始まりの瞳
「これで最後か~、何かちょっと寂しいね」
全員で静かに線香花火を見つめていた時間はそっと終わりを告げ、少し湿った風が耳元をかすめていく。わずかに残った硝煙の香りは潮の香りと入れ替わり、宝石のように輝いていた景色は、いつの間にか思い出へと変わっていた。
「もうちょっと、って気がしないでもないけど」
きっと明日も晴れる、そんな確信に満ちた雲一つ無い星空。明るい月は、一人一人の姿を砂浜に写し取り、さっきまでの轟音とは対照的な海と森の音が、俺達を静かに包み込んでいく。
そんな、いつもの街では有り得ない情景に、人は、何を思うのだろうか。
「そう言えばさ、結衣って、好きな人、居るの?」
ふと、唐突に問いかけたダンス部員の言葉に、心臓がキュッと締め付けられる。
「なっ!? 突然何!?」
「ねー、居るの? 教えてよぉ。前からずーっと気になってたんだよね~。モテるくせに誰とも付き合おうとしないし、聞いてもはぐらかすし。絶対に居るよね? ね?」
一瞬、これがなつみの『何とか』なのかと思った。しかし、パッとなつみに目配せをすると、彼女は小刻みに首を横に振り、何も知らないといった感じで目を見開く。
「い、居る訳ないじゃない。何言ってるのよ」
「ほらー、そうやって誤魔化そうとするー。もう今日という今日は逃がさないから」
確かに、結衣姉は動揺したような顔で視線を逸らしていた。でも、その表情には、何かの違和感があるような気がしてならなかった。そう、誤魔化しているのではなく、何か別の――
「そういうはるなこそ、好きな人居るの!? あー、もしかして、バスケ部のキャプテン?」
「あたし? うーん、あっちのキャプテンも悪くないけど~、実はちょーっと違うんだな~」
「先輩っ! 誰誰誰っ!?」
「ここまで来たらゲロっちゃいましょうぜっ! さぁっ! 早くっ!」
その言葉で一気に盛り上がるダンス部員達。この人達は何でいつもこんなにテンションが高いのだろう?
「あたしの話は後で。まずは先に結衣の聞かせて貰わないとね~。で、どうなの? 何がきっかけで好きになったの? 一目惚れ?」
好きな人が居るなんて一言も言っていないのに、まるで刑事ドラマのように誘導尋問を開始する女子高生デカ。
「ひ、一目惚れ!? そ、そんな訳無いでしょっ!? だ、だから好きな人なんて居ないってば。ね、美織も何か言ってよぉ」
「……結衣、カツ丼食べるか?」
「いーやーっ!」
「お袋さん、お前の為に夜なべして作ったんだろう? そんなお袋さんに、顔向け出来るのか?」
「旦那、あっしは無実なんでやんすっ! 信じてくだせぇ!」
……、お袋さん、何を作ったんだろう?
「どうして気付いたかって? そんなの簡単な推理だよ。真実は――」
「いつも一つ!(×4)」
「異議ありっ! 冤罪だーっ!」
まるでコントのようなラリーが続いてゆく。これが、ダンス部の真の実力という奴なのか。何もかもが全然理解できないけれど。
ただ、そんなノリノリのやり取りも、段々と終止符が打たれようとしていた。
「分かった。それじゃ、これだけ教えて? うちらの知ってる人?」
「し、知ってる?」
慌てふためいていた筈の結衣姉は、その言葉を聞いた途端、瞳の奥に何かを宿したように見えた。それが、どんな意味を持つのか全然分からなかったけれど、気が付けば、いつもの、いつも通りの、温かいお姉さんの顔へと戻っていた。
「知ってるも何も、本当にそんな人いないってば。それに、今は部活で精一杯だしね。だから、高校卒業するまでは誰とも付き合わないよ」
強固な意志を纏ったその一言は、これから起こる何かを絶対的に否定する。冷静に、淡々と、私は何も受け付けない、と。
「それより、私の話はしたんだから、次ははるなの番だよね? ほらほら、好きな人って誰よ? ね、ね? うちらの知ってる人?」
「実は~、あたし、ダンス部のキャプテンが好きなのーっ!」
「きゃーっ!」
「はるなさーん、歯を食いしばってくださーい」
「きゃー、結衣に襲われちゃう~。助けないで~」
「なるほど、襲われたいから助けないで、か。奥が深いな」
「部長、何を冷静に分析してるんですか」
――――。
「……はぁ」
