紀元前1世紀、古代ローマ ~ローマ人の生活~
◆はじめに
本エッセイは紀元前1世紀頃からの古代ローマの様々な出来事から『ローマ人の生活』について考察していきます。
なお、出来事以外は考察ですし、物語風に出来事をえがいている場面もあります。その点にはご注意ください。
また、蛇足に蛇足を加えまして長々と書くことについてもどうかご容赦ください。
参考として、ここでは紀元前100~0年位の紀元前1世紀を扱います。時代で言えば共和制末期から帝政初期に当たる時代となります。世界史を勉強している人はこの辺りについても学んでいるかと思いますが、今回はもう少し深掘りしたいと思っています。
この時代を生きた主要な人物、いわゆる有名人は、マリウス、スッラ、ポンペイウス、クラッスス、カエサル、キケロ、カトー、アントニウス、ブルートゥス、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)という方々。他にも多々いるかと思いますが挙げるとキリがないので省略します。
上に挙げた人々は本エッセイで何度も取り上げているため一応先に書いておくこととします。
また出来事を中心に記載されている本エッセイの参考書籍としては、邦訳があるものでは、
・プルターク『プルターク英雄伝』
・スエトニウス『ローマ皇帝伝』
・パテルクルス『ローマ世界の歴史』
・カエサル『カエサル戦記集』
・キケロのキケロ書簡各種(色々な形で刊行されています)
・モムゼン『ローマ史』
などで、
邦訳はないにしても英訳があるものは、
・ネポス『英雄伝』(※邦訳もあるみたいです)
・ディオドロス『歴史叢書』断片ですが37~40巻辺り
・アッピアノス『ローマ史』
・ストラボ『歴史』
・カッシウス・ディオ『ローマ史』
などです。
ほかにも当時の生活様式や教養を知る上では様々な著作、石碑、モニュメント、パピルス、論文などがありますが、ここでは省略させていただきます。
因みに、塩野七生『ローマ人の物語』は物語としての色は強いものの、読みやすくローマを知る導入本としては大変おすすめです。(ステマとかじゃないよ!)
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◆1、紀元前100年頃
1-1、ローマに関わる人々
早速ですが、ローマの市民に与えられていた『ローマ市民権』について、紀元前100年当時(それより少し前)の状況から概説していきましょう。
まず、当時のローマに関わる人々を大きく4つ(3つ+奴隷)に区分してみます。
○ローマ市民
『ローマ市民権』を有する、主にローマに住む人々(ローマ以外に住んでいる人でも上に書いたマリウスやキケロのように『ローマ市民権』を持つ者もいました)。なお、ローマに住んでいる人であっても女、子供、奴隷にはローマ市民権が与えられませんでした。それはローマが家父長制度を採っていたからであり、女、子供を外国人のように扱うかと言えばそういう訳ではなく、彼女、彼らもまたローマ人としてローマの法の下生活しておりました。
○ラテン同盟市民
ラテン同盟としてローマと同盟を結ぶ国々に住む人々。主にイタリア半島のローマ以外の全域に住居を持ち生活を営んでいた人々。属州ではなく、ローマの同盟国であり、属州を外様としたら譜代の立場となります。
○属州民
第一次ポエニ戦争以降ローマに戦争で負けた属州の民。紀元前100年当時では、シチリア、コルシカ、サルディーニャ、ガリア・キサルピナ、ヒスパニア・キテリオル、ヒスパニア・ウルテリオル、マケドニア、アフリカ、アジア、ガリア・ナルボネンシスという10の属州が存在しています。
○奴隷
ローマの奴隷は非常に多く、その働き先も色々とありました。特に戦争で多くの勝利を得続けたローマにとって当時は奴隷過多とも言える状態で、ローマにはローマ市民より奴隷の方が多かったそうです。その仕事は様々で、農奴に始まり、家庭教師や従者など多岐にわたりました。
