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後編




** 帰る場所 **




 青い空。

 さえぎるもののない視界に水平線が、どこまでも広がっている。

 白い石灰岩質の切り立った崖の頂上に立ち尽くして、褐色の瞳の若者が遥か眼下を眺めている。傍らに寄り添うのは、彼よりも丈の高い銀髪の男だ。男が、若者の手を握りしめた。

「ユウマ。そなたはこの場所が、とみに気に入っているのだな」

「ああ。アルバロ。なんでだろうな。空気に溶け込んでしまいそうなんだけど、海に飲み込まれてしまいそうなんだけれど、それが不安なんだけど、また逆に不思議と安心するみたいな、そんな変な気分になるんだ」

 緑青の水面と際限なく砕け散る白い波頭は見下ろしているだけで今にも吸い込まれそうだった。

「それは困る。そなたがいなくなれば、我は気が狂ってしまうだろうよ」

「あんたに黙って………いなくなったりしない」

「当然だ。そなたは、我の帰る場所。そなたにとっても、我だけが帰る場所であろう」

 きっぱりと言い切ったアルバロに、

「自信家だな」

 ユウマが苦笑する。

「当然のことよ。我はそなたを愛しているのだからな」

「俺も……」

 どちらからともなく、ふたりのくちびるが合わさってゆく。

 水平線のかなたから吹きつけてくる風が、ふたりの髪を、着衣を、はためかせる。

「海風は病みあがりのからだによくはなかろう。そろそろ家に戻るとしよう」

「ああ」

 振り返れば、白い岩壁とは対照的な赤茶けた荒野の只中に奇跡的な緑に包まれた灰色の石壁の家が見える。

 そこが、彼ら、ユウマとアルバロの、帰るべき家だった。




 それは、信じたくない光景だった。

 アルバロを銀の矢からかばいユウマが矢を受けた。

 矢は、まがうことなくユウマの心臓の位置を貫いていた。

 つい先ほど、たった一度きりのくちづけを交わしたくちびるが、彼を呼ばわりかすかに動いた。

 そうして、褐色の瞳は、光を失ったのだった。

「ユウマッ!」

 アルバロの魂消えるような絶叫が、その場にこだました。

「アルバロっ! どうした」

 肩を揺さぶられ、アルバロは目覚めた。

「………ユウマ」

 そこにいたのだな―――と、自分を見下ろしてくる恋人の頬に手を伸ばした。

 いつの間にか、居眠りをしていたらしい。

 心臓が信じられないほどに乱打する。

「うなされてたよ」

「夢だ………ひどい悪夢だったのだ」

 そなたが死んだ夢だ―――と付け加えそうになり、別の表現に切り替える。

 心配そうに自分を見下ろしてくる明るい鳶色まなざしに、アルバロは、何気なさを装う。

 ホッと緊張を解いたユウマが肩をすくめた。


 大丈夫、彼はまだなにも気づいてはいない。


 心臓に悪い夢だった。

 そう、とても。

 悪夢の苦さに、アルバロの整った口角がゆがめられた。

「紅茶でも淹れて来ようか。たしか、”銀月の夜明け”のいいのがまだあったと思うんだ」

 最高級の茶葉の種類を口に出しながら部屋を出て行こうとする恋人のいまだ薄い背中を見やりながら、アルバロの琥珀の瞳には、悪夢の名残を見ているような、どこか辛そうな影が降りていた。


