秋/一葉の夢
その大学は、一つの都市と言っても良い様相を帯びていた。巨大なキャンパスの中にはいくつもの食堂や喫茶店があり、書店も雑貨屋もあった。
建物はどれもその大学出身の建築設計技師の手によるもので、同じ形をしているものは二つとない。
思いもよらない所に通路があったり広場があるので、学生たちはそうした所で時にパフォーマンスに興じ、時に食事を取った。
ここはまるで小さな宇宙だね、と彼は言っていた。ここには一つの世界が完結している。老いも病人もいない世界。
何年かすれば住人は住む権利を失い、この世界の外へ出なければならないのだが。欠員は常に補充され、住人は毎年入れ代わっていく。
いずれはわたしも、ここから出なければならなくなる。その時はまだ来てはいないが。
中世の都市に似ているな、とふと思う。学部によって別れている校舎。長く伸びる通り。入り組んだ道。
必要なものは過不足なく手に入るように配慮され、ここの住人であるというパスポートがなければ出入りは許されない。この学校には目に見えない城壁が張り巡らされているのだ、遠い昔の城塞都市のように。
ドーリア風の柱が連立し、周囲を囲んでいるちょっとしたスペースで、わたしは昼食を取った。木立から風で飛ばされた葉が、時折目の前にまで落ちてきた。
この学校の事を小さな宇宙だと評した人物はこの間まで、ここでわたしと一緒に昼食を取っていた。けれど今は、わたし一人だ。
ここが狭苦しいと彼は言った。他にやりたい事を見つけたのだと。このままここにいると息がつまると。
世間では中退、と言うのだ。
誰もが彼の事をドロップアウトしたと思ったようだ。馬鹿な事をしてと言う人の評価も聞いた。けれどわたしはそうは思わない。
彼が他にやりたい事を見つけたと言うのなら、それは本当にそうなのだ。そうして彼はこの閉ざされた幸福な世界から、他の人間よりも早く出ていく事を選んだ。
それだけの話なのだ。
風が落ち葉をくるくると回し、わたしの足元にまつわりつかせた。小さなつむじ風の中で落ち葉たちは踊っているかのようだった。
風の精霊が踊っている印だよ。
そう話した事を思い出す。笑いもせずに彼は聞いてくれた。お義理でだったとしても、彼だけが「ロマンチスト」や「空想的」の一言で片づける事なく、それなりに真剣に耳を傾けてくれた。
あまりにも違いすぎるわたしたちの関係に、皆首をかしげたが、わたしたちはいい友人だった。
ここを出てからの彼の消息はわからない。恋人にも連絡が途絶えがちになったのだそうだ。それなりに頑張っているのだろう、そう思うしかない。
いつか、また出会う時があるだろう。その時わたしは、彼は、どうなっているのか。
わたしの道は、彼とは違う。
ゆっくり歩いて、試行錯誤を繰り返しながら進む人間だ、わたしは。やりたい事と進むべき道は未だおぼろでしかないが、それは彼とは違い、彼の進み方とも違う。
けれどいつか、と思う。いつか。進んでいれば出会う事もあるはずだ。
それまではわたしはここで、話し相手のいなくなった昼食時を、彼の言葉を思い出しながら過ごすだろう。
風の精霊がわたしを巻き込んで踊ろうと誘う。わたしは軽く片手を上げてそれを断った。残念そうにつむじ風はわたしから離れ、落ち葉をくるくると踊らせた後、ふい、と踊りを止めた。一筋の風になって吹き過ぎていく。
たくさん踊っていた落ち葉の中から、一枚だけがその風について遠くへ飛んだのは、その時だった。滑るように宙を飛び、けれどもやがて力尽きたように地面に落ちた。
わたしたちも、この落ち葉と同じなのかもしれない。
風に吹かれ、くるくると踊らされて、最後には地面に落ちて動かなくなる。そうして誰かの足に踏みしだかれ、塵へとかえっていく。わたしたちの人生は、そうしたものなのかもしれない。
そんな中でただ一枚、風について飛ぼうとした落ち葉は彼のようだった。たとえ行き着く先が同じだとしても、結局は地面に落ちる他はないとしても。それでも飛び出さずにはいられなかった。ついていかずにはいられなかった……あの風に。
空になったサンドイッチの袋をくしゃりとつぶし、わたしはゴミ箱に放り込んだ。
その夜、家に帰ったわたしは彼からの葉書を受け取った。ぶっきらぼうにただ一言、『元気でやっている』と記されていた。
脳裏に行き過ぎようとした風について飛んだ、あの落ち葉の事がよみがえる。口元に微笑が浮かんだ。彼はまだ、飛んでいる。
わたしの方はもうしばらく、風のたまり場でくるくると回り、踊り続けなくてはならないが。
たとえ一枚の葉にすぎないとしても。どんなに力弱いものに見えようと。どんなに小さな、くだらない動きに見えようと。
木を離れた葉も夢を見るのだ。
わたしもまた、その時が来れば。力の限り飛ぶだろう。