さて、この前三者についてですが、紀元前100年より古い時代の『ローマ市民権』は軍の中心部隊を担う重たい兵役の義務が課される代わりに生活に関する税が課せられていなかったり(奴隷解放税などはあるので完全無税ではありません)参政権を有していたりとローマ法の庇護を受けられるバランスの取れた物でした。なお、この『ローマ市民権』には特に上下の区分などはなく、ローマの市民(成人男性)が一律に義務と権利を有するものとしてローマ市民の象徴でもありました。
一方で、イタリア半島におけるローマの同盟諸国は限定的なローマ法(参政権がないだけでローマ市民権とほぼ同じだったり)の下に置かれつつ、義務としては徴兵に応じる必要やローマ市民と同程度の課税のみがあったようです。
そして、最後に属州に限っては兵役の義務がない代わりに税が課せられていました。この税については属州によって変わったようですが10分の1税が有名でしょう。属州の扱いはケースバイケースで、ラテン同盟の権利同等のものが与えられている属州もあったようです。
1-2、ローマ市民の身分
ローマの市民達は一応、貴族と平民に別れてはいたものの、この頃となると古くからの一族が貴族、それ以外が平民という曖昧な区別しか出来なくなっていました。
実際本エッセイの初めに名前を挙げたマリウスやキケロは平民出身で執政官に登りつめ(執政官はローマの首相)、同じく執政官を務めたアントニウスやポンペイウス、更には皇帝となるオクタヴィアヌスだって貴族の家系出身ではなかったのです。さらには貴族であるカエサルはスブッラと呼ばれるスラムのような所で暮らしていました。
つまり、この頃のローマ貴族とは名ばかりで実が無いものがほとんどでした。
以下でもこの貴族とか平民とかという階級について私はあまり気にせず使用しています。読者の方々も平民=低所得者層くらいの考えで読んで頂けると幸いです(カエサルを見るとそうとも言えなかったりしますが……)。事実として貴族や平民という階級社会はこの頃にはあまり意味のない言葉でしかなかったためです。
一方で奴隷の身分もまた曖昧で、農奴のように地方で大規模農園で一生を終える者もいれば、主に忠実に仕え奴隷でありながら徴税官などの役人身分になる者もいたり、家庭教師としてしばらく働いた後(当時は基本的に奴隷が家庭教師としてローマ人の子供を教育していました)解放され、ギリシャなんかで学校を開いてみたりする者がいたりと様々です。
なお、当時のローマはあまりに奴隷が多すぎて仕事を奪われた農家は立ち行かなくなっていました。このためローマには奴隷よりも貧困な借金を負う者や無生産者が多かったそうです。
加えてローマ人はアテネやスパルタなどのギリシャ各国と比べると奴隷解放に熱心でした。税が掛かるにも関わらずローマ人が奴隷を解放した理由は奴隷が多すぎたためでもあったのでしょうが、解放された奴隷はその後も主人の庇護下の元生活し、ローマ市民権を得られたので、主の後援者となることが普通だったためです。
1-3.マリウスの軍制改革と『ローマ市民権』の変化
上では『ローマ市民権』や『ローマ市民』について述べましたが、実は紀元前100年を前に当時のローマの将軍マリウスにより、『ローマ市民権』に大きな影響を与える軍制改革が行われました。
それは、ローマ市民に課せられていた義務である軍役を徴兵制から志願制へ変更するものでした。これは当時のローマ市民にとって大変大きな改革となったのです。
何故ならば農家からは軍隊に人を出したくなく、ニートや借金に苦しんでいた者にとっては公務員への道が開かれたからです。更にはマリウスのように軍隊で成果を出せば、ローマの最高権力者までのしあがれるという希望でもありました。
こうして『ローマ市民権』に課せられていた重要な部隊を担う兵役の義務は無くなってしまったのです。そう、これが数年後の大混乱を引きおこしてしまうとはつゆ知らずに……
因みに、いわゆるローマ人の中でも金持ちや権力者もまたこの改革により軍隊へ入隊しなくなったかと言うとそういう訳ではありません。彼らは“持てる者の義務”という矜持がありました。また、軍隊は政治と深く関わるのは先のマリウスからも理解出来ると思います。つまり、高所得者層や有力者にとってはそんなに影響がなかった改革でもあったのでした。
◆2、紀元前90年頃
