<海原の人魚と珊瑚礁>後編
陽光の下で煌めき輝く海面を頭上に戴き、水を掻いて素潜りを続けた。
水が動く鈍い音色を耳元で感じ、泡が頭上に昇る様が目の端に映る。
スクーバダイビング用品など存在しないため、潜れる深さには限りがある。
辛うじてシュノーケルのようなゴーグルが売られていたので、それを装着して視界的には良好に近い。
昶と亜耶は一頻り波打ち際でビーチボール遊びに興じた後、水に浸かることに慣れてきたビアンカを誘って、岸から僅かばかり離れた沖へボートを出していた。
――本来は水中ハンモックにビアンカを乗せて沖に出てみようとしたが、「バランスが悪くて怖いから無理っ!」と拒否されたので安定感のあるボートになっていたりする。
水の透明度が非常に高く、ボートが空中に浮いて見えるほどの美しい海に感動し、ビアンカに泳ぎの模範を見せがてら泳いでいれば――、ヒロから海中を見てくるといいと勧められたのだ。
ヒロの勧めのままに海へ身を沈ませれば、黒と金の二対の瞳に映ったのは、今まで目にしたことが無いほどの絶景。
太陽の光を浴びてきらきらと輝く海中の底には、翠・紫・橙・桃色と様々な色の珊瑚が群生する。些か雑多な配色に見えるようでいて、自然の織り成す色合いは至極美しい。
その珊瑚礁の周りには色鮮やかな魚たちが泳ぎ回り――、警戒心が薄いのか若しくは好奇心が旺盛なのか、海中への来客である昶と亜耶の手の届く範囲まで近づいて来る。時折と水中に揺れる髪先を啄んでいき、それが何とも言えずに可愛らしい。
ふと気付くと亜耶の目端に、昶がハンドシグナルを送る様が映った。
「(もう少し潜ってみましょう)」
「(了解です。お付き合いします)」
そんなやり取りを手の動きだけで行い、頷き合うと再び水を掻いて潜り始める。
海底一面に敷き詰めたように存在する珊瑚。よくよく見れば卵もあり――珊瑚は卵生なのだ――、その影に隠れるように蟹や海星などの生物も存在する。
「(あ。見て見て、カメがいるわよ)」
そう意図する動きを昶が見せて指で示せば、先の方に一抱えは有りそうな大きさの海亀の姿。それを目にして亜耶が感嘆の表情を浮かす。
――海の異世界。人の手が然程入っていない地だからこそ見られる、海が美しい場所ならば何処の世界でも見られる異世界の情景ではなかろうか。
さようなことを頭の端で考えながら、昶と亜耶は目を見張るほどの美麗さを堪能していった。
*******
海上に浮かぶ木製ボート上で、ビアンカが身を乗り出して海中へ目を凝らす。
翡翠の瞳がじっと見据えるのは、海へ潜っていった昶と亜耶の行き先。透明度が高い水質なため、ふたりの揺れる影は何となくではあるが窺えた。
海の底の方では色とりどりな珊瑚礁が見られるらしいのだが、それを鮮明に確認することはできなかった。珊瑚が見えぬことを残念に思い、ふっと溜息が洩れ出る。
「――ビアンカ、大丈夫? 疲れちゃった?」
不意と声を掛けられて翡翠の瞳が声の主に向けば、海に身を預けてボートの縁に手を掛けるヒロの姿が映った。
ヒロは先に昶と亜耶を海の中へと先導したが、ふたりがある程度の潜水技術を了していると察し、船に残してきたビアンカを心配して戻ってきていた。
そうした中でビアンカの溜息が耳につき、きょとんとした表情を浮かしつつ声を投げ掛けてきたのだ。
「日に当たり続けるのも意外と体力を消費するからね。日除けにするのに、そこに置いた僕の上着を羽織っていると良いよ」
「え、ええ。ありがとう……」
ヒロから的の外れた持ち掛けを受けるも、ビアンカは異説することなく――どこか上の空といった声音で返してくる。提言されたように動くことも無く、見当違いを察したヒロは首を傾げてしまう。
ビアンカの翡翠の眼差しが再び海に向けられて沈黙が訪れる。
辺りには潮騒のさざめきと、ヒロが手で水を掻いて弄ぶ音、海鳥たちの鳴き声。海遊びに興じる人々の声が、僅かながらに遠くなった岸の方から聞こえてくるだけ。
翡翠と紺碧の瞳が暫しの間を、陽の下できらきらと揺らめく海を映す――。
だが、時間としては然程経ってはいない。その間にビアンカが僅かに喉を鳴らして思いを巡らせているらしい程度はあったが、何を考えているのかは傍にいるヒロには窺い知れず。
見下ろしていた海の中に見えていた二つの影が、気が付けば徐々に大きくなっていく。――かと思えば海面が盛り上がり、水飛沫が上がった。
