<ヒロとビアンカ>前編
ヒロが暮らしているという無人島に向け、“紫電”が滑空する。海面近くを飛行しているため、その表層には恰も航跡波を引いたような波しぶきが立っていく。
「いやあ、凄いね。まさか飛んでいけるなんて思ってもみなかったや。“紫電”って力持ちなんだねえ」
「ちょっ、ヒロッ! あんまりはしゃぐと落っこちるからっ!!」
“紫電”の両手には帆を畳まれた小型帆船が乗せられ、船首に鎮座するヒロは至極楽しそうだ。反目でヒロに支えられているビアンカは腰が引けており、顔色が芳しくない。まあ、泳げなくて海に落ちたくないのだろうから、無理もない。
風に流れる亜麻色の長い髪に亜耶の金の瞳が向けられ、何やら黙考を窺わせている。それに昶が気付き、不思議そうに首を傾げた。
「亜耶、どうかした?」
昶が声を掛ければ亜耶ははたとした様子を見せ、「いえ……」と小さく声を洩らす。と思えば再び思慮を見せ、口を開いた。
「――実は、ビアンカさんに感じる魔力の強さと、あの不穏な左手の気配はなんだったのかと考えていました」
「え? 魔力の強さはさておいて、左手の件はビアンカちゃんの設定でしょ?」
「……あのですね。私もついつい中二病設定としてノッてしまいましたが、ビアンカさんの左手に自我の気配がするのは事実ですよ」
昶が言い出した中二病の話に悪ノリしてしまったが、亜耶はビアンカの有する魔力量と左手に宿る何かの気配を察していた。
ビアンカの持つ不穏でいて禍々しい魔力と彼女の左手に感じた存在は、亜耶に今まで感知したことが無いほど悪寒を植え付けるものだった。
ヒロも同様な雰囲気の強い魔力を左手に感じさせたが、妙な存在の気配は知覚できなかった。そして、ビアンカのそれはヒロの魔力よりも何十倍も厄介そうな、言うなれば『敵に回したら戦意を喪失するレベル』の圧力があると思うほど。亜耶ほど魔力に聡くない昶でも、間違えなく感知しているはず。
そう考えて後方に座る昶に金の瞳を向けると、昶は眉間に皺を寄せていた。
「うう、やっぱり気のせいじゃないのね。ビアンカちゃんって大人しそうだし、あんな気味悪い魔力を持っているはず無いって思ったんだけどさあ」
「現実から目を背けようとしないでください。まったく……」
昶は気付いていて気付かないフリをしていたのか――。確かにビアンカの人柄を見ていると、あり得ないと思いたくなるのは分かる。特に昶は可愛い女の子好きな面もややあるため、許容できずに思わず目を背けていたようだ。
その知り得た事実に、亜耶の口元から呆れを含んだ溜息が漏れ出した。
*
当初の直感通り、花冠の少女が有していた魔力とビアンカの魔力の気配は、限りなく似寄っていると亜耶は思う。先ほどは昶とヒロの噛み合っていない会話に飲まれ言いそびれてしまったが、魔法に長けた身の主観として間違えない。
「これは私の憶測ですが――。花冠の少女の正体は……、ビアンカさんなのではと思ったのです」
「え?! それは流石に無いでしょうよ!!」
あまりにも意想外な亜耶の推察に、昶は声を荒げてしまう。
ビアンカが不穏な魔力を操るのもあり得ないと思ったが、花冠の少女とビアンカが同一人物などというのは更に信じがたかった。
「ですが、凄く似ているんですよね。魔力の雰囲気が酷似しているのもありますが――、ビアンカさんも花冠の少女も亜麻色の長い髪ですし、背格好も似通っています」
「確かに花冠の女の子は、お花盛り盛りな冠で目元が隠れちゃって見えなかったよ。あれで翡翠色の目だったら、ビアンカちゃんっぽい気がしなくもないけどさあ……」
言われてみれば、ビアンカと花冠の少女は見た目も魔力の雰囲気も似ている。しかしながら、性合いが全く違う気がする。