2-1、護民官マルクス・リーウィウス・ドゥルスス
ローマの市民ドゥルススは誇り高い平民でした。彼の就いていた『護民官』は元老院と対を成す、平民、低所得者層のリーダーでもあったのです。
彼ら護民官は元老院を通さずにローマの法律を作る権利を与えられていて、それは執政官、元老院と並ぶ強い権限でした。
一応言っておくとドゥルススの父親は元老院議員です。と言うか、執政官さえ務めたことがあります。ですがここではその息子ドゥルススは平民としておきます。幼くして両親を失ったカトー(最初に書いたこの1世紀の有名人)達を引き取って養育していたのでぶっちゃけお金にも困ってなかったと思いますが、皆様も私の書く平民とか貴族とかの階級は適当ですのであまり気にしないでください。
さてこのドゥルスス、護民官権限で法律を作れることを良いことにイタリア全土の住民(ラテン同盟市民)に『ローマ市民権』を与えちゃうよ! という法律を作ろうとします。この時は兵役の義務がなくなりメリットしかなかった『ローマ市民権』をラテン同盟市民は欲しがっていたのです。
これに大反対なのがローマ元老院。保守的な彼らは既得権益を失うこと、現状に変化をもたらすものが大嫌いでした。ローマ市民が増えることもきっと彼ら自身の政治基盤を揺るがしかねないと思ったのでしょう。
しかしながら弁舌に長けたドゥルススでしたので、熱狂的な平民の支持を得ていたようです。また、イタリア全土のラテン同盟市民達も徴兵のない『ローマ市民権』を得るために熱心に活動していました。
そして、そんなドゥルススはとうとう元老院に危険視されてしまいます。
法案が可決しそうだったのでしょう……結論として彼は法案ができる前に殺されてしまったのです。暗殺でした。
当時4歳だったカトーとその兄弟は無情にも再度親を無くすこととなったのでした。
2-2、同盟市戦争
衝撃はローマを越えてイタリア全土に波及しました。
そして、『ローマ市民権』を与える気のないローマに対しラテン同盟市民達は決起したのです。
中心人物となったのはクイントゥス・ポッペディウス・シーロー。彼は殺されたドゥルススの友人でもありました。一方でシーローもまたラテン同盟市民であり、『ローマ市民権』を得たいと考えていた一人でした。
こうして始まったのが同盟市戦争です。
今まで数百年ローマと一心同体に戦っていた人々がローマに刃を向けたのです。彼らはイタリアという国の建国を宣言し、軍隊も更には政治でさえもローマを模した国家を形成しました。
この戦いには既に年老いたマリウス、そのマリウスの副官として名を馳せたスッラ、他にもアントニウスの祖父、ポンペイウスの父親などがローマ軍として参加していた。ポンペイウス自身もここで初陣として戦争に参加することとなります。
なお豆知識ですが、多くの書物、果てはWikipediaにまでこの戦争を終わらせた90年の執政官であるルキウス・ユリウス・カエサルはいわゆる偉人カエサル(最初に書いたこの1世紀において最も著名な人物の1人)の叔父であるかのように説明されています。しかし、偉人カエサルの叔父は紀元前91年に執政官であったセクストゥス・ユリウス・カエサルであって、この点につき日本の和訳の上ではそこかしこに混乱が生じています。
それもこれもカエサルという名字やユリウス氏族が同じという点が悪いのでしょう。因みに私がカエサル(最初に述べさせてもらった偉人カエサル)と言ったらそれは“ガイウス・ユリウス・カエサル”のことを指していますのでご注意下さい。
2-3、戦争終結と『ローマ市民権』
結局、カエサルの叔父ではないものの何かしらの血縁であっただろうルキウスによって同盟市戦争は無事終結しました。
彼が執政官として「ユリウス法」を成立させたからです。
この法律はドゥルススが作ろうとしていた法律そのもので、イタリアのラテン同盟市民に対し『ローマ市民権』を与えるというものでした。
この法律の影響は大きく、ローマに抵抗を続ける者は次第に減っていくこととなりました。
結局の所、ラテン同盟市民はほとんどローマ人でした。これは戦争中の政治方法を見ても軍隊を見ても言えることですが、文化的な差異は数百年という時間の間で既に失われつつあったのです。