 茶器がトレイの上でたてる硬質な音とともに、ユウマが紅茶を運んできた。

 テーブルを挟んだ向かい側のソファに座り、ユウマが紅茶を飲む。かすかに仰のいた喉の白さが、アルバロの目に印象的に映った。

「どうかした? ”銀月の夜明け”好きだったよな」

 どこか不安そうなユウマの声に、自然と手がティー・カップに伸びる。

 彼を不安がらせてどうする――自分を諌めながらカップを持ち上げると、ユウマがホッと安堵した表情を見せた。

 平然を装いながら、ユウマは不安がっている。それを痛いほどに感じながら、アルバロは、カップに口をつけた。

 紅茶のかおりが、ぬくもりが、全身のこわばりを溶かしてゆく。

「ああ、ユウマ。そなたの淹れる紅茶はいつも美味いな」

「はは………」

 照れてへらりと笑う恋人の手を、軽く握る。

「え、えーと。晩飯、なんにする」

 焦ったように手を引こうとするのを、強引に引き寄せた。

 テーブルの上の茶器が甲高い音をたてて、アルバロの行動を非難する。

「そなたがいい」

「いや、そういうことじゃなくって」

「夕飯より、我はそなたを味わいたい」

 どきりとするほど鮮やかな笑みをうかべて、アルバロがユウマを見上げた。




** 抜けない棘 **




 大柄な兵士然とした見た目の男とすらりと均整のとれた細身の男が、さまざまないでたちの人々で賑わう町を歩いていた。

 なんの変哲もない旅人と見えたが、見る目のある者ならばその隙のない身のこなしから彼らが只者ではないと見抜いたことだろう。

 ミドガルズ王都より騎馬で十日はかかる辺境のさらに下町だというのに、さまざまな露店が軒を連ねそれら店主と客とのやりとりも盛んである。

「ほんの数年前はあんなに荒れていたというのに、我々は本当にたくましいな」

 微笑ましく見やりながら、店の主が勧めてくる果物を二つ買う。

「おお、ありがと。ん、美味いな」

 店主からひとつ受け取り、かぶりつく。

「で、噂の出処はこの辺りと聞いたが?」

 声を潜め、果物を手渡した男が見上げた。

「ああ。そうだ」

 果物の芯までを平然と飲み込み、男は両手をこすり合わせる。

 ぶつかりそうになる人混みを避けて、町外れの広場へと歩を進めた。

 泉水で手を洗った男に今一人が手ぬぐいを渡す。

「すまんな」

「洗って返してくれ」

「了解」

 木陰に設けられた椅子に並んで腰を下ろし、梢を見上げるともなく見上げた。

「………魔王が生きている」

 ぽつりと呟いた声が、初夏のそよ風に吹かれて消える。

「いったい誰が言い出したことか」

「そう。なぜ、魔王とわかった?」

「魔王の見目姿を知る者は限られているよな」

 男がたくましい首を振りながら言う。

「まさか、魔王がそう名乗ったとか?」

「どんな間抜けな魔王だ」

「確かに」

「………けれど」

「ん?」

「けれど、もし、魔王が生きているとするなら、勇者どのも生きているかもしれない………」

「ああ………」

 そうであれば。

 その思いは、おそらくはこの場に来ることのできなかった今一人も同じだろう。

 勇者本人はそうとは思わなかったかもしれないが、彼ら三人は、勇者に友愛と憐憫とを抱いていたのだ。

 同情など必要ないと切り捨てられはしないかと彼らが口にすることはなかったが、互いの思いは理解していた。

 異世界から無理やりこの世界へと呼びつけられて、戻ることさえも不可能と告げられた勇者の絶望の表情を、彼らは忘れられずにいた。

 誰にも涙を見せず人知れず静かに涙を流していた勇者の心を、いずれもが見てはいけないものを見てしまったと苦い思いを味わったことが一度ならずあったのだ。

 そうして本心を伝えることもなく、必要以上に親しくなることもなく、勇者を孤立に追いやってしまったという後悔があった。

 いずれは。

 寝起きを共にしていれば命がけの日々を共に過ごしていれば、いずれは胸襟を開いて語り合える日も来るだろうと。

 しかし。

 そんな日が来ることはなかった。

 どころか。

 いつの間に?

 どうして?

 最終決戦の数時間に知った真実を、彼らはまざまざと記憶に蘇らせることができた。

 いつの間に、魔王と知り合っていたのだ。

 しかも、あれほどに親密に、正体を知った絶望をその顔に宿すほどにまで。

 どうして、互いに思い合うなどという状況に陥ってしまったのか。

 我らのうちのいずれかが、勇者と親密になっていさえすれば、もっと胸襟を開いて語り合う日々を繰り返してさえいれば、あんな悲劇など起こり得なかったのではないか?

 例えば己が、勇気を振り絞っていれば。

 そんな悔いがいずれの胸の中にも抜けない棘となって深く刺さっていたのだ。

 ふたりが深い物思いにとらわれてどれくらいが過ぎたろう。

 不意に空が翳ったと思えば、

「魔王だ!」

「バルドロイだぞ!」

と、子供たちの囃し立てる声が聞こえたのだ。

 あまりにも不穏な言葉に、しかし、恐怖は孕まれてはいなかった。

 魔王と、バルドロイと、囃し立てる言葉には、ごっこ遊びのように、ただ面白がるような響きだけが込められていた。

 それでも、反射的に椅子から立ち上がったふたりは、そこに信じられない光景を見ることになった。




 けだるい。

 夜の闇の中、ふとまどろみが溶け、ユウマは寝返りを打った。そんな動作すらもが、腰にひびく。と、背後から伸びてきた腕が、頭を抱え込んだ。

 起こしたのかと思ったが、条件反射のようなものだったようだ。

 まぁ、いいけどな。

 こいつとこういうことをするのは、悪くない。そう、時々たがが外れたように激しいときがあって、泣き叫んでしまうときがあるけれど、おおむね、アルバロはやさしい。愛されているんだと思う。それに、自分も彼を愛しているんだろう。彼の瞳に、何気ない挙措に、意味を同意を求めようとしてしまう。まるで、初恋を知ったばかりのように、それを失わないように必死になっている。

 一年半前になるだろう、あの日気がついたとき、そこには、人とは思えないほどに端正な美貌があった。

 泣き笑いのように表情を歪めて、めずらしい琥珀の瞳がユウマを見下ろしていた。

(俺の一番初めの記憶ってそれなんだよな)

 わずかに一年と半年分の記憶しか、ユウマにはない。だから、この好きは、もしかしたら、所謂インプリンティングというやつなのかもしれないと、思うことがあった。

 卵からかえったばかりの雛が銀の頭の雄鶏を親だと思って追い掛け回している――そんな情景がまぶたの裏に浮かんできて、ユウマは声を押し殺して笑った。

 記憶のすべてを失ってしまった自分と、そんな自分のことをすべて知っているだろうアルバロという男。この、人里はなれた辺境の地のさらに果てには、ほかには誰も住んでいない。いきものをはぐくむことのない痩せた赤土に、嘘のようなと言ってことばが悪ければ、奇跡のような緑に囲まれた堅牢な石の家が建っている。断崖絶壁の上、あとは、遥か眼下に海があるだけだ。

 ほかに動くものといえば海鳥ていどの寂しい土地に、ふたりきり。まるで、なにかから逃れてでもいるかのようだ。

 いったい何があったんだろう―――

 あんたは、こんなところにいるような人間じゃないだろうと思うんだ。

 人間とも思えないほどの美貌と、その一挙手一投足にただ人ではない優雅さや威厳を兼ね備えた恋人である。

(なくなってしまった俺の過去ってどんなんだかな)

 何度、口に出して訊こうと思ったか。

 けれど、ユウマを惹きつけずにはおかないあの琥珀のまなざしの奥に、まだ癒えきっていない傷のようなものを感じて、口にできないでいる。

(いつか、あんたの傷が癒えた時でいいんだけどさ、教えてくれるかな)

