第七頁 葉っぱさん
「どういうこと……?」
揺れる電車の中、私はスマホを凝視していた。
世界に一冊しかない本なんて、あるのだろうか?
いやありえないと、言いきれない部分がある。霙が『ゆずも持っていたんだ』と言っていたことを思い出したからだ。あの言い方は、まるで私以外に持っている人がいることを指すかのような言い方だ。普通ならば『ゆずが持っていたんだ』等と、見つけたと思わせるような言い回しをするはずなのだから。
「ってことは、サイン入りのこの本は……本当に私が持っている分しかないってこと?」
私が今見ているサイトには『「見えない世界の裏側に」の発売中の本の中に一冊だけ、永井春作と永井霙の親子揃ったサインが存在する本がある。ただそれは誰の手にも渡っていないらしく、今どこで保管されているのかは不明』なんて書かれている。
冗談じゃねぇ、私が持っとるわ!
そんな言葉を叫ばずにはいられなかったが、さすがに車内なのでそれはやめた。
再び霙の本を開いて栞を抜き、文字を目で追う。
ゆっくりと読むのは何年ぶりだろうか、と考えてしまう。
もしかしたら十年以上かもしれない。本にのめり込んで以来ずっと速読で読んできたし、こうして文字、漢数字、台詞を細かく読んだことはあまり無かっただろう。
だからこそなのか、ずっと読んでいられる小説を見つけた気がした。それがこの『見えない世界の裏側に』だと思っている。
「あ、あったあった……およ?」
聞きなれない声が聞こえ、私は聞こえた声の方向へと振り向く。
「あ、ここAの二? であってるよね?」
「……えぇ、そうですよ。もしかしてお隣ですか?」
「そうそう、失礼するね~」
茶髪の髪の毛に、軽そうなカバンを持った、少し幼い印象を持つ男の子だ。
隣に座るなり「わぁ、分厚い本だね……」と、私の持っている本を興味ありげに見る。
「あ、これですか? これ、私の幼なじみが書いた本なんですよ」
「えっそうなのかい!? それは凄いねぇ! えっと、タイトルは?」
「『見えない世界の裏側に』です。実体験を元にしたんですって」
「あの小説か! 持ってる人と会えるなんて思ってもみなかったや」
……どうやら、この本のことを知っている様子だった。世界的に有名とはいえ、知らない者もいるものだと思っていた。
「ご存知なんですか?」
「もちろん! あ、敬語は無しでいいよ!」
「あえ、あうん、分かった」
「うんうん。ボクはどう名乗っておこうかな……葉っぱさん、かな?」
「葉っぱさんとは、あなたの名前?」
「そうそう、まぁ本名もあるんだけど、一応そうとだけ名乗っておくよ!」
「なるほど……私は橘陬柚羽」
「たちずみ……? どう書くんだい?」
そういった彼はカバンからメモ帳とボールペンを取り出して書いておくれ、という動作をする。
「えーっと……橘に……陬……柚に……羽。こうよ」
「なんかすごい名前だね……」
『橘陬柚羽』と書かれたメモ帳を見て少し驚いている様子だった。
「現代日本ではあまり見ない苗字よね……多分私の家庭だけしかない苗字だと思う」
聞くところによると、この葉っぱさんという人は世界中を回って旅している人の様子。
旅かぁ……お金とか必要なんだろうなぁ……私も受験シーズンの時、一度は旅をしたいと考えたことがあるけれど、貯金を崩さないといけないと考えるとあまり気乗りはしなかったのを覚えている。
「そう言えばキミのそのモノクルは……なにか理由があるのかい?」
「え? あぁこれ?」
モノクル……と言うよりかは、片眼鏡と言ったところだろうか。
外してメガネ拭きでレンズを拭く。
拭いているその手を見つめる左目は、色を映していない。
「幼い頃から、左目だけ色覚異常持ちなの。色が見えなくて、白黒の世界になっててね。だから、色判別が出来る特注の……モノクル? 片眼鏡? をかけて過ごしてるの。これのせいで、よく虐められたものよ」
「……」
「私、妹がいるんだけど、そっちの方は生まれつき目が赤くて。学校でも私と同様に虐められたりしたらしいけど……なんせ妹の方がメンタルが鋼でして。メンタルお豆腐な私は逆に妹に泣きついてた時があったわ。今思えば、凄いくだらないことで泣いてたんだなぁって笑えるけどね」
「な、なんか申し訳ないことを聞いたね……」
「ん? いいのよ別に、もう何年も前のお話だから」
「何年も前? ……失礼、柚羽ちゃん何歳?」
「二十二」
「え? ボクよりも年下」
「えぇ……葉っぱさん何歳よ……」
「ボク三十歳」
「ちょっと待ってうちの有剛先生と同じ年齢じゃない」
八つも歳上なのこの人。いや全然そうには見えない。もっと言えば有剛先生と同じくらい若く見える。というかそれよりも全然若く見える。
なにこれ怖い。
「それは偶然だねぇ、どこかで会ってるかもしれないね?」
「いやいや流石にそれは無いでしょ……」
「あるかもよー? 有剛って苗字、ボクは聞いたことがあるからねぇ」
「えっもしかして会ってるんじゃ」
なんだこの人、色々とすごい人だなぁ。
「……キミのことを話してくれたなら、ボクのことも話さないとねぇ」
そう言ってカバンから取り出したのは、一つの端末。
とある画像を見せられ、キョトンとしながらモノクルをかけた私はそれをよく見る。
「……写真?」
それは紛れもない写真だった。
見たことの無い、小さな白くて丸い生き物を抱いた若い女性が映っている。
その表情は、見るまでもなく幸せそうだ。
「この方は……?」
「オスカー=クロムウェル。僕を作った人さ。抱かれてるのはボクだよ」
「へぇ〜作った……ん?」
作った?