彼らはそれまで、所有資産によって軍の各所に配属される『ローマ市民権』にそこまでメリットを感じていなかったのですが、マリウスの軍制改革以降は熱心に『ローマ市民権』を要求しました。そして、それが得られれば何の問題もないと戦争を終えて、その後は1人のローマ人として生活することとなったのです。
この戦争はほとんどローマ人の内戦であり、ドゥルススやシーローの死を越えてイタリア半島全ての民にローマ市民権が与えられるという法律が制定される結果をもたらしました。
◆3、紀元前70年頃
3-1、剣闘士
彼ら剣闘士は、その名の通り剣を持って闘う者たちでした。主に奴隷(と少数の自由民)から成り、見世物として闘いに明け暮れました。
テレビもケータイもないローマにおいては戦車競争や剣闘士試合が娯楽であったのです。それはかなり熱狂的でこの時代の少し後にはいまだに残るコロッセオが作られることとなるほどです。
これはローマ市民の堕落ともとられ、『パンとサーカス』はコロッセオで無料配給されるパンと市民に無料で開催される見世物を指しているとも言われています。
食物は奴隷が作り、属州からも税を得ていた当時のローマは大変裕福でした。先の同盟市戦争の後、ローマを支配したスッラに従っていたクラッススもまた、スッラの下で多くの資産を得た一人のローマ人です。スッラ亡き後の当時のローマでは軍事ではポンペイウスが、資産ではクラッススが有名人でした。
因みにクラッススは鉱山の経営を奴隷に任せて金を得ていますが、当時の奴隷の多様性がここにも垣間見えています。
さて、一方で奴隷が大量にいたことは先に延べましたが、ローマは奴隷剣闘士についても多くを抱えていました。
その中の1人、スパルタクスはローマから遥か東方にあるトラキアの出身で、闘いにおいても精強さを有している奴隷剣闘士でありました。
話はこの奴隷剣闘士スパルタクスが奴隷を率いて剣闘士養成所を脱走するところから始まります……
3-2、奴隷達の反乱
奴隷達の反乱は今に始まったことではありません。ローマは過去に2度奴隷達の反乱に会っており、今回が3度目にあたりました。
最初こそスパルタクスの引き連れた反乱奴隷集団は百人程度だったわけですが、追ってくるローマ人の民兵達を撃退する内に膨れ上がり、最終的に十万人以上の脱走奴隷が彼の元へ集まることとなります。勿論そこには戦闘が行える若い男だけでなく女子供さえ含まれていました。
軍団を率いて巧みにローマに戦勝を続けるスパルタクスは大きなカリスマを持っていたのでしょう。
彼は増えるばかりの脱走奴隷を連れながら、ローマ各地の都市を略奪して逃げ回りました。
そして彼らはとうとう執政官の率いるローマ軍団さえ撃退します。
この時、武勇に優れるポンペイウスはヒスパニアへ遠征していたため、参戦していませんでした。
ポンペイウスがいればまた違ったのかもしれませんが、ローマはこの剣闘士奴隷率いる奴隷軍団に散々に負けてしまったのです。
これだけローマ(イタリア)内をぐちゃぐちゃにされたのは数百年前のハンニバル以来であり、ローマ人達は大きな危機感を抱いていました。
ローマ人一家に1人以上はいたとされる奴隷ですから、この反逆は市民にとって大変な不安を生む出来事なのでした。
3-3、脱走奴隷達の行方
さて、クラッススは先に述べたように大金持ちです。
当時のローマは金にものを言わせれば私兵さえ持てたので、クラッススは金で雇った者達を率い、スパルタクスを討つことの許しを得に元老院へ出向きました。
既に執政官率いるローマ軍団でさえ破れている現状、ローマ元老院はポンペイウスの早期帰還を待っていたわけですが、クラッススが自費で戦うとの話を聞き、これ幸いとこのクラッススの話に乗ることとなりました。
一方で、脱走奴隷達の方はと言えば、彼らは何も生産的なことは出来ません。日々の糧はローマ市民の住む都市からの略奪で得ていました。
ただでさえ十万人以上の人々です。スパルタクス達は一路アルプスを越え北へ、ローマ(イタリア)からの脱出を目指して進軍していたのですが、その麓で一転ローマ中心地へ向かうように方向転換します。
