<海原の人魚と珊瑚礁>中編
「あっ、ヒロッ、やだ。いやっ、やめて……っ、そんな、入らないっ、から……っ!」
「大丈夫だって、ビアンカ。入っちゃえば気持ちいいからさ」
「やだぁ、怖い……!」
「怖がること無いよ。力み過ぎだから脚の力を抜いて、僕に任せてくれれば良いから」
傍で聞いていると内容に難のある会話を繰り広げ、人目を引きつつヒロとビアンカが砂浜で押し問答を繰り返している。
ビアンカが子供のように拒絶の声を荒げ、大きく首を振るっているのだが――、その腕をヒロが強引に引いて海へ連れ込もうとしているのだ。
ビアンカは砂浜に力を籠めて踏ん張り、ヒロが引く力に対抗する。しかしながら、引く力は緩まぬどころか華奢な少女の力で鍛えた男性の力に敵うはずも無く、徐々に波打ち際へずるずると攫われていく。
あと少ししたら、波が寄せては返すところへ到達してしまう。となると、ビアンカが増々焦燥を露わにしていった。
「だってっ、海って深いから、底の方まで沈んじゃうじゃないっ?! 私がっ、泳げないで沈んだの、知っているでしょうっ!!」
「ここの海は遠浅みたいだから大丈夫だってば。もしも足がつかなくなったらしがみ付いてくれて良いし、昶と亜耶だって助けてくれるから泳ぎの練習をしよう」
やや声を荒げて早口にヒロが言えば、ビアンカは恨めしそうな涙目でヒロを見やる。
ヒロは眉根を下げた――困ったような笑顔を浮かしていたが、どことなく楽しそうだ。恐らくは、埒が明かないやり取りをしている内に嗜虐心が芽生えている。まあ、気持ちは分からなくもない、などと見ていて思う。
「強情にならないで、少しは泳げるように努力しなくちゃ。君は海に落ちた時に僕が引き上げればいいって言ったけど、いつでも僕が傍に居るとは限らないんだからさあ」
「あなたが居ない時はっ、海になんか、近づかないしっ!」
「いや、海に限った話じゃないでしょうよ。水辺なんて川とか湖だってあるんだし。――って、昶と亜耶からも何か言ってやってよ。この子ってば頑固すぎるんだけど」
昶と亜耶は言い争いともいえない舌戦を傍観していたが、ふとした拍子に話を振られ、苦笑いを浮かして互いに顔を見合わせ肩を竦める。次には再びヒロとビアンカに視線を向けるも、苦々しい笑みのままだ。
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「言ってやってといわれても……」
「ビアンカさん、泣きそうですけど。本気で嫌がっているじゃないですか」
黒と金の二対の瞳が映すビアンカは、翡翠の瞳に涙を浮かべている。眉尻も下がり頬が上気して、時折鼻を啜る音が耳につく。
女子というものは異性の気を惹くため、出来ることをワザとできないと巧言して策を練る者もいるが。――これは演技などではなく、明らかに本当に嫌がって泣く寸前だ。
そうした非協力的な返弁に、ヒロが意想外を表わすようにぐっと喉を鳴らす。
反してビアンカは昶と亜耶が味方に付いてくれたと察し、はっと顔色を変えていた。手首を掴んだヒロの手が緩んだ隙に振り払い、慌てた様相で昶と亜耶の背後に逃げてくる。
むくれ気味のビアンカは亜耶の影に隠れ、もう引っ張られても動かない態で亜耶の腕に縋る。さような様子に、亜耶の口端から失笑を含んだ溜息が洩れた。
「今回は水着を着てくれただけで及第点じゃないですか。だいぶ頑張ったのですから、これ以上の先を一度に求めるのは酷ですよ」
「そうそう。こういう時は無理強いしないで、自分から海に入っても良いかなって思うまで待ってあげるべきだと思うなあ」
「うう……、ふたりの言うことも分かるけど。群島で泳げないっていうのは、ほんとに死活問題なんだよ……」
大小さまざまな島が寄せ集まり一つの国として成り立つオヴェリア群島連邦共和国は、船での移動が主となる。海とは切っても切れない関係にあるのだ。