そもそも、万が一ビアンカが花冠の少女だとして、わざわざ首都ユズリハに居るなどと伝言する回りくどい方法を取るだろうか。――いや、花冠の少女の時が本来の性格だとすれば、揶揄うためにやり兼ねないかも知れないが、ビアンカはさような素振りを微塵も感じさせない。
「ううーん……、ほんと謎だらけね。ヒロ君も隠し事とかありそうな感じだし。とりあえず、注意して二人を見ていた方がいいかも、なのかなあ?」
「そうですね。できれば疑うなどしたくないのですが……」
ヒロもビアンカも、昶と亜耶を手助けしようとしてくれている。悪意も一切感じさせず、逆に人の良さを漂わせていて疑いたくはない。寧ろ疑念を抱くことに、罪悪感を昶は覚えるほど。
それは亜耶も同じではあったが――。やはり、ヒロとビアンカに接した時間が短く、真意が測れないために警戒は怠れないと思いなす。
傭兵をしている故に少々疑り深くなっている気がするけれども、今は様子見するのが最善なのだろう。そんな風に昶と亜耶は考え、頷き合うのだった。
**
ランドウイングの吹かし上げた強い風と魔力残滓の粒子――。そして、砂塵を吹き散らして“紫電”が砂浜に降り立った。
“紫電”を着陸させて駐機姿勢にした早々、昶と亜耶はコックピットハッチを空けて機体から降りて辺りを見渡す。
眼界に広がる砂浜は砂が眩しいほど白く、星砂も見つけられそうだ。遠浅な海は翡翠色に煌めき、遠い沖合は紺碧色の水面を湛え、遥か水平線が陽炎に揺らめく。
眩い太陽は何処か清々しく温かく、鼻腔を潮風の香りと草花の香りが擽っていき、何とも開放的な気分になってくる。
「――ようこそ、僕の島へ。昶と亜耶はビアンカに続いて、二番目にこの島に足を踏み入れたお客さんだよ」
先駆けて桟橋付近で小型帆船を下ろされたヒロがビアンカと共に赴き、両腕を広げて誇らしげに言う。その歓迎の言葉に昶と亜耶の瞳が意外そうに瞬き、ヒロを注視した。
「今までビアンカちゃんとあたしたち以外に誰か来たことって無いの?」
「そうだよ。この島は僕が許可したヒトじゃないと入れないんだ」
「もしかして、魔力の結界……、ですか?」
「そうそう。この辺り一帯の海域には結界が張られていて“望まぬ稀人”――、えっと、海賊連中とかの歓迎できないお客さんが侵入できないようになっているんだ。だけど――」
本来であればヒロの住む無人島群の周辺海域は魔力で強力な結界が張り巡らされ、彼が認めぬものの侵犯を拒む細工が成されている。ヒロが言うところの客人――、『望まぬ稀人』は無人島群海域へ船を進めても深い霧に阻まれ、気が付くと元の海原に戻されてしまうのだという。
だけれど、どういうわけか昶と亜耶は不可侵海域に“紫電”と共に放り込まれてきた。それ故に何事かと驚いた――、とヒロは綴っていく。
「へえ、迷いの海域なんだ。海賊物とかの航海冒険譚なんかによくある話ね」
「ですね。――というか、その結界はヒロさんが作っている感じなのですか? その左手の強い魔力で?」
亜耶は白い部屋での初邂逅の際に、ヒロとビアンカの左手から尋常ではない魔力の波長が漂うことを指摘していた。その折にヒロは魔力に関し、『使うと周囲を不幸にするし、使った時の代償もかなりキツイから余程のことが無い限りは使わない』と口にして、何かの制約を窺わせた。
そして、再会の挨拶をする直前――、“紫電”のコックピット内で亜耶はヒロが左手の魔力を行使しようとしたのを確認している。思うに自らの領域への侵入と見なして、“紫電”の破壊を試みたのだろう。
***
思わぬ亜耶の指摘にヒロは頬を緩めて笑った。特に“紫電”の破壊を試みた件を指摘され、それに対して笑って誤魔化そうとする素振り――、所謂『テヘペロ』な面持ち。