奴隷は解放されさえすれば、元の主人の比護下の元ローマ人として生きて行くことが出来ました。
しかし、脱走した奴隷達は誰の支援も受けられません。土地もなく、むしろ土地だけがあっても十万人が突然生活することなど出来ません。
アルプスを越えた先はガリア。ローマ的に言えばいわゆる野蛮な人が部族ごとにまとまって生活している世界です。
彼らは、いや、もしかしたらスパルタクスだけかもしれませんが、悟っていたのでしょう。仲間の数が増えすぎたこと、そのために逃げた先でどうすることもできなかったことを。一時はクラッススの部隊を破り、シチリア島を占拠しようとも考えたようですがこれも上手くいかず……
彼ら脱走奴隷軍団はクラッススの部隊と2度目の激突をすることとなります。
馬にも乗らず、地をひた走り、スパルタクスはクラッススの部隊へ突撃しました。スパルタクスは武名を馳せたトラキア人という種族、大軍勢へも勇猛果敢に立ち向かいます。
一方でクラッススも一度受けた敗戦から私兵軍団を引き締めていました。
彼は金儲けは上手いものの、どうにも軍隊を率いるのは苦手だったようです。
しかし、軍功を立てることは権力への登竜門。彼は部下達に嫌われようとも次は勝たねばならぬと軍隊を強く強く引き締めていました。
スパルタクスはそんなクラッスス達兵士達の中へ突撃、多くのローマ人を骸へ変えていきます。しかし、やはり半ばヤケクソだったのでしょう。小隊長を二人倒したあと、スパルタクスはローマ人に囲まれ、そこで倒れました。
彼亡き後、脱走奴隷の行方は全員張りつけの刑だったようです。ローマ人は、いや、クラッススは脱走した奴隷を許すつもりはありませんでした。
3-4、その後の奴隷
その後のローマにおいては大きな奴隷の反乱が起きることはありませんでした。
何故か? 何かが変わったとすればそれはローマの拡大限界が既に近くローマ人に対して奴隷の比率がこれ以上増えなかったことにあるのだと私は考えています。
ローマは前述した通り奴隷の解放が盛んで、解放された奴隷であっても皇帝の元で働く閣僚(日本で言う大臣)になったり、果てはローマ皇帝を息子に持つことになったりします。
炭坑など特殊な状況下で働く奴隷(炭坑夫のことで、クラッススの奴隷のような鉱山経営者のことではない)や剣闘士を除けば彼らは比較的安全で、特に奴隷人口の多かった都市部ではそれなりの自由が与えられていました。
むしろ現代日本におけるブラック企業のサラリーマンの方が働いてるんじゃないでしょうかね? 過労死とか凄まじいし……
そう思うと、奴隷制度も問題視されてきたのだから今の日本の労働体制ももっと紛糾されるべきなのかもしれません。働き方改革とかあれ本当に意味あるのかな? 霞ヶ関周辺企業や従業員はむしろ残業規制で困ってますよ。
……はい、脱線しました。
兎に角、奴隷の生活はこれ以降反乱がなくなったのです。
キリスト教が波及し文明レベルが低下し農民が落ちぶれることとなる時代には奴隷のレベル以下の生活が待っているわけなのですから……
◆4、紀元前60年~紀元前40年頃
4-1、ガイウス・ユリウス・カエサル
お待たせしました。カエサルです。
この紀元前一世紀の時代においてはおそらく最も有名人であろう彼は、それまでクラッススに莫大な借金を負う債務者でした。
しかし、カエサルが40歳を超えたこの時代からそれは変わり始めます。
彼は『戦い』の天才だったのです。
当時はキケロが才能ある弁論家、カトーは生真面目で厳格な政治家として元老院には才能ある人々が溢れていました。
ポンペイウスやクラッススもまた武と金の点でそれぞれ最高峰の名声を得ており、そんな中一応元老院議員であるカエサルは借金までしてローマ市民のため色々な見世物を行ったりしていたので市民からは人気があるという程度の男でした。
しかし、その認識はとある出来事からガラリと変わることとなるのです。その出来事はガリアからもたらされた急報によって始まりました……
と、その出来事に入る前にここで少しだけ当時のローマの背景を説明します。
