夏/幻惑の並木
ひいやあ、と笛の音がした。
私は並木道の真ん中に立って、自分の両側に消えていく道の果てを眺めていた。何もかもが白く色褪せて見える、夏の日の午後。
緑が騒がしい。
呼吸するのも困難な程覆い被さる、だるさを含む濃い大気。それは狂気の予感を孕んでいる。騒がしい。騒がしい緑が私を取り巻く。
通りには誰もいない。
ふっと私は息をついた。こんな濃い夢を含む大気には耐えられなかった。額に浮いた汗を手で拭う。白っぽく見えるこの風景と共に呼吸している事も、人にはまた苦痛だった。歩き出そうと思い、一歩踏み出す。
その時、笛の音が響いた。
同時にどこか透けて見える、白装束の異類・異形のものたちが、どこからか聞こえるどらや太鼓の音に合わせ、踊りながら私の前を通り過ぎて行った。
奇妙にゆっくりとした動きだった。そこだけ時間が違っているような。
ひいやあ、と笛の音が響き、遠ざかる彼等はそして消えた。出現と同じに唐突に。奇妙な出現。奇妙な消失。騒がしい緑。幻想の騒がしい夏の午後。
歩き出そうとした私は、手にしていたスケッチブックを取り落とした。ばさりと紙がめくれ、はさんであったメモや走り書きの類の用紙が飛び散った。
私は身をかがめてそれらを広い集め、なくしたものがないかどうかを確認した。落としたものは全て拾ったのだが、一つだけなくなっているものがあった。
百鬼夜行絵巻。先程図書館で写してきたはずの、妖怪たちの図画がなかった。行列を組んで踊るユーモラスな、室町時代のもののけたち。
描いておいたはずのページは、真っ白になっていた。
※「百鬼夜行絵巻」……妖怪たちの絵巻。京都・大徳寺、真珠庵に蔵されているものが有名。作者不詳、室町時代のものとされている。