 心の中でつぶやくと、ユウマはアルバロのぬくもりに包まれて、目を閉じた。

 そんな彼を、琥珀の瞳が見つめていることなど、ユウマは知るよしもない。

 愛しいものが再びの眠りに落ちてゆく気配を感じながら、アルバロは、その闇色の髪を飽かず弄ぶのだった。




** 招かれざる客 **




 初夏の穏やかな日々が過ぎてゆく。

 家の周囲の緑は鮮やかな若葉色に萌え、ここが荒野の果てだとは誰もが思いもしないだろう。

 寝室の窓からゆるやかに暮れてゆこうとしている外の美しいグラデーションを眺めやりながら、ユウマは肩をすくめた。

(ちゃんと客の相手ができてるんだろうか)


 ちょうど夕飯の支度をしているときだった。自分のものでもアルバロのものでもないひとの気配を玄関に感じた。

 珍しいな――

 事実、ユウマが知るかぎり、ということは一年半ほどの間ということだが、この最果ての地を訪ねてきたものはおろか迷い人のただの一人も存在しなかったのだ。

「はい?」

 ドアを開けたユウマは、夕焼けの中にたたずんでいるふたり組に、怪訝な顔をした。

 しかし、それは、訪問者のほうも同じだったらしい。玄関にたたずむユウマを認めて、ふたりは固まったのだ。

 まるで幽霊を見るような―――青ざめ顔をこわばらせた表情でユウマを見上げた青灰色の髪に灰色の瞳の三十代ほどに見える男と、背後に立つ縦にも横にもたくましい男は、しばらくの間、太古の神話にある女神を見て石に変えられたという者たちのように、身じろぎもしなかった。しかし、

「うちに用? それとも、迷った?」

と、訊ねたユウマに、青灰色の髪の男が前にかしいだ。

「おいっ? 大丈夫かっ」

「っ」

 とっさに手を出したユウマの腕の中に、男が崩れ落ちる。

「うわっ」

 しかし、ユウマには、男を支えるだけの力がない。

 尻餅をついたユウマの上から、もうひとりが男をはがし肩に担ぎ上げた。そうして、ユウマを助け起こしたのだ。

「大丈夫か」

「あ、ああ。ありがとう。で、あんたたちは、なに?」

「魔王…………はここに?」

 大柄な男の肩から降りた男が、かすかに震える声で、そう訊ねた。

「まおう?」

 首をかしげたユウマに、

「アルバロだ」

 言い直す。そうして、自己紹介をしたのだ。

 自分をさして聖魔術師ファルネーゼ、無精ひげの男を、聖騎士フレドだと。

 しかし、その名を聞いても、彼らを見たときと同じように、特別な反応を示すこともない。

「ああ、アルバロに、用ね。じゃあ、こっちだ」

 アルバロは自分の部屋で書物を読んでいるか、寝ているかだろう。ふたりには応接室で待ってもらおうとユウマは考えたのだが、その必要はなかった。

 騒ぎを聞きつけたのか、階段を下りてきていたアルバロにふたりが気づいたからだ。

「魔王っ」

 駆け寄るふたりに、

「ああ。よく来た」

 魔王と呼ばれたアルバロは、階段の途中から声をかけた。

 何か言いかけたふたりに、

「その部屋で待つがいい。我は別段逃げも隠れもすまいよ」

 ふたりが彼の指示に従うのを待って、アルバロはユウマを手招いた。

「ユウマ」

 端正な美貌に笑みを浮かべる。

「悪いが我がいいと言うまで寝室にいてほしい」

「でも……」

「我が頼むのだ」

 いつになく真剣な、今にも涙を流すのをこらえているかのような表情で、アルバロがユウマを見上げる。もとよりそんなアルバロに逆らえるわけもなく、ことば少なく諾と答えて、彼は今アルバロが下りてきた階段を入れ替わりに上ったのである。




** 対峙 **




「久しいの。いや、こうして話すのは初めてのようなものよな。ともあれ、聖魔術師、それに聖騎士よ」

 ユウマが沸かしておいた湯を使い紅茶を淹れたアルバロが、テーブルの上にふたり分のティーセットを並べた。

 それにふたりが目をむいているのを気にもせず自分で淹れた紅茶を一口すすり、

「やはりユウマが淹れたのには適わぬな」

 独り語ち、サイドボードから蒸留酒を取り出して紅茶に数滴落としこむ。

「何をしにきたのか、訊かないのか?」

「訊く必要などありはすまい」

 かすかに音をたててカップをソーサーに戻したアルバロが、足を組み替え腕を組んだ。

「噂は、本当だったんだな」

「さてな。我は聖魔術師が言う噂がどれをさしているかは知りもせぬ」

 (うそぶ)くように、アルバロが返す。

「……魔王が生きている」

 ファルネーゼの声が、低く重く軋む。

「そんな噂が、あんたが消えた後三年ほどしてミドガルズが王都にまで聞こえてきた」

 後を引き継いだのは、フレドだ。

「それだけか?」

「……私が王都で聞いた時は、まだそれだけでした」

 今は知らないということだ。

 だが、このふたりには、それだけで、真偽を確かめるのには充分だったろう。

「その後噂の出処を探り当て、辺境のジニまで出向きました。そこで、あなたを見かけたのです。それが約一ト月前のことです」

 そう、あの町、ジニの広場で子供達の声に反射滴に立ち上がった彼らが見たのは、肩に一羽の鳥を止まらせ、頭からフードをかぶったひとりの男の姿だった。

 子供達が面白がってバルドロイと呼んだのだろうとわかるような、子供の背丈はゆうにあるだろう大きさの鳥は、曲がったくちばしといい鋭い眼光といい、昔話に出てくる怪鳥そのもののようだった。しかし、本物のバルドロイがそんなに小さいわけがないことを彼らは実体験で知っていた。猛禽とはいえあんな柔らかそうな羽毛に包まれたものではかった。