時は共和制末期。一応、共和制というのは王などを持たず、とある人々、または集団でもって国家運営を行う政体のことです。当時のローマに王は存在せず国家元首は年に二人選ばれる執政官が務めていました。元老院や護民官もまた強い権力を持って国家運営していたわけですけどね。
しかしながら、当時の元老院の中でも護民官よりの市民派と元老院こそ至高という元老院派に派閥が別れていたのです。
キケロやカトーは元老院派、カエサルは市民派でした。クラッススとポンペイウスはどちらとも言えませんが、戦争に強いことは市民、元老院に限らずローマに勝利をもたらすものとして万人から人気がありました。
4-2、ガリア
蛮族。ローマ人にとってアルプスより北方(現在のフランスやドイツ)に住むガリア人はそんな認識でした。
彼らにローマ人は度々苦しめられており、これを制したカエサルの叔父マリウスはそのお陰であれほどの権力を得たのです。
そして、今度はその役割が叔父から甥へ半世紀を越えて受け継がれることとなりました。
詳細は『ガリア戦記』に書かれていまして、ここに8年に及ぶガリアでのカエサルの活躍を載せることはあえて省略させていただきます。
結論から言うと広大なガリアの地域の全てをカエサルが平定することとなります。この戦争では、部下としてキケロの息子やクラッススの息子、それに加えてアントニウス等も活躍していました。
そして、この戦争の影響はローマ市民を熱狂の渦へ巻き込むこととなりました。
戦争に勝つことは奴隷や属州を生み出し、ローマに大いなる利益をもたらすものですが、それ以前にローマ人達の自尊心を大いに満たすのです。
そして、ガリアを征したこのカエサルの功績は軍事で万人の人気を得ていたポンペイウスに並ぶほどの名声をもたらしていました。
これに危機感を覚えたのは元老院に他なりません。カエサルは元老院派に敵対している市民派だったのですから……
4-3、内戦
こうも時代の流れをアッサリと書いていくと、内容が薄くなってしまいそうですが、簡単に書くとガリア戦争が終結した後のこの時代のローマはカエサルを筆頭とした市民派、ポンペイウスを筆頭とした元老院派に別れ、ローマとその周辺において戦いを繰り広げることとなります。
そう、カエサルは元老院と戦うことを決めたのでした。彼はその戦いに足を踏み入れる時『賽は投げられた』と言ったとか言わないとか。
兎に角、この戦いはローマを二分しました。
ここで、元老院派は平民である多くの庶民を仲間に出来ないから戦争しても人数的にアッサリ負けそうだな、とお考えのあなた。そうはいかないのです。
当時のローマは保護者と後援者というご恩と奉公の関係が強かったのです。
これは先に述べた解放奴隷制度の一部でもあるのですが、別に奴隷に限らず家と家の関係においても成り立っていました。
つまり、金や権力を持っている保護者としての元老院達には多くの後援者がいたのです。
これら元老院とその後援者達すべてとカエサルは戦うこととなりました。
包囲をさらに包囲されながらも戦う二正面作戦とか、クレオパトラとのエジプト攻略とか、まぁ、色々とありました。
結果としてカエサルの勝利で終わり、ポンペイウスやカトー達元老院派は負けたのです。
しかしながら、カエサルは自身と戦った多くの者達を許しました。
今回は外敵でも奴隷でもなく、同じローマ人同士の戦いだったのです。キケロも元老院派の1人でしたが、許され、カエサルの治世下においても元老院議員に復権しています。
4-4、カエサルの治世下
カエサルの治世の下、ローマは変革の時期にありました。
一応、この時のローマは共和制を貫いていましたが、執政官には常にカエサルが選ばれ、元老院の長としてもカエサルは立っていたのです。
民衆からの支持も厚く、実質的には彼の治世から最早ローマはカエサルを皇帝とする帝政に移っていたとも考えられるほどです。
以下で、彼の行った行政と当時(紀元前40年代)のローマ人の生活を述べてみます。
・小麦法の確立
これは以前からあった法律で、市民達へ小麦を配給したり安く卸すという福祉法案でした。
これまでに色々と法律に変遷があり、一応紀元前100年以前に制定されたのですが、元老院派だったスッラに潰されたり、スッラが死ねば護民官がもう一度制定し直したりと時代によって動きがありました。