この人は今そう言わなかったか?
……彼の言っていることが本当ならば、葉っぱさんの本当の姿がこの……葉っぱを頭にのせた生き物で、それを作ったのが彼女、オスカー=クロムウェルという人物……という解釈であっているのだろうか?
「そ。ボクは人外。出会った人にしか話してないんだ」
「まさか人外を拝める日が来るとは……私地球外生命体大好きなの……」
「おや? それは光栄だねぇ、未来人からしたらとても嬉しい言葉だよ」
この日本には、朱雀のように異能力を持った能力者や、この人みたいに人外だったり、実験台にされた人、そんな人々が一般人に紛れて暮らしている。ちょっと変わった所だけど、能力や人外といった事実には絶対に刺激しないようにと法律で決まっている。
『まもなく、木曽福島……、木曽福島です。お出口右側三番ホームの到着です』
木曽福島駅に着くことを知らせるアナウンスだ。
「あ、降りる駅だ」
「早ない?」
いつの間に一停車分話していたんだろうかという具合にまで時間が経過している。とはいえものの二十分くらいだが。
「ボク、この駅から折り返して奈良井まで行くんだ!」とカバンを持ち、彼は立ち上がった。
「キミと話せて楽しかったよ! ありがとう柚羽!」
「こちらこそ! 旅しとんなら、また会えるといいとね!」
握手をしたあと、彼は笑顔で扉の方へと向かっていった。
なんか、すごい不思議な人……いや、人外だったかも。まさか人外を見られるとは思わなかった。こう見えて私はオカルトチックなところがあったりするので、ああいう生物を見られるのはとても嬉しいことであった。
「さて、と」
電車はゆっくりと速度を落とし、やがてホームに停車する。すぐ側のホームにある階段付近で、忙しなく移動する葉っぱさんの姿が見えて少しクスッとしてしまった。
「あんなに慌てて、そんなに急いでる用事あるのかな?」
そういえば奈良井と言えば、奈良井宿があることで有名だっけ。
大学の後輩の誰かが奈良井宿を訪れて、鎮神社の奥に行こうとしたら、霊感の強い子に『行かないでおこうダメだあっちはいけない』と、必死に止められたとかなんとか。まぁ、その人が言うならそうなんだろうと諦めたそうで。
「不思議なこともあるものねぇ~。私も霊感はあったけど、最近はめっきり見えなくなっちゃったし」
開きっぱなしの本を持ち上げ、また続きを読む。
『星狸のすぐ側にね、日記が落ちていたの。拾い上げたけど、結構年季が入っていたもので。所々が色あせたり破けかけていたりしていて、まるで焼いた跡のようだった』
日記。実家にいる時、つけていたっけ。私がもし死んでもいいようにと、ずっと書き残していた日記があったはずだ。星狸、というのは恐らく彼女のSNS上での名前だろう。つい最近、調べたら同名のアカウントが出てきたのを頭が思い出させてくれた。
そうしてゆっくりと読み進めていく毎に、物語の歯車が動き出していくのを感じていた。霙の本は、セリフよりも文章が多いと感じる。その文章の殆どは、テーブル、扉、針金、鍵……といった、情景、景色、光景、フラッシュバックなど一人称視点での『目で見えた』ものが細かく文に刻まれている。
読んでいてとても面白い。針金は鍵あけに使われ、テーブルを動かせばスイッチが現れ、まさにからくり屋敷と言ったところだ。
実体験などとても信じられなかった。まだ午前中なのに、夜の空間にいる感覚で、世界観に引き込まれてしまう。
「どうしたらこんなにすごい小説が書けるの?」
呟きながら、また読み進める。
そうしてあっという間に時は過ぎ……時は十二時を回る五分前、名古屋に着くことを知らせる車掌アナウンスが私の耳に入ってきた。小説を仕舞い、荷物を整理して席を立つ。いまだ揺れる車内でバランスを崩しかけるも、どうにか耐えて扉の前まで来た。
扉付近には数名の人がいる。皆この駅で降りるんだろう。
そしてこの時の私は全く予想だにしていなかった。まさかあの子が来ていたなんてと。