 そう思い返し互いに顔を見交わした時だった。

 突然の突風に煽られて、男のかぶっていたフードが外れた。

 初夏の日差しにきらめく滝めいた銀の髪がふたりの目を射抜いた。

 瞬間。

 心臓が大きく脈を刻んだのだ。

 紛うことがない、あれは”魔王だ”と。

「一ト月……か。もう少し早くここがわかるかと思っていたのだがな。案外かかったものだ」

 アルバロの口から出た嘲弄含みの思いもよらぬことばに、回想は破られ、フレドの瞳が怒りよりも驚愕に見開かれる。

 ファルネーゼはといえば、あらかじめ予想していたのだろう、平然とした面持ちでアルバロを見やっている。

「まさか……噂を流したのは?」

「そうだ」

 ゆったりとうなづく。

「死んだはずの我が生きていると訊けば、かつての勇者の仲間のうちのいくたりかは来るだろうとわかっていたからな」

「噂の元はあなたでしたか」

 満たされた紅茶はすっかり冷めきっている。しかし、ファルネーゼはそれに手を伸ばし、口をつけた。

 喉が渇いていた。渇いた喉に、冷めた紅茶が甘い。

「消滅すなわち死んだというのは、やはり誤りでしたか」

「―――」

「愚問でした。では、死んだふりまでして姿を消した魔王が、手間暇かけて噂を流してまで私たちを呼んだのは、まさか」

 視線で、二階を指し示す。

「しかり」

「勇者は死んではいなかった---と」

 青灰色の瞳が、アルバロをまっすぐに見つめる。

 アルバロの琥珀色の目が、ファルネーゼの青灰色のまなざしを見返す。

 やがて、

「否」

 ファルネーゼのまなざしが大きく見開かれ、ぐいっとアルバロに顔を寄せた。

「ならばあれは………ホムンクルス?」

 真摯な表情で詰め寄ってくるファルネーゼに、アルバロの秀麗な眉間に縦皺が刻まれた。

「否」

 重い口調だった。

 かつて聞いたことがないほどに、厳しい口調だった。

「元勇者が生きていたわけでもなく、ホムンクルスでもない。ならば、彼は………」

 それでもファルネーゼは、一歩も引かない構えを解かない。

「ならば、彼は、なんだというのです!」

 ファルネーゼの悲鳴に近い叫びに、ゆっくりと魔王、アルバロは口を開いた。




** 悪夢 **




「バカなっ」

 悲鳴じみた声で、フレドが呻く。

「そういうわけだ。数日泊まっていくといい。我はここから動かぬさ」

 いつの間にかとっぷりと暮れた窓の外に、部屋の中も闇に染まっている。ふたりの顔も、うっすらと輪郭が確認できるていどだ。アルバロは手を指の一振りで照明を灯した。

 数瞬後、どこか憔悴したさまのふたりの姿が、照らし出された。


 


「あー、うまかった」

 腹をさすりながら椅子の背にどっかともたれるフレドを、

「行儀が悪いですよ」

と、ファルネーゼがたしなめる。

「ちょっと腕を振るってみたんだ」

 食後の紅茶を運んできたユウマが、うれしそうな笑顔をふたりに向けた。

 それを見たふたりの脳裏に何がよぎったのか、彼らはユウマから目を離すことができなかった。




「なんか妙なことになってきたな」

「………」

 客間のベッドに横になったフレドがファルネーゼに話しかける。

「ユウマくんのことですか」

「ああ」

 何年ぶりになるのだろう。

「魔王が消滅して五年目になりますね。ということは、我々がユウマくんに最後に会ってからも、それくらいになるということです」

 彼を勇者と呼んでいいのかどうか、正直悩んだ挙句、ふたりは彼が求めるままに名前を呼ぶことを選んだのだ。

「ぜんぜん変わってねぇな」

「魔王は老けたようですけど」

「老けたって……ファルネーゼ。ヤツは歳をとらないのじゃ?」

「さぁね」

「そうだな」

 それっきり、ふたりは闇の中で黙り込んだ。

 しんとした空気の中、沈黙が闇に溶けていった。




(……まおう?)

 ふたりの訪問客が口にした、唯一のアルバロの過去に関する手がかりは、それだけだった。

 気になる。

 気にならないはずはないのだ。

 ことは、恋人のことである。

 おそらく、彼らは、自分の知らないアルバロのことをいろいろ知っているにちがいない。

 アルバロについて自分が知っていることといえば、

(ものぐさで、やさしくて………変に偉そうですけべってことだな)

 それらは、自分が彼と暮らして知ったこと。なぜ彼がこんな辺境に住んでいるのか、ここに来る前の彼が何をしていたのか、自分は一切知らない。それは、自分自身の過去を知らないということともあいまって、不安材料のひとつだった。

 けれど、あの日、目覚めたとき、泣きそうな顔で自分を見下ろしていたアルバロの姿だけで、そんな不安など、些細なものだと思えもするのだ。だから、互いの名前と自分たちの関係を教えられ、それ以上の疑問は持つまいと決意したのだったが。

(まぁ、アルバロが教えてくれるのを待つつもりは待つつもりなんだけどな)

「どうした? 眠れないのか」

 背後から伸びてきた手に、

「そういうわけじゃ……ないけど。……ちょ、ちょっと、今日はまずい…………あっ……」

「気にすることはない」

 いたずらなくちびると手が、ユウマを煽ってゆく。

 かすかな痛みとそれを上回る快感の波に、ユウマは翻弄され、飲み込まれていった。




 気絶するようにユウマが眠ったのを確認して、アルバロはそっとベッドに上半身を起こした。

 立ち上がりかけて、眩暈(めまい)に襲われる。

 からだに残る快楽の余韻が、手足の先から冷えてゆく。

 全身が小刻みに震えだす。

 もう疾うに馴染んだ感覚だった。

 震える手を伸ばし、サイドテーブルの小引き出しから薬包を取り出し、開いた。そこには、赤黒い小指の先ほどの錠剤が数粒転がっている。一粒を口に含み、アルバロは嚥下した。