そんな地で暮らすとなれば泳げないのは生死に関わる問題であり、別称で『海の民』と呼ばれる群島者にあるまじき事態なのだそう。
――そうヒロは言うものの、ビアンカはオヴェリア群島連邦共和国出身者ではない。そもそもの話が、海に馴染みの無い生まれだった。
ビアンカが水着への強制着替えの際に溢した話を思い起こすと、彼女は箱入りのお嬢様として過ごし、川や湖で泳ぐ機会に全く恵まれなかった。
旅をする身の上になってオヴェリア群島連邦共和国に身を寄せるに至り、ある時に船から海へ転落する事故に見舞われた。その時はヒロが泡を食って救出してくれたそうだが――、それ以来、水が腰より上の高さに来るのが怖いと言っていた。
「溺れた人が水を怖がるようになる、というのはよく聞く話ですし。トラウマでお風呂にすら入れなくなる方だっているくらいなので、無理を言っても頑なになるだけです」
「私の元々いた世界に在った国なんか、海軍所属の兵士六割が泳げなかったっていう調査結果があるくらいだし。泳げなくても船に乗っている事例なんて結構あるもんよ」
そこまで言うと昶と亜耶は互いに顔を見合わせて頷き合う。と思えば、次いで各々の瞳はヒロを真っ直ぐに見やり、再び言葉を紡いでいく。
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「気持ちの問題の部分で無理強いする男の人は、いただけないですね」
「そういうのって格好良くないし。女の子に嫌われるわよ?」
そういった強引な立ち振る舞いに心惹かれる女性も、少なからずいるだろう。だけれども、今のビアンカの拒絶を見る限り、彼女がそれを由としていないのは明確だった。
ヒロはそんな風に反対に昶と亜耶からの説得を受ける形になり、尚も喉の奥を鳴らすが返す言葉が見つからないようだ。
眉根を下げた困惑を彩る紺碧の瞳が昶と亜耶を映し――、続いて亜耶の後ろに隠れるビアンカを映す。当のビアンカは不信感を顔付きに表してヒロを睨みつけており、快く思われていないのは朗然たるもの。
さような様子に己の行いを顧みて、ヒロは肩を落として深い溜息を吐いた。
「……分かったよ。泳げるようになってもらわなくっちゃって、張り切り過ぎたと思う。僕が悪かったよ、ごめんね」
「気持ちは分からなくもないけどね。あたしだって自分の身内だったら、スパルタ遠泳特訓とかしちゃうところだったし」
「ま、まあ、ビアンカさんに特訓は酷なので、軍隊式は止めてあげてください。――波打ち際で水遊び程度だったら大丈夫でしょう?」
ヒロが至極しゅんとしてしまったため、ついと取り繕うように亜耶が背後のビアンカに伺う。――と、ビアンカは無言のままこくこくと頷く。
「売店の方でビーチボールとかフライングディスクが売っていたから、そういうので水が浅いところで遊びましょうか。足元で水を蹴ってみて、濡れるのに慣れていくのが良いと思うな」
「水上ハンモックっぽいものも貸し出しであるようですし、水に慣れてきたら乗ってみませんか。私が押してあげますから、少しだけ遠浅に出てみましょう」
猶々と昶と亜耶で揃って言葉を継いでいけば、ビアンカは否を発することなく宜いを示した。強張っていた表情も安堵を窺わせ、肩の力も抜けている。
「うーん……、流石だなあ……」
昶と亜耶の口述する、無理のない範囲での提案を聞いていて思う。
ふたりの声掛けはまるで妹に接するような、自由選択の余地を残した問い掛けなのだ。
ヒロは自分自身が泳ぎの得意な分だけ――、そして男衆ばかりの環境で育ったため、ついつい同じ調子で「泳げないでどうする」の精神で接してしまった。
そのことを反省しつつ、改めて女性の扱いの難しさを実感するのだった。