昶と亜耶が呆れの眼差しを向けると、笑顔だったヒロの頬が次には気まずげに引き攣った。
「あ、あは。亜耶は本当に記憶力も良いし鋭いなあ。――“稀人”の君たちに誤魔化しても仕方がないから白状するけど、その通りだよ。僕はビアンカほど上手くこいつの魔力は扱えないけど、自分の住み家を守る力を代償無しで振るう程度ならできるんだ」
ヒロは言いながら黒い革手袋を嵌める左手をひらひらと振るう。
「ヒロ君もビアンカちゃんもワケアリだって言っていたから、それに関しては深く聞かないつもりなんだけど。他のことで一つだけ聞いて良い?」
隠しておきたいことの一つや二つ、人間誰しもが持ち合わせているもの。込み入った事情に昶も亜耶も首を突っ込む気が無かったが――。
一つだけ気になって聞いておきたいことがあった。それを昶が口切れば、ヒロは「え? なに?」と小首を傾ぐ。
「先ほどは聞きそびれてしまいましたけど。ビアンカさんがレフティーさんに聞いたという言付けの中に、『オヴェリアの英雄』という単語が出てきたじゃないですか」
「そうそう。それをヒロ君は自分のことだって認識していたみたいだけど、ヒロ君って何かをした英雄なの?」
正直言うと、ヒロの能天気さやのらりくらりとした態度は何かを成し得た“英雄”には見えない、というのが昶と亜耶の所見だった。
だけれども、初めて出逢った時、ヒロは昶と対峙して至極獰猛な目つきを見せた。カトラスとソードブレイカーを振るい、猛禽類のような眼差しで立ち回る彼は凡俗の徒とは言えない。――昶が女性だったためか若干の手加減もあったようだが、剣を握ったヒロならば『英雄』と呼ばれるに相応しい気迫だったと思う。
「あー、それかあ。そういえばさっき、ポロッと言っちゃったっけ……」
「もしかして、これも聞いたら不味いことだったかな?」
「いや、そういうワケじゃないんだけど……。その、ねえ……」
問いを投げた途端にヒロは微かに頬を朱に染め、恥じらう。挙句に随分と歯切れ悪く、言葉尻を窄めてぼそぼそと言い出すものだから、昶も亜耶も深入りしてはいけない事情だったかと推し量る。
しかし、そうした取り交わしにビアンカがくすくすと笑い出した。
「ふふ。昶さんと亜耶さんになら、言っちゃってもいいんじゃないの?」
どうせ首都ユズリハに行くなら、遅かれ早かれバレるのだから。そうビアンカが言い出せば、ヒロは渋りから喉を鳴らして唸っている。
何があるのだと昶と亜耶が顔を見合わせると、ビアンカの愉快げに細められた翡翠の瞳が二人を映した。
「ヒロはね。生まれ育った国――、“オヴェリア群島連邦共和国”や周辺の海の秩序と治安を守る英雄なの。でも、故郷の人たち以外に『オヴェリアの英雄』だって言われて褒められるのが恥ずかしいのよ。だから内緒にしたいだけなの」
「は、恥ずかしいの……?」
「もっと誇っても良いことなのではないですか?」
「えへ。僕はただ自分の故郷を守ろうとしているだけで、『英雄』って呼ばれるガラじゃないからさ。惰性でみんなに呼ばれるままにしていたら、定着しちゃってね。本当のところは恥ずかしくって仕方ないんだよ」
ヒロは頬を赤く染めたままへらりと笑い、気恥ずかしげに黒髪を搔き乱した。
「まあ、とりあえずさ。立ち話もなんだから、家に行こうか。少し山を登るようだけど、大丈夫かな?」
「ええ、大丈夫よ。異世界の景色を見ながら山登りも悪くないし」
「ですね。お邪魔させていただきます」
まるで話題を切り替えられた気もしたが、羞恥もあるのだろう。話を切り上げると、ヒロに誘われるまま、昶と亜耶は宜うのだった。