当時のローマ都市部のローマ市民権所持者人口は内乱により激減しており、カエサルは無料配給する人口を32万人から15万人に引き下げたそうです。これ以後、小麦法は福祉法案としてローマの法律に根付きますが、民衆派だったカエサルが配給を半減させることとなるとはよっぽどの人口減少が起きていたことが伺えます。
・解放奴隷への公職門戸解放
奴隷が国政を担うことは今までのローマではありえませんでした。徴税官などの役職はあくまで属州総督の下の仕事なので奴隷でも可能でしたが、執政官や元老院、法務官や財務官や監察官や按察官などの公職には解放奴隷が参加出来なかったのです。
しかし、奴隷も解放されれば1ローマ市民。カエサルは能力主義を採用し、公職に解放奴隷が就けるようになったのです。
・ローマ市民の拡大
カエサルは教師や医師にローマ市民権を与えることを決定しました。これはローマ人に何の関係もない高名なギリシャ人や知に長けたアレクサンドリアの人々をローマ人化させることとなり、ローマの学力、医学を向上させる効果がありました。また、ガリア・キサルピナ属州民へのローマ市民権付与やシキリア属州へのラテン同盟権の付与など、属州をローマ寄りに引き上げる政策を採用した他、蛮族と呼んでたいたガリアの族長達の多くをローマ元老院議員として迎え入れたのです。
他にもユリウス暦の制定や劇場・フォルムの建設、公共事業などをどんどん推進して行きました。
カエサルは終身独裁官としてローマの政治を1人で担い、元老院と護民官の権威は失落。共和制末期のこの時代はローマが一気に帝政へと進んでいた時期となります。
◆5、紀元0年
5-1、アウグストゥスの治世
一気に時間が進みます。この間の出来事としてはカエサルがブルートゥスらに暗殺され、カエサルの部下であったアントニウスとカエサルの甥であったオクタヴィアヌスが争い、そしてオクタヴィアヌスが勝ったことで、彼の治世の下ローマが発展していった経過がありました。
ただし、この辺りはまたもや内戦であり、ローマ市民の生活に大きな変化をもたらした訳ではないため上に書いた簡略なもので済ませてしまおうと思います。
大きな変化があったとすればそれはアウグストゥスの治世下、彼の制定した法案の数々とローマ人が享受した平和に由来する変化かなと思います。
以下ではまず当時のローマ市内の人口を述べた後、その人々が堕落していったという変化を取り上げることで本エッセイを締めくくっていきたいと思っています。
5-2、ローマの人口
さて、ローマ人とは何を指すのか、ここではローマ市民権を有する者として一旦話を進めて行くこととします。先に書いた通り、ローマ市民権を有するローマ人の人口は幾度もの内戦で度々減少してきました。ですが、この紀元前一世紀の間にローマ市民権を持つ人々は溢れかえりローマ市外にも多く生まれることとなったのです。
それは同盟市戦争を経てイタリア全土へ、カエサルの政策によってガリア・キサルピナや教師、医師に広く配られたためです。
突然ですがここで一つ、古代ローマの役職を紹介しましょう。
その役職はケンソル。ラテン語でCēnsor。日本では監察官とも呼ばれています。
彼らの仕事はケンスス、つまり国勢調査を行うことでした。
2000年も昔のローマでは国家が人口の把握をするため定期的に調査が行われていたのです。
この調査対象はローマ市民権保有者に限りますが、紀元0年当時においてのローマ市民権保有者は前後のアウグストゥスの調査結果より450万人程度だったようです。
ローマ市は百万人都市と言われますが、当時、ローマ市内のローマ市民権保有者は女・子供・奴隷を考慮すれば多くて20%ほど、例えばローマ市民権保有者が妻と二人の娘、17歳未満の息子に3人ほどの奴隷を抱えていればローマ市民権保有者の割合は一戸当たり13%でしかありませんでした。(ただし息子が成人すれば26%。)
ここから、ローマ市内のローマ市民が多くて30万人ほどだとしても、ローマ以外のイタリアや各属州に4百万人以上のローマ人が住んでいたこととなります。
5-3、ローマ人の生活の堕落
ここからは視点をたくさんのローマ人で溢れかえっていた当時のローマ市内へと向けましょう。