 からだの中心からすみずみへまで広がってゆくあたたかさを、目を閉じて味わう。

 やがて、アルバロのくちびるから、深いため息が押し出された。

(残るは三粒。………あれらはまるでこうなる頃合いを見計らって現れたかのようだな)

 独り語ちると、アルバロは、恋人の褐色の髪に手を伸ばした。




 それは、悪夢だった。

 忘れたはずの過去だった。

 何も覚えていないというのに、それを過去だと断じる自分に震えが走った。

 なぜなら。

 自分とアルバロとは敵対するもの同士だったからだ。

 ファルネーゼとフレドと今一人の仲間が自分を守ろうとしている。しかし、自分は、結局、最後、アルバロを選び、そうして、死んだ。

「アルバロ……」

 最期の最期、彼が教えてくれたその名を呟いて、そうして、自分は死んだのだ。


「アルバロッ!」

 喉の奥から搾り出されるようにほとばしった悲鳴に、眠りが破れた。

 途端、取り戻したと思えた記憶が霧散する。

 代わりに彼を捉えるのは、ひどい心臓の痛みだった。

 厭な汗に、からだが、冷たい。

 全身が小刻みに震え、激しい動悸に耳の付け根が痛んだ。

 無意識に恋人を求めてさまよう手に、熱が失せたシーツだけが触れた。

「アルバロ?」

 震える声で、恋人を呼ぶ。

 闇に閉ざされた室内に、彼の気配は、感じられなかった。

 しんと静かな部屋の中、自分の鼓動だけが、耳の奥で聾がわしい。

「夢……だ」

 言い聞かせるようにつぶやく。

 しかし、勝手に霧散した夢の粒を集める脳に、情景が鮮やかさを増してゆく。

 自分を抱きしめているアルバロ。今よりも若いアルバロの顔。彼だけを見ていた自分の視界の端に、青ざめた幾多の顔。その中には、突然の訪問客であるファルネーゼとフレドの顔も、あった。

 冷たい汗が、背筋を濡らす。

「夢なんだ」

 そうでなければ。

「アルバロ、夢だよな」

 すべてを話して、夢だと断じてほしかった。

 つまらない夢を見たものだと、笑い飛ばしてほしかった。

「どこだ?」

 アルバロを探すべく、ユウマはベッドを抜け出した。




** 真相 **




 気配に最初に気づいたのは、さまざまな疑問に眠れないでいたフレドだった。

 からだを横たえていたベッドの上に起き上がったフレドは、点された灯りの中に、魔王の姿を見出した。

「魔王………!」

 フレドが緊張する。

「驚かせてしまったか」

「っ」

「ああ、そう緊張することはない。かくべつ、そなたたちを害そうというわけではない」

「……ファルネーゼに用か?」

「いや。そなたらふたりにだ。深夜ではあるが、起きてもらおう」

 そう言って、

「聖魔術師」

 魔王の呼び声にぼんやりと起き上がったファルネーゼだったが、

「すまないがそなたらに頼みがある」

 かつて聞いた記憶がないほど真剣な声に、眠気がたちまち消滅する。

「それは、彼のことですか?」

「しかり。そなたらに話していないことがある」

「わかりました」

 引き寄せた椅子に腰を下ろし、アルバロは、話しはじめた。




「ユウマは、我を庇い、そうして死んだ」

 そう前置いて、アルバロは語る。

 最初に出会ってからさほど時も経たぬうちに、彼が他ならぬ勇者だと知ることになったのだが、それでも、彼との偶然の邂逅を楽しんでいる己に魔王は気づいていた。

 相手は勇者であるというのに---である。

 誰にも吐き出すことができずにいる苦悩を誰かもわからない己に対して吐き出す勇者の愚かさを面白いと思い、その弱さを可愛らしいと感じるようになっていた。それがいつ頃恋へと変わったのか、気がつけばその思いは深く魔王の心に根付いていたのだ。

 いずれ直接に対峙することになるだろう、勇者と魔王。その決して相入れることのない存在であるというのに恋慕してしまった己の愚かさをすら、魔王は面白い、興味深いと感じたのだ。

 その存在の突然の死。

 己を庇って死んだ愚かな勇者に、どうしようもない憤りと愛しさがこみ上げてきた。

 相手は死んだというのに。

 相手の死を受けれることができなかったのだ。

(なんと愚かな。我を庇うとは)

 ただひとつの望みは、ユウマの生。

 生きて、となりにいてほしいのだ。

 ただそれだけなのだ。

(そなたと引き換えにこの身が生きながらえようと、それになんの意味があろう)

 己の命が助かっても、そんなもの、もはやチリほどの価値もありはしない。

 すべてが、虚しい。

 ユウマが守ったこの命すら、ユウマの永遠の不在を思い出させる忌々しい証のようで、切り裂いてしまいたくなる。しかし、

(そなたの望みが、我の生だというのなら、自死はすまい。しかし………)

 最後の戦いで己をかばった勇者の亡骸と共に姿を消した。そのまま彼の骸を葬ることさえもできずにただ褥の上に横たえてどれくらいが経ったのか。

 まるで何者かの悪意ででもあるかのように未だ腐り朽ちることのないユウマを見下ろし、彼の心にわきあがってくるのは、打ち消しても打ち消してもこみあげてくる、切ないまでの欲望だった。




