間から俺を見下してゆく。
「あ、もしかして、桜がお兄さんの事を好きだとか思っちゃったりしてます? それ、全然勘違いなんで、止めてくださいね。本当、気持ち悪いんで」
「い、いや、俺は」
しどろもどろに狼狽える俺を冷たく見つめ、彼女は微動だにせず、冷酷な言葉を畳みかけてくる。
「どうせ翔子ちゃんですよね? ヤンデレがどうのこうのとか言われて、主人公気取りで盛り上がって来たんじゃないですか?」
「べ、別に、そんな」
「そうやって勝手に一人で盛り上がって、人の気持ちを分かったような気になってる人、私、大っ嫌いですから」
「っ――」
「どうしたんですか? 早く出て行ってください。 それとも、叫び声でも上げないと出て行けないんですか?」
彼女の瞳は、下等動物を見下すように冷たく、刃のように、俺の首筋を切りつけようとしていた。
――――。
コテージを出ると、少しひやりとした風と、ジメッとした湿気が纏わり付いてきた。気が付けば、遠くには雷鳴が轟き、空は、厚く、黒い雲に覆われている。
「兄ちゃん、どうだった!?」
「どうって、何も……」
今も、胸が締め付けられるように息苦しい。身体中の血管が破裂しそうに脈打っている。
「何話したの? ねっ? ねっ?」
手が震える。頭がグラグラする。
「何も……、話してない」
これは、辱められた屈辱の震えなのか、それとも、桜への憎悪が引き起こす、激昂の震えなのか。
「何もって……」
俺は、桜の為にと。
「何かあったの?」
優しく、手を差し伸べただけなのに。
「……何も、何も無いよ」
「兄ちゃん……」
「翔兄……」
空は一層黒く、容赦なく、月明かりを奪っていく――