「ぷはっ――!」
止めていた息を勢い良く解放する音を上げ、昶と亜耶が海中から姿を現した。随分と長い時間を潜っていて息苦しかっただろうに、ゴーグルを外して窺い知れた面持ちは至極活き活きとしている。
「おかえり。どうだった?」
「いやあ、めちゃくちゃ綺麗ね。透明度が高いから光もよく入って、余計にキラキラして見えるし」
「珊瑚礁も随分と色鮮やかですね。魚たちも警戒心が薄くて――、何か餌になるものでも持って来れば良かった」
テンションが高めな口振りで昶と亜耶が言えば、ヒロは表情を綻ばせて頷く。絶賛してもらえて勧めた甲斐があったというもの、という心情なのだろう。
********
「群島の珊瑚礁の中でもこの辺りの珊瑚は特に生命力が強くて、群生地として有名らしいんだ。もっと沖合に出ると逸話のある船の残骸が沈んでいて周りに珊瑚が群生していて、“珊瑚の園”なんて呼ばれているんだよ」
珊瑚の花畑の中に沈没船があって海の生き物が沢山いて、凄く荘厳で見応えがあるらしい。だけど、本当に海の底で深すぎて、ヒトがなかなか立ち入れる場所じゃないのが残念かな――。
嬉々としたヒロの早口な説話に感嘆の声が漏れてしまう。海底に沈没した帆船に珊瑚礁と海洋生物の組み合わせは、想像するだけでロマンチックな雰囲気だと思う。
「“紫電”でだったら、もしかして見に行けるかも知れないけど――」
「そこはロマンのままで収めておくのが、異世界のオツというものでしょうね」
“紫電”の機体ならばある程度の水圧にも耐えられる。だけれども、そこまでして未開に近い地へ赴くのも無風流というものだろう。
幻想的な状景を目に収めたいという欲求もあるのだが、ここは真相を知らないが故に感じる楽しみというものもあるはず。
「さて、息も整ったところで。もう一回、珊瑚礁を見てくるわね」
気を改めて言いながら、再びゴーグルで目元を覆った昶と亜耶を見て、ヒロはにんまりと喜色を浮かす。
「あは。お気に召してもらえたようでなによ――」
「あの……っ!」
ヒロの送り出しを遮るように、不意とビアンカの声が上がった。
何事かと各々の視線がビアンカに向けば、おずおずとした気後れを纏った姿が映る。
「ん? どうしたの、ビアンカちゃん?」
「えっと……、あの……」
「どうしましたか?」
ビアンカは何かを言いたげにして、海に身を預ける昶と亜耶を――。そして、ヒロを翡翠の瞳で見やっていく。
そのおかしな様子に首を傾げていると、ぼそぼそとビアンカが口元で呟いていることに気が付いた。
「え? なに?」
ヒロが船の縁に掛ける手に力を籠めて身を寄せていくと、ビアンカは言葉を繰り返し――。
「……私も珊瑚礁、見たいから。海に入るの、手伝って、ほしい」
そんな言葉にヒロのみならず、昶と亜耶までもがきょとんと瞳を瞬いていた。
ビアンカの発言を咀嚼するのに時間を要したらしく、少しだけ沈黙が訪れる。
だが、漸く語義を察した昶と亜耶、そしてヒロが顔を見合い――、次には口角を上げた表情で頷きあっていた。
「お安い御用よ。連れて行ってあげるわ」
「水を掻こうとして力を入れる必要はありませんし、しがみ付いてくれれば大丈夫ですので。――まずは顔を濡らすことからやってみましょうか」
「船の縁に腰掛けて、脚をこっちに向けて。支えてあげるからゆっくり降りておいで」
各々が柔らかく諭せば、ビアンカははにかみを窺わせて頷くのだった。
*********
ビアンカは昶と亜耶に支えられて海水に顔から頭に掛けて――、全身で浅く潜る練習を重ねる。始めは身を強張らせていたが、元より聡明なのだろう。すぐに力むと沈みやすいと悟り、身体の力を抜く術を得たようだった。
「コツを掴むのも早くていい感じですよ。これなら直ぐに泳げるようにもなりそうですね」
「今は少し潜れるようになっただけで大進歩よね。――てなわけで、いってみますか」
実際はある程度を泳げるようになるまで練習するのが一番なのは、誰しもが思うだろう。だけれども、ビアンカがしっかりと泳げるようになるのを待つとなると、彼女が珊瑚礁を目にできるのがいつになるかが分からない。
少しばかり性急な気がしなくもないが、先の段階に進むことへ否を唱える者はいない。当のビアンカでさえ緊張の面持ちを浮かせるも、意を決したのか頷いている。