結局、あんな雰囲気で告白なんて出来る筈も無く、何も起こらぬまま一日が終わってしまった。ただ、色々と考えすぎたせいか、頭が冴えて眠る事も出来ず、ふらふらと夜の海岸に足を運んでいた。
「何か、ごめんね? まさかあんな展開になるなんて思ってなかったから」
「気にすんなってば、お前は悪くないんだし。むしろ感謝してるぐらいなんだから」
眠れないのはなつみも一緒なのか、自然と昨日の場所で合流し、同じ丸太へ腰を掛けながら海を眺めていた。
「結衣さん、絶対に翔大の事好きだと思ったんだけどな。それに、部活だってそんなに練習大変な訳じゃ無いのに、何であんな事……」
「そうだよなぁ……」
俺には脈が無かったという事に胸の奥がチクチクと痛んでいるが、でも、それ以上に、何かの違和感で腰の辺りがムズムズしていた。何か、何かが引っかかっている。
「でも、だからって、何かを訊ける訳でもないしさ」
そう、確かに気になる事はある。でも、別の感情でホッとしていたのも事実。
『それに、何もなくて良かったしさ』
何も変わらなかったという安堵感、傷つかなかったという安心感、嫌われるかもしれないという重圧からの開放感。何も進んでいないけれど、進まなくて良かったと思う自分がいる。
「うーん、やっぱり一気に行き過ぎたかな? もうちょっとデートとかしてからの方が良いのかなぁ」
「で、デート!? それって、付き合ってからするもんだろ?」
「何言ってるの? 普通にするでしょ? 色んな所に出掛けたり、おしゃべりしたりして、『この人はどんな人なのかな~』って、相手を確かめてから付き合ったりするんだよ?」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。まったく」
「でもさ、それって知らない人同士がするもんじゃないの? 俺達、近所の幼馴染みなんだし、どんな人かなんて――」
「分かってないでしょ? 結衣さんが中学に上がった後なんて、ほとんど遊んでないもん」
「うぐ」
言われてみれば確かに、やっとの事で中学生活に慣れた頃には結衣姉は卒業していたし、高校に上がった今では、小学生の頃の記憶も遠い過去の物となってしまっている。俺の中の結衣姉には、幼かった頃の朧気なイメージしか無いのかも知れない。
「あ、そうだ。合宿終わったらみんなでお祭り行こうよ、お祭り。一対一じゃ話しづらいかもだけど、みんなで行けば自然に話せるでしょ?」
「お祭りねぇ……」
目の前の海のように、寄せては返す『何も変わらなくて良かった』という想い。俺は、本当にこんな事がしたいのだろうか?
「ちょっと、何そのやる気なさ男な返事。あたしこんなに考えてるのに、どういうつもり? まさか、ここまで来て面倒臭いとか言わないよね?」
その言葉にハッと隣へ振り向くと、こめかみに怒りマークを滲ませた彼女が歪な笑顔で語りかけていた。
「ま、まさか、そんな訳ないじゃん? ねぇ?」
「だよねぇ~? まさか、自分の告白を人任せになんかしないよねぇ~?」
「しません、しませんっ、頑張りますっ!」
おいおいおいおい、やだなぁ、なつみさん。めっちゃ瞳孔開いてますよ?
「ちゃんと、お祭りで仲良くなる、よね? ねぇ?」
「なります、なります、なりますっ!」
マズい、変なスイッチ入っちゃった? こいつ、たまに訳の分からない所でおかしな怒り方するし――
「……なーんて、嘘嘘。こんな大事なことなのに、そんな無理矢理になんてやらせないよ」
「あ、そ、そう?」
久々に背筋が寒くなる。こんなに焦ったのは、いつ以来だろう?
「でもさ、ちゃんと本気出してよ。……あたしも、本気で頑張る、からさ」
「本気……」
一瞬だけ、時間がゆっくりと流れたような気がした。ふと気付けば、俺はいつの間にか、吸い込まれるように彼女を見つめていた。まるでこの世の物とは思えない、月の光を宿した、彼女の切ない瞳を。
「どうしたの? ボーッとして」
「え? あ?」
どうしたんだろう? 俺は、一体……?
「もうこんな時間だし、そろそろ寝よ? 明日も七時起きだって」
「あ、うん……」
記憶の底に焼き付く瞳、鼻孔の奥に残り続ける甘い香り。見慣れている筈の、髪を掻き上げる仕草。
「そう言えば、絵美、今日は来なかったね?」
見慣れない海のせいなのか、まるで、初めてここで彼女と出逢ったような気がしていた。




