春/桜幻想
今でもあれがどういった時間だったのか、よくわからない。
その中学校の裏には、小高い丘があった。草や灌木が手前勝手に茂る人気のない道――ほとんど獣道なのだが――を登ると、息をつきたくなった頃に、小さな広場にたどり着く。
そこには樹齢をゆうに百年は越しているだろう、桜の老木が一本ある。
春には花をつけ、風が吹くと雪のように花びらを散らせる。中学校の生徒たちはしかし、皆この場所を知らず、(生い茂る草木がカムフラージュの役目を果たしていたのだろう。それにけっこう急な勾配だったので、登ろうとする物好きもいなかった)そこは私の密やかな憩いの場と化していた。ちょっとした休み時間の息抜きや授業のエスケープに、私はこの場所を利用していた。
そんなある日。ひざしの暖かい春の日に、昼休みをその場で過ごそうと、私は獣道を通って桜の木の元へゆっくり登っていた。背中に当たる陽光はシャツが汗ばむ程で、やっと広場近くに来た時にはすっかり疲れてしまっていた。あと一息。そう思って立ち止まり、私は何気なく草木の間から桜を覗き見ようとし……、
それを見た。
一面の桜吹雪。
桜。桜。雪。けぶる雪。光の笑い声の如き、さざ波。
その中で舞う少女がいた。
くるりと回るとひらりとセーラー服のスカートが広がった。淡い薄紅の光の雪の乱舞に、紺色のセーラー服の少女が踊る。ゆるやかに……。
ゆるやかに。
軽く片手で裾をつまんで少女が回る。風が彼女を追いかけた。老木が花を降らせる。光と共に、祝福と共に。
不思議な光景だった。不思議な空間だった。ただ某として、私はそれを見つめていた。美しくただ不思議で、心打たれる光景。舞い散る桜、踊る少女。ゆるやかに、ゆるやかに、ゆるやかに……。
やがて少女は動きを止めた。静かに老木に礼をする。
私ははっとなった。このままここにいれば、彼女にここで見ていた事を気付かれてしまうだろう。
奇妙な罪悪感が広がり、私は急いでその場を離れた。見てはならないものを見てしまった、その思いが胸にあった。あれは桜と彼女との時間、他者には気付かれてはならない空間だったのだ……そんな思いが。
その時昼休み終了の鐘が鳴った。私は慌てた。学校に戻らなければならない。
と、背後から足音が近づいて来る。私は反射的に木立の中に身をひそめた。女の子が一人、校舎に向かって駆け降りていく。彼女の姿が消えてからもしばらく、私はその場を動かなかった。
そして私は次の授業に遅刻した。