「それじゃあ、ビアンカ。教えた通りに大きく息を吸って止めて――、水に入ったらしっかりと耳抜きをするんだよ」
「無理に泳ごうとして足を動かしたりしなくても大丈夫ですからね。しがみ付いてさえいてくれれば、ある程度の深さまでは連れて行けますので」
「息が苦しくなったら亜耶の肩を叩くみたいに触ればいいからね」
「わ、分かったわ。頑張るから……、よろしくお願いします」
立て続けに教えを受け、ビアンカは頷く。それと共に身を支えてくれている亜耶の肩へ両手を回し、深呼吸を幾度か繰り返す。
「よし、行くよー!」
ヒロの嬉々とした合図が聞こえる。と、各々に大きく息を吸い込み――、海の中へ身を沈めていった。
海に潜った途端に耳には空気が動くごぼごぼとした音が入り、水圧で全身を押される感覚を覚える。ビアンカは不慣れな体感で眉間に皺を寄せて目をきつく瞑っているものの、パニックを起こしたりはしていない。
そうした様子を確認すると、亜耶は更に底へ潜るために足を動かしていく。
遠浅ゆえに然程の深さは無い場所だ。ほんの少し潜るだけで珊瑚礁や多くの魚が生息するところに辿り着ける。
眼下には色とりどりな珊瑚礁が、辺りには色鮮やかな南国独特な魚たちが泳ぐ。上へ目を向ければ、射し込む太陽の光が水中を照らして泡がきらきらと輝いて、圧倒される美しさだ。
しかしながら、あっという間に絶景スポットに到着しているものの――、硬く目を閉じたビアンカは周りの景色に気付いていない。
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昶がビアンカの背を摩ると恐々と翡翠の瞳が色を現す――のだが、昶の姿を認めただけで視線を他に動かすことをしない。恐らくは極度の緊張で余裕が無いのだ。
亜耶と揃って身振りで周りを見るように促すも、上手く意図が通じていないらしい。それどころか怪訝に眉間を寄せ、亜耶の肩に回す腕の力がぎゅっと強くなった。
ハンドシグナルも通じていない。息ができない状況で恐慌しないだけ良いけれど、どうしたものか。いったん海面に戻り息を整え、出直した方がいいだろうか――。
さように昶と亜耶が視線で意思の疎通を図っていると、ヒロが水を掻いて近づいて来る。
ヒロはいつの間にか先駆けて底へ潜ってきたらしく、その手には手折ってきた淡い桃色の珊瑚の枝が握られている。それに黒と金の双眸が瞬けば、ヒロは朗らかな笑みを浮かしてビアンカの視界に入っていく。
なにをするのかと昶と亜耶が見守る中、ヒロは亜耶の肩に回されたビアンカの片手をそっと取り、桃色珊瑚を握らせていた。
手渡された桃色珊瑚を目にして翡翠の瞳がまじろぎ――、次には目元の緊張が色褪せたのが窺い知れる。
感嘆の色に取って代わった瞳が珊瑚とヒロの間を移ろうのだが、その最中でヒロが口腔内に溜まった空気を吐き出しながら唇を動かした。
「(落ち着いて下を見てごらん。もう珊瑚が見られるよ)」
ヒロは唇の動きだけで綴る。声無き言葉だったが、ビアンカは言の葉を察したようだ。
言われた通りに翡翠の瞳の視線が昶とヒロの足先を通り越し、海の底へ向く。――と、立ちどころにビアンカは驚いたように目を見張っていた。
水深の浅い場所深い場所が碧のグラデーションを彩る地へ群生する珊瑚の花畑。翠・紫・橙・桃色といった色とりどりな濃淡と、その中をゆったりと泳ぐ色鮮やかな魚たち――。
その今まで見たことも無い情景に、ビアンカは瞬時に目を奪われてしまったようだ。
呆気に取られたかのように海の景色を見据えるビアンカを目にして、ヒロの紺碧の眼が安堵に綻んでいる。
ヒロはビアンカが泳げないのを憂いていたので、心境の変化が嬉しいのだろう。――まだまだビアンカが一人で泳ぐには時間が掛かりそうだが、水への恐怖心が薄れたことで多少は海遊びへ誘いやすくなるのではなかろうか。
そんなことを考えながら、微笑ましく思いながら。昶と亜耶も目尻を緩め、再び海中の眺望を満喫するのだった。
<いきなり次回予告>
海遊びに興じた翌日。ヒロの案内の元で、昶と亜耶はオヴェリア群島連邦共和国の守護を担う帆船の建造現場に赴くことになり――。
昶「造船塗装剤っぽい入れ物が結構置いてあるけど……」
亜耶「殆どが白ですね。オヴェリア連邦艦隊の国防色なのでしょうか?」
次回:<大海の守護帆船>
※次話はまた執筆完了次第、更新していきます。