「なんてことを! じゃあ、あのユウマくんは………」

「しかり。あれは、確かに勇者なのだ。当然ながらホムンクルスなどでもない。しかし!」

「それでも! あなたはっ! あなたは、最期の一線を侵したのですね」

「そう。あれは、確かに勇者だ。だが、魔王と呼ばれ恐れられながらも、我の力も万能ではない。あたかも神の悪意がそこには介在するかのように、だ」

「でも、なにか。魔王という存在を鑑みれば、あなたは我々に発見されれば即討たれかねないというのに私たちを呼ぶほどですから、なにか大変な問題が起きたのですね?」

「明察と(よみ)するべきかな? さすがよな聖魔術師」

 何か飲むか? と、訊ねるアルバロに、ファルネーゼは首を振る。

 肩をすくめて、アルバロは、ベッドサイドの水差しを取り上げてコップに水を注ぐ。飲み干し、一息ついた。

「我はもう、そう長くはないのだよ」

 告白の内容に、ファルネーゼとフレドとがその場で固まった。

「……何を」

「戯れではない。ひとの命をよみがえらせるに、魔王と呼ばれる我であれ完全とは行かぬようでな。どうやら、あれの命の(しろ)として我の寿命を差し出さねばならなかったらしい」

「寿命を……ですか」

「しかり」

 魔王が喉を震わせて軽く、笑う。

「後払いとは。しかも、分割払いとは、誰かは知らねど洒落たことをする」

「?」

 ファルネーゼとフレドとが顔を見合わせる。

「聖魔術師、そなたは、ユウマを好いていよう」

 突然の話題転換だった。

 とっさに赤くなったファルネーゼが、

「な、なにを」

 うろたえる。

「隠すことはない。今のそなたがどうかは知らぬが、五年前はたしかに、我と同じ意味で、そなたもまた、ユウマを愛しておったろう」

 琥珀の瞳が青灰の瞳を覗き込む。その真摯な光に、ファルネーゼは折れたのだ。

「たしかに。私も、ユウマくんを愛していました。多分、今でも」

「それが聞きたかった」

 ふわりと笑い、魔王はつづける。

「ユウマは、五年前と少しも変わっておらぬ。あれは、老いぬ。そうよな。心臓が動いているのも、呼吸しているのも、血液が体中をめぐっているのも、すべては、錯覚でしかない。そう。あれは、死体に魂を繋げただけの不完全な存在に過ぎぬのだ。だから、我が消滅すれば、ユウマは、おそらく三日ともつまい」

「それはいったい」

 どういう意味です―――そうつづけようとして、

「ユウマが人並みに動いているのは、ひとの命を奪っているからにほかならぬ」

 いっそ冷徹なまでに言ってのけたことばを反芻し、

「まさか」

 ファルネーゼの顔が青ざめる。

「そう」

「あなたの気を、喰らっている?」

 静かに、魔王が瞳を閉じる。

「他人の気を喰らって、生きながらえている………我が無理やりよみがえらせた挙句、在り方を狂わせた。故に我が食らわれるのは、なにものかに下された罰であろうさ。潔く受け入れよう。しかるに、彼は、ユウマは、それを知らぬ。できれば知らぬままでいてほしいものなのだが、おそらく、それは、無理よな。彼は、聡い。いずれ気づく。仮に気づかぬままであったとしても、我が死ねば、いやでも気づく。当然よ。我は、彼を死なせたくはないのだ。聖魔術師。であればこそ、そのときは………」

「私に、あなたの代わりをしろ……と?」

「おまえは、ファルネーゼに死ねと」

「フレド、あなたは黙っていてください」

「しかり。我は非道なことを言っていよう。もとより。しかるに、そなたなれば」

「最低ですね。元魔王とはいえ、もうすぐ死ぬでしょうものの末期の願いを突き放せるはずがないでしょう! 一度死んだぐらいでは、その腹黒さはかわらないようですね」

「しかたあるまいよ。これが、魔王であればこそ」

 いっそ誇らしやかにアルバロが言ってのけた時だった。

 ドアの外で、ひとの倒れるような音がした。

「ユウマっ」

 誰よりもすばやい反応をみせて、アルバロがドアを開ける。

 暗い廊下にうずくまるユウマの褐色の髪が、ドアを開けた風圧に揺らいだ。




** 崩壊 **




 心臓が、からだの中で暴れている。

(これが、錯覚?)

 自分を抱きしめるアルバロのぬくもり。

(彼の命を、俺が奪っている?)

 そう長くはない―――

(嘘だ)

 耳を塞ぐ。

(イヤだ)

 目をつむる。

(信じたくないっ)

 首を振る。

(けど、俺が生きていると、アルバロの命が失われるんだ)

 こみあげてくる涙。

(なら、簡単なことじゃないか)

「ユウマ」

 目を開き、自分を見つめる美貌を見返す。

「アルバロ、愛してる」

 にっこりと笑いそう告げると、ユウマはアルバロにくちづけた。

(だから、もう、遅いかもしれないけれど………)

 とんと、かるく、アルバロを突き放す。

 そうして、ユウマは、後も見ずに駆け出したのだ。


「アルバロ、愛してる」

 鳶色の瞳の奥に、アルバロは恋人の決意を見て取った。

 厭な予感が、背筋を這いずる。それに、ほんの一刹那だけ気をとられた。

 軽い衝撃。

 遠ざかってゆくユウマの足音。

 アルバロは、考えるまも見せず、ユウマを追う。

 どれほどユウマの運動神経が良くても、アルバロは魔王である。”元”がつこうとも、魔王であるのには変わりがない。まだふたりともが家の中にいる間にアルバロはユウマに追いついた。