イタリア他各地のローマ人の方々には悪いのですが、ローマ以外に住む人々については資料が乏しいためお許しください。
後の詩人が言ったように、当時のローマは『パンとサーカス』、平和にかこつけて人々が堕落していった時代でもありました。
当時のローマはその長い歴史の中で最盛を迎えていました。GDPのレベルも以降18世紀になるまでローマ帝国初頭のレベルを超えることはありません。
これをもっと簡単な言葉にするならば、小麦法による配給は20万人に増え、定期的に有力者が金や食事・見せ物を市民へ配給し、更には保護者と後援者の関係も存続していたために、多くのローマ人が働かなくても生活できるようになっていたのです。
食事も世界各地の属州から取り揃えられた食材を元に豪勢な晩餐が家々にて毎夜行われていました。
ローマ人の食事スタイルは椅子に座ったり、こたつを囲んだりすることなく、寝転がって食事を行うもので、様々な料理を手づかみし、奴隷の髪で手を拭き、お腹がいっぱいにならないように嘔吐しては再び食事を続けていたのです。
主な炭水化物の摂取元である小麦もまたとても安価なものでした。
元々、大規模農園で大量に生産されていたこともありますが、この時代となるとシチリアに加え、エジプトもローマの属州に加わっています。ここからは毎日莫大な量の小麦がローマへと運ばれていたのでした。
リゾットのようなプルスと呼ばれる粥や、パン(当時はまだイースト菌がないので現代のパンとは異なります)が度々ローマ人の食卓に提供されましたが、パンの値段はおおむね2アス程度だったようです。
ローマ人の文化として公衆浴場も忘れてはなりません。
ローマ人は綺麗好き。毎日ガンガン薪を燃やして水道で引いてきた水を温め、公衆浴場は常にとても賑わっていました。さらに入浴料は4分の1アス。当時の最小通貨であるクォドランス1枚で入浴可能でした。日本でいったら1円玉1枚です。いや、さすがにクォドランスが1円とは言いませんが……
しかしながら、その4分の1アスですら有力者の気分で市民に無料解放し、テルマエ内でパンを無料配布していたわけなので、ローマ人たちは食べてはサウナへ行き、また食べては剣闘試合を観戦する堕落の日々を送っていたのでした。
皇帝アウグストゥス(オクタヴィアヌス)がローマの堕落を取り締まるため法律を作るも、自らの娘がそれを侵すという繁栄と堕落に溢れたご時世だったようです。
★物価
最後の方に古代ローマの通貨を出しましたが、1アスとか言われてもどのくらいの価値なのかいまいちわからないかと思います。
一応、金本位制度を採るならば、1アウレウス金貨は8グラムなので、現在の金相場で換算すると4万円相当となります。そして1アウレウス金貨=400アスであることから、1アスの値段は100円となります。一方で青銅相場で換算すると高くても10円ですね。
また、私がよく使用するLOEB叢書、その中の『The Res Gestae of Augustus』に付記された解説によれば、1アス=50円程度で計算されていました。
一応当時の物価を掲載しておきます。(アス基準)
・パン:2アス
・油0.4リットル:4アス
・娼婦のサービス:8アス
・小麦6.5キロ:12アス
・下着1枚:60アス
・全ローマ市民へ配られたカエサルの遺産:1,200アス(1人あたり)
・アウグストゥスが行った金配り:1,200アス(1人あたりで、彼の生涯において何度も10万人以上の人々へ行った)
・ローマ軍下級兵士の年間給与:3,600アス(衣食住つき)
・下級奴隷:10,100アス
・カエサルが戦勝祝いとしてローマ軍に配った金:50,000アス(1人あたり)
※下級兵士の10年間以上相当の金額にあたりますが、基本的に戦争に勝つと大将は兵士へ金を配ったためけっこう普通のことです。こういうボーナス込みでローマ軍は成り立っています。
・上級奴隷:400,400アス
・アウグストゥスが退職金のため個人支出した金額:6.8億アス
なお、当時は生活において現代ほど支出が無い点にご注意ください。
⇒各種税金、水道ガス光熱費、携帯・ネット代金など。