「ユウマ」

「はなせ、はなしてくれっ」

 腕をつかまれ、必死にからだをひねるが、アルバロはユウマをはなさない。

 ユウマがアルバロから腕を解放することができたのは、突然の大地の揺れのためだった。

 したたかに突き上げるような衝撃が、漆喰壁に皹を走らせ、一瞬の後に、壁が崩れ落ちた。

 剥落した漆喰は、偶然にもアルバロを直撃したのだ。

 その場にうずくまったアルバロに、「大丈夫か」と声をかけたかったが、自分は今アルバロから逃げているのだと、踵を返す。

 数度頭を振り、ふらつきながらも立ち上がったアルバロは、

「ユウマ」

「くるな!」

 拒絶の声に、アルバロの足が止まった。

 アルバロの背後から、ファルネーゼが、フレドが、下手に動くこともできずに、イヤイヤと首を振るユウマを見ていた。

「俺が、俺がいると、あんたが、死んでしまう。そんなの、俺には耐えられない。だって、俺は、あんたを助けるために死んだんだ」

「ユウマ、構わぬ。構わぬから。そなたは我のものであろうが! であればこそ我の元へ来るのだ!」

 差し伸べる手を、かたくなに拒絶する恋人に、かすかに、アルバロの眦が切れ上がる。

「ユウマ!」

「助けるために死んだのに、なのに、あんたが俺のせいで死ぬなんて。それくらいだったら、俺が、死ぬ! そうすれば、あんたは、まだ、生きていられる。俺の望みは、あんたが、生きていることなんだ」

 喉も裂けよと叫び、ユウマは、アルバロに背を向けた。

 ユウマの姿が見えなくなる。

 しばらく呆然と我をなくしていたらしいアルバロが、剥落して骨組みを見せている壁に両手を打ちつける。壁に打ちつけたままの両の拳に白い額を乗せ、

「それでも! そなたのおらぬ生など、我には塵芥ほどの価値もありはせぬのだ」

 血を吐くような独白だった。

「よかろう………」

 低くつぶやくと、アルバロは顔を上げ、ユウマを追いはじめる。

「魔王っ」

 駆け出したアルバロを追って、ファルネーゼとフレドもまた走り出した。


「いったいどこに………」

 月の光に影を落とす、木々のつらなり。

 ざわざわと初夏の風が、木々を揺らす。

 初夏の夜空を、黒い雲が駆け抜ける。

 月が雲に飲まれ、吐き出される。

「どこか、勇者の気に入りの場所とか」

 ファルネーゼの示唆にしばらく考え込んだアルバロが、

「もしやすれば」

と、木立の中に分け入った。

 よみがえったばかりのユウマがリハビリに崖まで散歩をしていたことを思い出したのだ。

 ユウマは、崖から水平線を見るのが好きだった。

 ―――すべてに溶け込んでしまいそうで、安心すると、言っていた。

(いそがねばなるまい)

 あんな崖から飛び降りたりしたら、人間などひとたまりもない。

(間に合うか)


 雲間から吐き出された月が、陰画紙のような光景を照らし出す。

 闇の陰影。

 波間に踊る月光に、ユウマの全身がきらきらと輝き、アルバロの不安をあおる。

「ユウマ。ここへ」

「いやだ」

 かたくなな態度に、アルバロの秀麗な表情が、ゆがむ。

「俺はおまえに迷惑をかけたくなんか、ないんだ」

「迷惑などではない」

「あんたを、殺す存在なんだぞ」

 泣きそうな顔をして、ユウマが、アルバロを見やる。

「俺がいる限り、おまえは生気を吸われてしまう。そんなの、俺は」

「よいか、ユウマ。そなたが死ねば、我も、そなたの後を追う。間違いなく追う。そなたは、我を生かそうと己を殺すのであろうが、そなたの死は我を殺すことになろう」

「そんな」

 力ない悲鳴が、その場にこぼれ落ちる。うろたえたユウマが、首を左右に振りつづける。

「なにをうろたえる。過日言い置いたはずだ。そなたこそが我の帰る場所だと。帰る場所がなくなれば、我は気が狂ってしまおうぞ」

 一気に数歩進みより、ユウマに向かって手を差し伸べる。

「悪党だ。おまえは。いったい、俺にどうしろって言うんだよ」

 張りのない、泣き笑いのような、声だった。

「生きろ」

「もともとが、死人だろ、俺は。俺は、おまえに迷惑をかけてまで生きていたくない」

「それでも、だ。そなたをよみがえらせた、不完全によみがえらせたのは、我の罪に他ならぬ。その上で生きろと言うは、我のエゴだ。わかっている。しかし、それでもなお、そなたに生きていてほしいのだ」

 琥珀の瞳が、惑い揺れる鳶色のまなざしを、凝然と見つめる。

「おまえのいない生を、俺に強要するなんて、ずるい」

 自分はこの恋人に勝てるはずがないのだとうなだれたユウマに、満面の笑みをたたえたアルバロが、残る距離を一気に無にしようとした。


 そのとき――――


 木立の中でアルバロの姿を見失ったファルネーゼとフレドが、ようやく彼らを見つけ出したときのことだった。

「ユウマくん」

 よかった―――と、胸を撫で下ろしかけ、逆転する。

「!」

 それは、誰の、悲鳴だったのだろう。


 それは、突然のことだった。

 再び、大地が、揺れた。

 大きく突き上げるように地面が揺れ、ファルネーゼとフレドは足元を掬われ、支えを求めずにはおれなかった。

 ファルネーゼとフレドの揺れる視界の中で、突然、アルバロの足元が崩れた。

 ユウマが、アルバロを突き飛ばし、アルバロの伸ばした手が、虚空を掻く。

 かろうじて掴むことができたユウマの右手首。

 気を失っているのか、ユウマの反応はない。

 揺り返しに、大地が苦鳴を上げる。

 ファルネーゼもフレドも、足を掬われ、ふたりのもとになかなかたどり着くことができない。

「ユウマくんっ」

 ファルネーゼとフレドの悲鳴が、ひときわ大きく響いた。


 アルバロが、大地の揺れをこらえ、ユウマを引き上げようと必死になっている。

(あの時と同様よな)

 自分の命を救って、恋人が死ぬ。

 五年前の悪夢をなぞるかのように、繰り返されようとする運命。この皮肉が、死人をよみがえらせた罪だというのだろうか。

 一度死んだものがよみがえることを、自然は、神の摂理は、決して許さないのか。

 視界が、涙でかすむ。いや、これは、汗だ。汗が、目に染みるだけだ。

「ユウマ……」

 もう少しだ。

 気を失っているのならば、失っているままでいてくれ。

 左腕が抜けてしまいそうだ。

 しかし、腕などいくらでも捧げよう。

 ここで、諦めれば最後、海がユウマを飲み込むんでしまう。

(我から、二度もユウマを奪うな)

 何とも知れないものに祈る。

 魔王たるものが祈るのは、神なのか、悪魔なのか、それとも、運命か、摂理か。もしくは、自然そのものなのかもしれない。

(相手が何者であろうと構うことはない。ユウマを救うというのならば)

 残る右手を大地つく。全身に力を込めて、引っ張り上げようとする。しかし、もう少しと思うたびに地面が揺らぎ、危ういバランスをあざ笑う。

 あと少しであるというのに。

 ぎり……と、男にしては赤すぎるくちびるをアルバロが噛みしめたときだ。

 音たてて、アルバロが右手を突いている崖が、崩れ落ちた。

「危ないっ!」

 あと少し遅れていれば、かろうじて保ち堪えていた均衡が砕け、アルバロはユウマもろとも海へと飲み込まれただろう。

 しかし、ファルネーゼとフレドとがからくも間に合った。

 ファルネーゼがアルバロの腰を抱え、そのベルトをフレドが掴み、残る腕を木の幹に絡ませる。

「フレド」

「わかっている」

 ふたりとも、必死である。

 まだ、地面は揺れているのだ。

 こんなに長い地震など、このあたりでは珍しい。地震に慣れていない彼らである。

「……ん? ああ、アルバロ、無事だったんだ」

 目の前で笑んだユウマに、状況も忘れて、アルバロはできる範囲で天を仰ぐ。

「ああ。そなたの力よ」

「よかった」

「ユウマ。よいか。左手を伸ばすのだ」

 だらりと下がったままの手をつかもうと、アルバロの右手が伸ばされる。しかし、自分の状況を見て取って蒼白になったユウマが、静かに首を振った。

 青ざめた顔に笑みを貼りつけて、静謐な光をまなざしに宿して。

「ダメだ。折れたみたいだ。それに、肋骨も。多分、肺も心臓も。本当に、おしゃかだな、俺の」

「治してやる」

 また同じやりとりか――と、アルバロの眉間に縦皺がくっきりと刻まれる。

「幾度であろうと。そなたが嫌だと泣き叫ぼうと。そう。なにも考えず、我に全てを委ねよ! 我こそがそなたの帰る場所なのだ」

「ああ。そうだ。おまえは、俺が帰る場所。………ばかだよな、おまえって」

「しかり。そなた同様我もまた」

 ふたりが、顔を見合わせて、笑った。



「ファルネーゼっ!」

 ファルネーゼとフレドが力をあわせて、そのときようやく、ふたりを崖から引きずり上げたのだ。



 長い夜が明けた。

 寝室に、カーテン越しの朝日が差し込む。

「結局もとの鞘なわけですね」

「ファルネーゼ、ほんっとうにいいのか?」

 ため息をついたフレドに、

「ふたりとも、疾うに死んでるんですよ」

と、ファルネーゼ。

「ありがとう」

と、骨と内臓とを治療されベッドの上に横たわったままで、ユウマが苦笑いを返す。

「いいんですね、ほんとうに、それで」

「ああ。我らにこれ以上の最期はないだろう」

「後悔は」

「しない」

「ああ」

「結局無駄足だったわけですね」

「ガセネタをつかまされたってことか」

 あーあと、盛大にため息をつきながら、フレドが頭を掻く。

「しかたありませんね。たまにはこんなこともあるでしょう」

 ファルネーゼが、いたずらそうに、しかし、瞳の奥に痛みを潜めて、言い切った。

「必要なものがあれば、持って行くがいい。もはや我らには不要なものばかりだ」

「荒野を越えるのは大変だろうしな」

「助かりますよ。遠慮なく。それと………」

 ひょいとファルネーゼがユウマの顔の上で上半身を傾けた。

「っ!」

「聖魔術師っ」

 真っ赤になって絶句するユウマと、叫ぶアルバロ。

 そんなふたりに、

「失恋記念です」

 ファルネーゼが、にやりと、笑った。

「では、ふたりとも、私たちはそろそろ、おいとましますよ」

 いつまでも元気でということばを飲み込んで、ファルネーゼが、手を振る。その後ろでは、フレドが。

「もう行くのか」

「荒野を越えるのは、時間がかかりますしね。それでは」

 今度こそ、最後になる別れを告げて、ふたりは、ドアをくぐった。

「ありがとう」

 ユウマのことばに、背中を向けたままふたりは手を振った。

 流れる涙を、見られたくなかったのだ。

 こうして、ファルネーゼとフレドは、かつての宿敵と片思いの相手に別れを告げたのである。



 彼らを見送るように、巨大な鳥が空を舞ったことに彼らは気づくことがなかった。それは、数度大きな輪を描くと、石造りの家の屋根に羽を休めた。




** エピローグ **




 それから一年、かつては荒野の一軒家であった石の家を訪ねたファルネーゼとフレドは、その地の変貌に目を見張った。

 家の周囲の緑は、石の家を飲み込み、少しずつ版図を広げている。

 ユウマとアルバロの骸と想いを苗床に、いずれ、荒野は豊かな森へと姿を変えるのだろう。

 どちらか片方だけでは生きられなかった、運命の恋人たちを思い、ファルネーゼとフレドはかつて石の家があった方へ向かい黙祷を捧げた。

 どこか遠くで巨大な鳥が一度羽ばたいたような気がしたが、それはおそらく彼らの錯覚だったのだろう。


 一年前には聞かれなかった、小鳥たちのさえずりが、今はまだ森とは呼べない緑の繁から聞こえてきた。


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